Saturday, April 5, 2008
 
■ 3|チベットから帝国主義侵略勢力を追放する ■
 
1951年の始めに、ダライ・ラマ14世は、中国政府の要求により、チベット代表団を北京に送った。この時、ダライ・ラマは弱冠16歳だったが、租税徴収の公正化を実現して国民を喜ばせるなど、意欲的な統治者ぶりを発揮し始めていた。
しかし平和な宗教国家として、わずか8,500人の国境警備隊しか持たないチベットは、中国の軍事圧力に屈するしかなかった。
 
チベット代表団は、17項目の協定案を最後通牒として提示され、
従わない場合は、より以上の軍事行動を展開する、と脅迫された。
ダライ・ラマの訓示を仰ぐことは禁ぜられ、
中国側が偽造したチベット印璽で調印することを強要された。
 
その第一条は、以下の文面であった。
 
 「チベット人民は団結して、チベットから帝国主義侵略勢力を追放すること。
  チベット人民は母国中華人民共和国の大家族に復帰すること。」
 
これには、二重の虚偽が含まれている。
第一に、この時、チベットにはいかなる外国勢力もなかったのであって、
外国勢力といえば、チベットが1912年に最後に追い出した中国人兵力だけであった。
 
第二に、チベットが中国の一部であるという主張も、強引に史実をねじ曲げたものだった。
チベットは、史実の伝わる1300年以上の歴史を通じて、
かつて漢民族によって支配されたことはない。
元と清の皇帝はラマ教(チベット仏教)に帰依し、チベットの宗主国の立場にあったが、
前者はモンゴル民族であり、後者は満洲民族である。
漢民族はそれらの帝国の植民地の一部であったにすぎない。
 
協約の第2条は
 「チベットの地方政府は、人民解放軍がチベットに入って
  国防を強化するのを積極的に助けること」、
第8条は「チベット軍を中共軍に併合する事」を規定し、
第14条は「外交上のあらゆる権限をチベットから剥奪」していた。
 
協定が調印されてからまもなく、聖都ラサにも、中共軍一万人規模の駐屯が始まった。
かれらは何一つ携帯しては来なかった。
ことごとくわれらの貧弱な糧食源から供給をうけるつもりであった。
穀物の価格が突如として約10倍にも高騰した。
バターが9倍、一般穀物が2倍ないし3倍になった。
ラサの民衆は飢餓の縁まで零落した。
 
 
■ 4|夫の急死 ■
 
1955年春、アデに長男チミ・ワンギャルが生まれた。
しかし、この時には、夫サンドゥ・パチェンは、アデの兄たちや、
姉の夫ペマ・ギャルツェンとともに、中共軍と戦う決意を固めていた。
 
翌56年の早春には、多くの地域で戦闘が始まっていた。
サンドゥは、アデと幼いチミを、ラサにいる裕福な親戚のもとに避難させる事にした。
 
出発に先立ち、地域の人を集めて送別の宴を開いた。
ところが、サンデュが出された肉を食べた途端、胃をかきむしり、
叫びながら地面に倒れた。アデは彼のもとに駆け寄った。
何人かの人々が村医者を呼びにいった。
しかし、サンデュは医者が来る前に、あっけなく死んでしまった。
彼の皿に毒が入れられる所を見た人はいなかったが、中国側のしわざと誰もが思った。
 
多くの友達や家族が、遺体の周りに立って泣いた。
すべてが一瞬の出来事だったので、アデは呆然とするばかりだったが、
目から涙がこぼれだした時には、気を失って倒れた。
この時、息子のチミは1歳、アデは次の子どもを宿していた。
 
アデに実の母親のようにやさしくしてくれた姑のマ・サムプテンは絶望状態に陥り、
息子の死の衝撃から立ち直れずに、半年後に亡くなった。
アデは息子とともに、実家に戻った。
 
 
■ 5|「民主改革」始まる ■
 
56年春にはカンゼ地区での「民主改革」が始まった。
僧院の所有地が没収され、僧たちは農耕を強制された。
耕作は、ミミズや虫などの小さな生き物の命を奪うために、僧たちには許されていなかった。
このチベット仏教の教えを否定するために、
僧たちは蠅や鳥などを殺すノルマを与えられた。
 
人民裁判がさかんに開かれ、子どもたちは両親を、使用人は雇い主を、
僧院の農民は僧たちを告発するよう要求された。
アデは、自分の家族と親しくしてきた僧が、四つん這いにさせられ、
中国人の女性兵士から顔に小便をかけられるのを見た。
群衆は、自分たちの僧が辱められるのを見て、泣いた。
 
民衆はすべての貴重品を提供するよう要求された。
アデの指輪、腕輪、伝統的な装飾品、そして上等の服まで没収され、
古いすり切れた洋服だけが残された。
 
中国兵たちは、仏壇から仏像を持ち出し、
「仏像を撃ったら、極楽に上がっていくかどうかを見てみよう」
と言って、射撃の的にした。
 
貴重品を隠そうとする人々には、容赦ない拷問が加えられた。
後ろ手に、両手の親指だけを縛られて、吊り下げられた。
この方法では、あまりに多くの人が死んでしまうため、
後には、竹串を指と爪の間に差し込む方法に変えられた。
 
 
 
■ spiral氏のブログ『新・へっぽこ時事放談』紹介記事より 『チベット・ホロコースト50年』その2・中共軍侵略