■ 9|中共軍「反乱を鎮圧」 ■
法王の脱出に気がつかなかった中共軍は、3月19日午後2時から、宮殿に向け一斉に砲撃を開始した。集中砲火は41時間続けられ、宮殿はハチの巣のようになった。3日間で、1万から1万5千人のチベット人が殺された。
宮殿の内外は死体で埋め尽くされ、中共軍は法王の死体を探し回った。
中共軍は、さらに「反乱を鎮圧」するために、チベット全土に戒厳令を敷き、
23日までにラサだけで4,000人を逮捕した。
中共軍の内部資料によると、10月までにラサおよびその周辺地域で
8万7千人のチベット人を殺害したという。
3月28日には、中国国務院が周恩来首相の名で、チベット政府の解散と、
その職権を「チベット自治区準備委員会」に移すことを発表した。
そしてダライ・ラマ法王が「拉致」されている間、
パンチョン・ラマを準備委員会主任代行に任命した。
パンチョン・ラマは、ダライ・ラマ法王を助けるために、チベットに現れたと信ぜられ、
法王に次ぐ宗教的権威を認められてきたが、世俗的権力はなかった。
このパンチョン・ラマも、中国の傀儡にはならず、
89年には「チベットは中国から得たものよりも、失ったものの方が大きい」
という歴史的な声明を発表し、そのわずか4日後、謎めいた不慮の死を遂げた。
■ 10|ヒマラヤ超え ■
世界中の新聞が、ダライ・ラマ法王のラサ脱出を一面で報じ、その安否を気遣っている間、
法王の一行約100人は、200名の兵士、ゲリラ兵に守られて、
徒歩でラサから道もない広大な山岳地帯を南南東に進み、
ヒマラヤの主幹をなす連峰を横断して、インドへ向かっていた。
国境に近づけば近づくほど、旅は、よりいっそう難渋をきわめた。
そうして、つづく二、三日というもの、大吹雪、雪に反射するぎらぎらする光、
それから滝のようにおちる激しい雨などの異常な連続によって、
わたくしたちは悩まされた。・・・
非常に寒かった。指や手は感覚を失った。そして眉毛が凍りついた。
・・・こうした旅のあいだに、口ひげの伸びた人々もかなりあったが、
その人々の口ひげには、氷がいっぱいついた。
それでもわたくしたちは、別に着替えを持っていなかったから、
暖を保つ唯一の方法としては、ただ歩くことだけであった。
途中の村で、中国側がチベット政府を解散させたというニュースを聞き、
法王は同行していた人々で臨時政府を作り、
その宣言のコピーをチベット全土に送った。
法王の一行が、正式な許可を得てインドに入国すると、
町や村では、心からの親切な歓迎をした。
ネール首相も電報で、歓迎と、無事の到着を喜ぶメッセージを送ってきた。
さらに全世界からの百人を超す新聞記者やカメラマンが待ちかまえていた。
法王の亡命後、数ヶ月のうちに、およそ8万人のチベット人が、
同様に困難な国境越えをして、逃れてきた。
途中で行き倒れになった人数は数知れない。
■ 11|アデの悲しみ ■
アデは16年の刑期が終わっても、釈放されなかった。
常に囚人の先頭にたって、中国人看守たちに反抗したからである。
厳しい生活環境、過酷な強制労働、そして看守達の懲罰を、アデは耐え抜いた。
1960年にゴタン・ギャルドの収容所に一緒に移った百人の女囚のうち、
3年後に生き残っていたのはアデを含め、わずか4人であった。
21年目の1979年、アデは生まれ故郷への15日間の旅を許された。
バスが故郷のカンゼ停留所に着くと、
通りにたくさんの中国人がいることに驚かされた。
標識はすべて中国語で書かれていた。
実家の家も、土地も家財道具も、すべてが没収されていた。
森や丘を眺めるだけでも、丘が文字通り不毛の地になるまで、
薬草や花がやみくもに採取されていることがわかった。
私はその荒廃ぶりに圧倒された。
生命あるものに対して、これほど完璧に敬意の念が欠けているということは、
いったいどういうことなのか理解できなかった。
私の若いころにはとても活気に満ちていた。
カルナン僧院、カンゼ・デイツァル僧院、デ・ゴンボ僧院は完全に破壊され、
略奪されていた。カンゼ・デイツァル僧院が以前建っていたところには、
野生の灌木が生い茂っていた。
アデの母と兄の一人は、飢饉で餓死していた。
二人の兄は人民裁判で暴行され殺された。
最愛の姉ブモは、ゲリラのリーダーだった夫ペマ・ギャルツェンの処刑後、
発狂して死んだ。
息子のチミはアデが連行されてから、狂ったようになり、
母親の名前を呼びながら、泣き叫ぶばかりで、
そうしているうちに、川に落ちて死んでしまったという。
アデが逮捕された時、生まれたばかりだった娘タシ・カンドは、
アデの幼なじみのツォラが育ててくれていた。
アデは22歳になっていた娘を初めて見た。
娘は近く結婚する事になっており、アデは幸せな生活を送って欲しいと、
自分の悲惨な過去についてはあまり話さなかった。
私は悲しみでいっぱいになりながら、ワ・ダ・ドゥイ(収容所)に戻る準備を始めた。
またバスに乗り、カンゼを通り過ぎるとき私が考えていたのは、
「もう何も残っていない」ということだけだった。
苦痛、別離、そして失ってしまった21年間が、
すべて心の中にこみあげてくるような気がした。
それは本当に耐え難いものだった。そして、いまの私には何も残されていなかった。
アデが釈放されたのは、逮捕から27年目の1985年だった。
アデはその後、インドに脱出し、
ダライ・ラマ法王がチベット亡命政府を組織しているダラムサラに住むようになった。