■ 6|アデの逮捕 ■
カンゼ地区の男たちは、森に潜伏して、中共軍にゲリラ戦を挑んだ。アデは50〜60人の女性とともに、密かに中国側の動きを伝え、食料を供給する役を果たした。抵抗組織のリーダーの一人は、義兄のペマ・ギャルツェンだった。
各地の抵抗組織は、中共軍の駐屯地を攻撃し、多大の損害を与えた。
しかし中共軍は、飛行機による爆撃や、数万人規模の兵力を投入して反撃した。
チベット亡命政府の発表では、戦闘による犠牲者は43万人に上るとされている。
ペマ・ギャルツェンも、カンゼ地方の中国人行政官を夜襲し、
高級将校二人とともに、殺害した。
この成功の知らせはチベット中の人々の望みを高まらせた。
しかし、この事件で、アデの兄オチョエを含む地区の行政委員が告発され、
処刑されると発表された。ギャルツェンは、オチョエを救うべく、
仲間とともに山を下り、投降した。
ギャルツェンの仲間の一人が、拷問の末、支援者としてアデの名を漏らし、
早朝6人の中国兵がアデを逮捕しに来た。
アデが子どもたちをおいてはいけないと抵抗すると、
彼らはアデを殴ったり、蹴ったりして、ロープで縛った。
泣き叫ぶ息子のチミがアデにまとわりつくと、中国兵は押し返して、
ブーツで蹴り上げた。なおも抵抗するアデを家の外まで引きずり出した。
■ 7|我々は、お前を一生苦しめたいのだ ■
アデに仲間の名前を白状させようと、中国兵たちは拷問を続けた。
両手を頭の上にあげて、二つの鋭い三角形の木の上にひざまづくよう強要された。
腕を下げると、ライフルの柄でひじをなぐられた。
またある時は、極細の竹棒を人差し指の竹の間に、
第一関節まで少しづつ突き刺していった。
獄中では、何ヶ月も手錠をかけられたままだったので、
両手とも手のひらまで腫れ上がった。
監獄の仲間たちは、そんなアデの食事や用足しを助けてくれた。
それでもアデは仲間の名前を白状しなかった。
ある朝、アデは車で軍司令部の近くの平原に連れて行かれた。
膨大な数の群衆が集まっていた。横20センチ、縦10センチほどの板が首にかけられた。
そこに義兄のペマ・ギャルツエンが、同じように首に板をかけられた姿で、
連れてこられた。アデとペマは向かい合ってひざまづかされた。
ペマは両手を後ろにきつく縛られ、のどにもロープを巻きつけられて、
ろくに話すこともできない状態だった。
それでも、殴られて赤く腫れあがった顔で、アデにほほえみかけた。
拡声器から声が流れた。
「本日、我々はペマ・ギャルツェンの処刑を行う。
アデ・タポンツァンは、残りの人生を通して苦しませるという判決が下った。
本日、彼女には16年の『労働による矯正』が宣告された。」
二人は立ち上がるよう命ぜられた。
アデは「さあ、早く三宝(仏法僧)に祈りを捧げるのよ」と言った。
ペマはうなづいた。
後ろから2発の銃声が聞こえ、ペマはアデの前に倒れた。
脳の破片と血液がアデの服の上に飛び散った。
アデは中国兵に、自分も殺してくれ、と頼んだ。
「だめだ。もしお前を殺しても、いま目の前にいるペマ・ギャルツェンと同じだ。
一瞬で終わってしまう。我々は、お前を一生苦しめたいのだ。
もう誰が勝ったかわかっているな。」
拡声器は、「自分たちのいうことを聞けば、幸せな生活が待っている。
さもなければ、ペマ・ギャルツェンと同じ運命が待っている」と群衆に叫び続けた。
1959年晩冬の日だった。この日からアデは各地の収容所を転々とし、
強制労働に耐えつつ、持ち前の強い気力で餓死や病死をまぬがれた。
釈放されたのは、26年後、1985年のチベット正月であった。
■ 8|法王の脱出 ■
1959年3月10日、数万の群衆がダライ・ラマ法王のいるノルブリンカ宮殿を包囲した。
その日、法王は中共軍司令部での演劇に招待されていた。
しかも中共側は法王が護衛なしで来ることを要求していたのである。
今まで東部チベットで、高僧が中共軍司令官からパーティに招待され、
殺害、あるいは、投獄されるケースが4回もあった。
群衆は、法王を中共軍の手に渡すまいと決意していた。
法王は中共軍司令部に大臣を派遣して、
「訪問に反対する民衆の熱意があまりにも強固なので、断念せざるを得ない」と告げた。
中共軍の将軍たちは激昂して叫んだ。
「いままではわが政府も我慢づよかった。しかし今度の事件は叛乱である。
これが決裂点である。われわれは今こそ行動にでるであろう。だから覚悟しろ。」
群衆は、何日経っても、宮殿のそばから離れなかった。
3月17日、中共軍陣地から発砲された重臼砲の砲弾2発が宮殿の近くに落ちた。
法王はこのまま宮殿にいれば、中共軍と群衆の対立がいや増すだけだと考え、
国外脱出の決意を固めた。
群衆の指導者の協力も得て、法王は一兵卒に変装し、その夜、ひそかに宮殿を脱出した。