改憲国民投票法案情報センター
 
『朝日新聞』社説 2007年5月2日
憲法60年—戦後からの脱却より発展を
 日本国憲法はあす、満60歳になる。
 60回目の記念日を迎える環境は、これまでとはだいぶ違う。時の安倍首相が「改憲を政治日程に乗せる」と明言し、7月の参院選挙では争点にしたいと意気込んでいるからだ。
 そのための手続き法である国民投票法案が、間もなく国会で成立する運びだ。これだけ空気がざわつくのは初めてのことだろう。
 なぜ憲法改正が必要なのか。安倍氏は雄弁に語ってきた。そのポイントは次のようなものだ。
◇祖父譲りの改憲論
 いまの憲法は占領時代に、GHQ(連合国軍総司令部)の素人が短期間で書き上げ、日本に押しつけたものだ。時代は移り、9条など現実にそぐわない条文も出てきた。国の基本法である憲法を、国民自らの手で白地から書くという決意と精神によって、この国に改革の気概がみなぎってくる。そうすることで精神的に占領を終わらせることになる——
 占領時代とか、GHQの押しつけとか、今の若者世代にはぴんとこない表現だろう。それもそのはずだ。こうした論法は、首相が尊敬してやまない祖父、日米開戦時の閣僚だった岸信介元首相らが半世紀も前に言っていたことだった。「占領の後遺症の根絶」「真の独立の回復」などがキーワードだった。
 そもそもは敗戦や米軍による占領への屈辱感が根底にあったに違いない。だが、憲法ができて年月がたつうちに、攻撃の対象は「押しつけ憲法」「占領」から、それに基づいて形づくられた戦後日本の歩みそのものにも向かざるを得なくなる。
 「戦後レジームからの脱却」を言う安倍首相から、「戦後」に否定的な視線が感じられるのもそのためだろう。
 さて、そんな安倍氏とはまったく逆に、憲法によって戦後日本は世界史にもまれな幸運なスタートを切ったという見方もある。
◇「日米合作」の反論
 お笑いコンビ「爆笑問題」の太田光さんは、ベストセラー「憲法九条を世界遺産に」のなかで、憲法の制定過程についてこう語っている。
 「日本人の、15年も続いた戦争に嫌気がさしているピークの感情と、この国を二度と戦争を起こさせない国にしようというアメリカの思惑が重なった瞬間に、ぽっとできた。これはもう誰が作ったとかいう次元を超えたものだ」
 「この憲法は、敗戦後の日本人が自ら選んだ思想であり、生き方なんだと思う」
 こうした言葉からはっきり読み取れるのは、戦後日本社会に対する太田さんの肯定的な視線であり、楽観主義だ。
 太田さんも読んだという「敗北を抱きしめて」の著者で、米国の日本史研究者ジョン・ダワー・マサチューセッツ工科大教授は、次のように書いている。
 「なんと多くの日本人が平和と民主主義の理想を真剣に考えていたことか! もちろん、平和と民主主義こそ、私自身の国がたたかい取ろうと努力している当のものにほかならない。日本人も私たちと同じ夢と希望をもち、同じ理想とたたかいを共有しているのだ」
 憲法を米国の「押しつけ」ととらえるのではなく、理想に突き動かされた日米両国の人々による「合作」と見る。そんな柔らかな見方でふたりには共通するものがある。
 憲法によって、私たちの社会は大きく変貌(へんぼう)した。
 男女の平等が保障され、だれもが選挙権をもつ。何を主張をしようと、どんな宗教を信じても自由であり、不敬罪や治安維持法などは存立しえない社会になった。天皇から国民へ主権が移り、国民が主人公になった。
 太田さんたちが評価するのは、この自由と民主主義の価値が憲法によって日本にもたらされ、さらには戦後社会に深く根付いたということだろう。
◇外交政策の十八番
 不思議なのは、憲法について否定的なことを言う安倍氏が、自由や民主主義の価値を語るときはうってかわって肯定的な姿勢に転じることだ。いまや、外交政策の「十八番(おはこ)」に使っている。
 「日本と米国は普遍的な価値を共有している」として、日米同盟の強化を言う。「共通の価値」を持つ豪州やインドと連携して中国を牽制(けんせい)する。NATO(北大西洋条約機構)とも連携する。総称して「価値の外交」とも呼ばれる。
 こうして首相が高くうたい上げる「価値」は、実はいまの憲法が日本社会にもたらし、国民が戦後60年をかけて培ってきたものにほかならない。そのことに安倍氏は気づいているのだろうか。
 この「戦後」と、首相が脱却を言う「戦後レジーム」とはどこで重なり合うのだろうか。「精神的に占領を終わらせる」と言うけれど、終わった時、どんな展望が開け、社会がつくられていくのだろうか。戦前的な価値を重んじる社会に戻ることにつながらないのか。
 「戦後」に問題がなかったわけではないし、憲法に改めるべき点があってもおかしくはない。しかし、憲法がもたらした自由と民主主義の価値は、発展させるべきではあっても、脱却するものでは決してない。
 首相は雄弁に改憲を主張するものの、9条改正以外に、目指すべき方向はほとんど語ろうとしない。だが、改憲を言うなら、まず「戦後」をきちんと語るのが先だろう。
 それなしに新しい「美しい国」へ誘(いざな)うのは、国民を惑わすだけだ。
 
『北海道新聞』社説 2007年5月2日
憲法施行から60年*(上)*国家主義への回帰危ぶむ
 施行六十年の憲法の足元が大きく揺らいでいる。
 昨年九月の安倍晋三政権の発足以降、改憲への動きが、かつてなく強まっているからだ。
 首相は「自分の任期中に憲法改正を目指したい」「時代にそぐわない条文として典型的なものは九条だ。日本を守る観点や国際貢献を行う上で改正すべきだ」と明言した。
 戦後の民主主義を支えた教育基本法を変え、「わが国と郷土を愛する態度」や「公共の精神」などの徳目を「教育目標」に掲げた。
 防衛庁を省に昇格させ、自衛隊の海外活動を本来任務に格上げした。そして改憲手続きを定める国民投票法の参院選前の強引な成立を図る。
 米国など他国への攻撃にも日本が応戦する集団的自衛権の行使を、憲法解釈の変更で可能にする研究まで促した。
 従軍慰安婦問題への首相発言や、沖縄戦の集団自決をめぐる政府の教科書検定などで、先の大戦への反省を無にしかねない対応も続く。
 「占領下に素人が起草した憲法で、古くもなった。二十一世紀にふさわしいものにしなければ」との首相の物言いは、民主主義国家として再出発した戦後日本の否定でもある。
*戦争する国を目指すのか
 「憲法改正の中身を示さないとよく言われるが、新憲法草案で中身は立派に示している」
 首相は、自民党の「新憲法制定推進の集い」でこう強調し、党の草案を基本に、改憲を必ず政治スケジュールにのせると述べた。
 草案前文は、憲法にある国民の「平和のうちに生存する権利」を捨て去り、「国や社会を愛情と責任感と気概をもって自ら支え守る責務」を書き込んだ。直接的ではないが「国防の責務」につながる表現だ。
 また戦力不保持、交戦権の否認を規定した九条二項を削除し「自衛軍」の保持をうたった。
 軍を公然と持ち、国際的に戦闘に参加できる国、米軍とともに戦争のできる国に国家体制、統治体制をつくろうとする。
 武器輸出、核保有論議を容認しようという動きも、軌を一にしていると言えるだろう。
 国家利益のために戦争に突き進んだ反省の上に、憲法は二度と戦争はしないとの不戦の誓いをした。
 草案は、その誓いを葬り去ることを意味する。侵略したアジア諸国への背信行為ともなる。
*人権より公益優先の発想
 草案のもう一つの眼目は、国家や社会の利益を優先し個人の人権に制約を課す方向への転換だ。
 憲法の基本理念は国民主権、基本的人権の尊重、平和主義にあり、個人の尊厳を保障するために、国家権力に踏み外してはならない枠をはめている。
 多様な人間が、ともに暮らし、社会を構成する上で便宜を分かち合うため国家を認めるが、主権者の国民は憲法で国家の権力を限定する。
 これを立憲主義と言うが、草案はこの考え方と正反対の、国家主義的傾向が色濃い。国家が国民の権利を縛る力を強めようとする。
 国民の自由と権利には「責任及び義務が伴う」とし、「公益及び公の秩序に反しないように自由を享受し、権利を行使する責務を負う」として、国家的利益の優先を明示した。
 個人より全体に価値を置いた大日本帝国憲法型に近く、憲法観が、現行の憲法とは全く違うものを目指している。
 現憲法は改正の場合、「この憲法と一体を成すものとして」公布することを定めているが、憲法の基本理念を損ないかねない草案は、そもそも「この憲法と一体を成すもの」とはならないのではないか。
*国民が問い直すことこそ
 憲法をどうするか。それは国民に委ねられている。改正権は国民にある。いま進む改憲論に対し、どう意思を示すかだ。
 憲法は一人一人が人間として生きる自由を保障している。それが脅かされない限り、憲法は人々の意識に上りにくい水や空気のような存在かもしれない。
 しかし、国民が現在置かれている状況は違うのではないか。平和的生存権が脅かされ、人権制約の方向へと社会を作り替える力が強い。
 歴代政権が、改憲をこれほどまでに語らなかったのは、国民の支持が得られなかったからだ。いまは参院選の争点にもできると首相は考えている。
 共同通信社の最近の世論調査で改憲賛成は57・0%だった。抽象的に問えば、環境権などの新しい権利の追加などで賛成は当然多くなる。
 だが戦争放棄と戦力不保持を規定した九条については、改憲必要の26・0%に対し、反対が44・5%だ。
 平和主義が揺らぐことを、国民は恐れている。
 ただ、憲法が私たちの生活の中に真に血肉化されてきたと言えるだろうか。
 自民党の草案より、さらに国家主義的な主張も活発に出ている。
 すでに広がった閉塞(へいそく)感が社会への関心を失わせているにしても、主体的判断をしてこその主権者である。
 憲法が岐路に立つ今だからこそ、国民があらためて憲法に相対し、その意味を問い直すことが必要だ。
 
『中日新聞』社説 2007年5月2日
憲法60年に考える(中) 統治の道具ではなく
 安倍晋三首相らの改憲論には、憲法を統治の道具に変える発想があります。九条論議に目を奪われていると、公権力を縛る本来の理念を見失いがちです。
 安倍首相は今年の年頭会見で任期中の憲法改定を宣言し、今度の参院選の争点にすると言いだしました。世論調査では改憲賛成が多く、若者もかなり支持しています。
 国際協調主義の理念をうたった前文、戦争と軍備の放棄を定めた第九条と既成事実との隔たりに、戦後世代の多くはしらけ、憲法を“嘘(うそ)”と感じるのではないでしょうか。
 理念と冷厳な現実との乖離(かいり)が、一般論として改憲を容認させる傾向がみえるようです。
透けて見える国家像
 しかし、改憲論議の対象は第九条だけではありません。多くの人がそこをつい見落としがちです。
 早く憲法を変えたい首相の思いはさまざまな形で伝わってきますが、新たな憲法像が具体的に本人の口から語られることはありません。
 それでも安倍カラーを出そうと次々繰り出す首相指示、政策、法案などから憲法観や国家像が透けて見えます。国民を支配し統治する道具としての憲法であり、正義や真理を所与のものとして国民に教え、ときには押しつける国家、社会です。
 それはまさに首相が言う「戦後レジームからの脱却」であり、公権力と国民との関係の大転換です。国家の役割の転換は、著書「美しい国へ」でも随所で主張されます。
 近代憲法は、政府・公権力ができることを制限し、好き勝手にさせないために生まれました。それを細部にわたって調整するのが法であり、立憲主義、法の支配とはそうした政治、統治のあり方をいいます。
 「憲法を設ける趣旨は君権(公権力)を制限し、臣民(国民)の権利を保全することである」−明治憲法制定の際、枢密院議長だった伊藤博文がこう話しました。
内面に踏み込む権力
 実際にできた明治憲法は、天皇が主権を握り、国民の権利は「法律の範囲内で」しか認めない統治の道具となりましたが、最高の権力主義者といわれた伊藤でさえ憲法の理念は正確に理解していたのです。
 新教育基本法に盛り込まれた愛国心育成、教育に対する国家の関与強化、道徳の教科化…権力が個人の内面まで踏み込んでもいいとする姿勢が、安倍内閣になってからますます鮮明になってきました。
 改憲は統治の基本ルールにそれを反映させることになるでしょう。公権力が国民に対して優位に立ち、思い通りに統治する道具に憲法を変えようとする発想です。
 それは戦後日本の復興と発展を支えてきた“粒あん社会”を否定することも意味します。
 敗戦後の日本人は、正義や真理を自明のものとは考えず、互いに主張し、反論し、対立し合う自由と活力を原動力として豊かな国をつくり上げました。一粒一粒が個性を発揮しながらも全体としてハーモニーを醸し出す粒あんのような社会が、復興、発展の基盤となったのです。
 現行憲法は、一人ひとりが個性的に振る舞いながらも調和することを制度的に保障してきました。
 憲法を統治の道具とし、教育勅語を核とする教育で国民の個性を封じて、あたかも練りあんのように一色に染め上げようとした戦前、戦中の日本は、これと対照的でした。
 この六十余年間、一人として軍事力で殺したことも殺されたこともない実績を、政府の行動を制約している憲法の性格と第九条の効果として尊重するか、憲法を現実と合致させて「戦争のできる国」になるか。日本は岐路に立っています。
 その九条を変え、憲法の位置づけも逆転させると、公権力に対する国民によるブレーキの利きは悪くなります。かつてブレーキのないクルマに何十万、何百万の若者が乗せられて戦場に送り出されたことに思いをはせながら「美しい国へ」を再読すると、これまでとは違った理解になるかもしれません。
 安倍首相には、改憲を策して果たせなかった祖父、岸信介への思い入れがあります。本音を抑えソフト路線で出発したのに支持率が低下したことから、最近は「それなら思う通りに」という、いわゆる開き直りも感じられます。ですから、国民投票法が成立すれば、小休止中の改憲論議も活発化するとみられます。
 去る三月に亡くなった作家の城山三郎さんは「敗戦で得たものは憲法だけだ」が口癖でした。「だけ」とは大事な財産であることを訴えるための強調表現でしょう。
生き残った者の実感
 城山さんの口癖は、特攻隊員として死の淵(ふち)に臨み生き残った者の実感です。戦陣の厳しさや悲惨さも知らず、戦火に追われて逃げ回った経験もなく、恵まれた環境、豊かな家庭で育った政治家たちの威勢のよい改憲論とは対極にあります。
 支配され、死を迫られた側の憲法観と、統治、支配する側の憲法観、国民は選択を迫られます。
 
『西日本新聞』社説 2007年5月2日
「不戦の理想」は色あせない 憲法施行から60年〈上〉
 俗に、「10年一昔」と言います。そこには、10年もたてば世の中はすっかり変わってしまう、という感慨が込められています。人間社会の有為転変の定めを言い表す言葉です。
 今、この国はまさに、変化の真っただ中にあります。きのうまで通用していた技術や常識が時代遅れとなり、社会の仕組みが変わり、価値観までもが揺らいでいます。
 「改革」こそが正義であり、変化を拒むことは悪である‐そう言わんばかりの風潮がさして抵抗もなく人々に受け入れられているかのようにみえるのも、今が変化の時代だからでしょう。
 でも、そんな時代だからこそ、時には立ち止まってみることが大切です。そして、何十年たとうが決して色あせることのない理想があることに、思いをはせてみてはどうでしょうか。
 日本国憲法が施行されてから、あすで60年が経過します。
■改憲の動きに現実味
 還暦を迎えた現行憲法を改正しようとする動きが、徐々に現実味を帯び始めています。
 安倍晋三首相は、夏の参院選で改憲の是非を問う考えを表明しました。改憲の手続きを定める国民投票法も、今国会中に成立しそうな情勢です。
 なぜ、憲法を変えようとするのでしょうか。改憲論者たちの口から、必ずといっていいほど出てくるのは「今の憲法と現実の間にずれが生じている」という言説です。
 そうした言説はとりわけ、戦争の放棄と戦力不保持を定めた憲法9条に向けられています。60年が経過して、日本の安全保障をめぐる環境も大きく変わり、現行の9条では国家と国民の安全は守れない、という考え方です。
 果たしてそうでしょうか。
 平和が、人類にとって普遍的価値をもつ理想であることに、だれも異存はないでしょう。「不戦」を守り通せばおのずと平和が実現するはずです。
 改憲論者たちが言う「現実」とは、いったいなんでしょう。ひとつには、日米同盟強化の流れがあります。
 冷戦終結後、唯一の超大国となった米国は、米国型の価値体系に基づく世界秩序の再構築に動いてきました。そして日本に対し、軍事面を含めた一層の協力を求めるようになりました。
 小泉純一郎前首相とブッシュ米大統領が築いた日米蜜月関係を背景に、日本がイラクに自衛隊を派遣するに至ったことが象徴的です。
 米国側には、軍事面での日米協力緊密化へ向け、日本に憲法改正を期待する空気もあるようです。
 アーミテージ元国務副長官らが2000年秋にまとめた日米関係に関する報告書は、「日本が集団的自衛権行使を禁じていることが日米同盟関係の制約になっている」と断じ、暗に憲法改正を求めています。
 日本国内の改憲論は、米国の世界戦略と表裏一体の関係にある、とみることもできそうです。
 北朝鮮の核の脅威など、この国の安全保障をめぐる「現実」を考えると、米国の力は不可欠です。でも、現実を理由に理想の旗を降ろしてしまっていいのでしょうか。
■平和主義変質の懸念
 9条の理想と現実のずれは、自衛隊の存在に集約されているかのようにもみえます。
 9条2項は戦力の不保持をうたっていますが、自衛隊は予算ベースで米国、ロシア、中国に次ぐ世界第4位の軍事組織です。諸外国からみれば、強力な軍隊にほかなりません。
 一方で大多数の国民は、日本の防衛に必要な実力組織として、自衛隊の存在を認めています。ならば9条2項を変え、自衛隊を軍隊として認知した方がすっきりする、という発想が出てきても不思議ではありません。
 自民党が一昨年まとめた新憲法草案は、戦争放棄をうたった9条1項はそのまま残す一方で2項を全面的に変え、自衛軍保持を明記しています。
 でもそうなれば、自衛隊が専守防衛の則(のり)を越えた普通の軍隊と化し、この国が戦後一貫して掲げてきた平和主義までもが変質してしまう懸念も、なしとしません。
 いっそのこと、こう解釈してはどうでしょうか。9条2項は国民の生命、財産を守るための実力組織をもつことまで禁じているわけではない。「実力組織の役割は専守防衛に限定し、その規模もなるべく小さい方がいい」という方向性を示す規定だ、と。
 そうでないと、自衛隊を合憲とする政府解釈は成り立ちません。
 9条2項の存在が自衛隊の活動を制約し、日本の軍事力の無原則な膨張に歯止めをかける効果をもっていることは、紛れもない事実です。
 憲法は、現実にどう対処するかを定める文書ではないはずです。むしろ、国民が共有できる理想の表現、と解釈したいものです。
 不戦の理想は、戦後日本の出発点であり、今も大多数の国民が支持しています。軍隊が不必要な世界は、究極の理想ともいえます。
 私たちが、現実をその理想に少しでも近づけたい、という意志を持ち続ける限り、9条に込められた精神は輝きを失わないはずです。
 
『神奈川新聞』社説 2007年5月2日
憲法60年 再確認したい人権の意義
 日本国憲法が五月三日に施行六十周年を迎える。自らと世界に多大な惨禍を与えた侵略戦争への反省に基づき、国民主権、基本的人権の尊重、平和主義を定めた日本国憲法は、うちひしがれた国民に新たな希望と針路を与えた。戦後の日本が国際社会に復帰し、世界第二位の経済大国となった土台には、この憲法があった。
 ところが現在、憲法と日本社会は大きな岐路を迎えている。「戦後レジーム(体制)からの脱却」を掲げる安倍晋三首相は、任期中の憲法改正に強い決意をみせている。国会では、憲法改正手続きを定める国民投票法案の国会審議が大詰めを迎えた。何より重大なことは、国民の義務や安全保障を強調する憲法改正論と連動して、基本的人権の軽視、平和主義の後退が顕著になっていることである。六十周年を機に、憲法の意義をあらためて考えたい。
 まずは基本的人権である。憲法は「すべて国民は、個人として尊重される」(一三条)、「思想及び良心の自由は、これを侵してはならない」(一九条)、「集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する」(二一条)と規定している。個人の尊厳と精神的自由は、世界人権宣言や諸国の憲法に明記された人類普遍の価値である。
 ところが日本の現状はどうか。自衛隊イラク派遣に反対するビラを配布すれば狙い撃ちで逮捕される。戦前の治安維持法の再来を思わせる権力の暴走だ。学校現場では、教職員を処分してまで日の丸・君が代の「強制」が行われる。そして、改正教育基本法の下で、「愛国心」教育が進められようとしている。権力が個人の心に土足で踏み込もうとしている。
 また、憲法は「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」(二五条)とうたっている。生存権を規定し社会保障制度の確立を求めたものだ。しかし、現在の日本は、構造改革と規制緩和の下で「格差」と「貧困」が拡大し、米国流の弱肉強食の社会になりつつある。
 経済協力開発機構(OECD)報告書によると、日本の相対的貧困率は米国に次いで二位だ。生活保護世帯は百万世帯を超えている。非正規雇用労働者の増加は、懸命に働いても貧困から抜け出せない「ワーキングプア」を生み出すなど、格差のさらなる拡大と固定化を招こうとしている。巨額の財政赤字があるとはいえ、医療福祉予算は厳しく抑制され、容赦ない弱者切り捨てが進んだ。
 国民が抑圧され、分断される社会。富と権力を持つ側のための社会。恐ろしげな未来像が見える。私たちは今こそ人権規定の意義を再確認したい。憲法は個性と人権が尊重され、安心して暮らせる社会への道を示している。問われるのは憲法ではなく政治である。
 
『八重山毎日新聞』社説 2007年5月2日
岐路に立つ平和憲法 施行60周年、加速する改憲の流れ
■5年後に改憲?
 あす5月3日は「憲法記念日」でわが国の憲法は施行60周年を迎える。人間でいえば“還暦”の節目に当たるが、しかし任期中の改憲を目指す安倍首相の登場で改正手続法の国民投票法も今国会で制定される見通しであり、さらに憲法で禁じられている集団的自衛権の行使も一部容認に向け、有識者会議を設置するなど国民主権、平和主義、基本的人権の尊重を基本としたその憲法も大きな岐路に立っている。
 しかも安倍首相は5年後の改憲実現を目指しているが、これに対し平和憲法を守るという護憲政党の力は二大政党制の前で衰微。草の根の市民運動で「九条の会」が全国でがんばっているが、各種の世論調査でも改憲賛成が多数を占めるなど、歯止めがかからないというよりむしろ加速する「改憲」の大きな流れの中で危機感とともに無力感も出ている。
 ただ改憲に多くの国民が賛成しているとはいえ、憲法の根幹である戦争放棄の九条改正には逆に半数以上が反対しており、平和憲法が守れるかどうかは今後の市民運動にもよる。若者や子供たちに平和の大切さをいかに伝えていくか、粘り強い地道な活動が必だ。
■他国民の命、1人たりと奪わず
 国会は先月25日、憲政記念館で衆参両院主催による憲法施行60周年式典を行った。席上安倍首相があらためて改憲の意欲を語ったのに対し、河野洋平衆院議長は、「憲法の下でわが国の部隊が海外で1人たりとも他国の国民の生命を奪うことはなかった。この平和の歩みは誇っても良い実績だ」と強調。「憲法は国家の命運を左右する。憲法論議は幅広い視野に立ち、謙虚に歴史に学ぶ心を持ち、国家と国民の将来に責任感を持って行われることを切に望む」と慎重な議論を求めたという。
 まさにその通りであり、この世界に誇る平和憲法をなぜ改正しなければいけないのか。表向きには「新しい時代に合わせて」とか、「米国に押し付けられた憲法」とかいろいろ理由が挙げられているが、しかし九条に関していえば、変えなければ不都合な人がいるのだろうか。
 確かにいまの日本の実態は、自衛隊のイラク派遣など既に憲法九条をなし崩しにして、「戦争をしない国」から「戦争をする国」に確実に突き進んでいる。そしてそれをさらに進めて安倍首相は、いよいよ米国など同盟国が戦争をするとき、日本も一緒になって自衛隊が海外の戦闘行為に参加する集団的自衛権の行使見直しにも着手した。
 この集団的自衛権の行使は憲法九条で禁じられ、これまでの政府見解でも否定されてきたものだが、これが解釈見直しで認められると事実上憲法改正の前倒しともなるものだ。しかし思うになぜに安倍首相はこうも自らが唱える「美しい国づくり」とは逆の、わが国を再び破滅と荒廃に導く「戦争をする国づくり」に一生懸命なのだろうか。
■九条の会が意見広告
 改憲に関しては、国民投票法案をめぐる安倍内閣の衆院での強行突破で民主党の反発を受けたことから、一部で改憲は遠のいたという見方が出ている。しかしそれは速いか遅いかで流れは止まらないだろう。
 憲法施行60周年の3日には全国各地でさまざまな催しが予定されているようだが、八重山では「九条の会やえやま」が新栄公園の九条の碑前で「憲法が危ない、緊急集会」を開催するほか、憲法改正に反対して「いしがき女性九条の会」が意見広告を同日の新聞に掲載する。同広告は1人500円を募って行われたが、1000人余が応募したという。
 イラクに派遣される自衛隊の出発のシーンが何度かテレビで映し出されたことがあった。そのさい直接戦闘に加わらない後方支援といいつつも、見送りの家族らは無事に帰ってきてと不安を口にしていた。しかし憲法が改正され、集団的自衛権が容認されると、後方支援でなく直接戦闘に参加することになるのである。そうなると九条の会などがよく言うように、自衛隊に応募する人がいなくなり、必然的に日本も韓国などと同じく「徴兵制」はあながち否定できない現実になるだろう。改憲の大きな流れの中で「護憲」の市民運動も大きな岐路にある。
 
『佐賀新聞』有明抄 2007年5月2日
 日本国憲法が公布されたのは1946年11月3日。そして施行されたのは6カ月後の47年5月3日である◆これは憲法第一〇〇条に「この憲法は、公布の日から起算して6カ月を経過した日から、これを施行する」と定められているからである。だから5月3日は「憲法記念日」として国民の祝日となっている◆憲法は、その国の統治のあり方を定める国の最高法規で、日本国憲法は前文と11の章(全一〇三条)からなっている。主権者を天皇から国民へ。それまでの大日本帝国憲法から大きく変えられたにもかかわらず「大日本帝国憲法の改正」という形で公布されたのは、法としての継続性が必要だと考えたGHQ(連合軍総司令部)が、そう政府に求めたからだとされている◆憲法の3大原則は「国民主権(主権在民)」「基本的人権の尊重」「平和主義(戦争の放棄)」。国民主権は国の政治を最終的に決める力は国民にあるということで、基本的人権は「誰をも侵すことのできない永久の権利」。そして平和主義は「国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する」こと◆“侵略戦争の禁止”を掲げた憲法は他の国にもあるが、「陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない」と戦力不保持まできっぱり明文化しているわが国の憲法は他に例をみない格調高さである◆今、憲法の見直し、改正の議論が盛んだが、その是非を考えるにあたって、現行憲法のことをよく知っておくことが大切である。憲法に何が書かれ、どのように暮らしの中に生きているのか。あすは憲法記念日。いま一度、憲法を読んでみよう。(賢)
 
『沖縄タイムス』社説 2007年4月30日
[憲法世論調査]「九条」見直しに警戒感
 
なぜ「集団的自衛権」か
 憲法改正については「必要ない」(46%)とする人が「必要ある」(43%)を上回り、平和憲法の理念である九条は「改正すべきでない」(56%)が「改正すべき」(24%)の二倍以上に上ることが分かった。
 本社世論調査からは、改正論議に理解を示しつつ日本国憲法の「平和主義」の柱である九条「見直し」には警戒感が広がっていることが読み取れる。
 井端正幸沖国大教授が指摘するようにNHK、読売新聞などの調査でも「非改正派」が増えており、県民意識は同一線上にあると考えられる。
 これは安倍政権になって加速する改憲論議に、国民が慎重さを求めているとみていいのではないか。
 復帰して三十五年。県民意識の上で「本土化」が進んだのは確かだ。
 だが、県民には日米両政府が約束した「負担軽減」より、「機能強化」が目立つ在沖米軍基地の存在が改憲論議と重なるのも間違いあるまい。
 注目すべきなのは、「戦争放棄、交戦権の否認、戦力不保持」を唱える九条について「改正すべきでない」とする声が「改正すべき」を二倍以上も上回っていることだ。
 自衛隊の認知度については、災害復旧活動や救急医療搬送などで高まってきているのはいうまでもない。
 任務についても、憲法の範囲内で認められた「専守防衛」の枠内での行動形態が容認されたといっていい。
 だが、防衛庁が「省」に格上げされ、今また国民的な論議もないまま有識者だけで「集団的自衛権」の解釈改憲に取り組もうとする安倍晋三首相の姿勢は「まず九条の改正ありき」で突き進んでいるようにしか見えない。
 日米軍事同盟の強化が背景にあり、米軍に対する支援、協力をしやすくするための解釈改憲であるのは確かだ。
 九条で禁じられている集団的自衛権の行使について51%が「使えない立場を堅持する」と答えたのは、拡大解釈の動きに対する懸念だと言えよう。
 一方で「憲法解釈で使えるようにする」が24%、「九条を改正して使えるようにする」も15%あった。これは県民意識の変化と言うこともでき、その意味で注視する必要があろう。
「投票法案」は拙速避けよ
 衆議院で与党単独採決され参院に送付された国民投票法案与党修正案は、憲法を改正するための手続きを定める法律だ。
 しかし、法案の趣旨がきちんと国民、県民に浸透しているかどうか、疑問と言わざるを得ない。
 罰則規定はないが、特殊法人職員や公務員、私立学校教員などの「便益を利用した(憲法改正をめぐる)運動の禁止」規定は、国民として憲法をどう考えるのかに網をかぶせるものにはならないのかどうか。
 同法案を「早く定めるべきだ」としたのは七十代の29%が最も多かった。低いのは五十代の23%にすぎない。
 全年代で20%台だったのは「憲法改正論議が不十分」(全体で54%)というのが最大の理由であり、国民の理解を得ていない証しと言えよう。
 つまり七割もの人が法案に疑問を呈しているのであり、その意味を政府はきちんと分析する責務があろう。
 この問題では安倍内閣の支持層でも「(論議が)十分でない中で決める必要はない」が49%。自民支持層でも「早く決める」と「決める必要はない」が45%と同率だった。
 ここは性急に事を運ばず、国民の声に耳を傾けながら国会でもしっかりと論議することが求められているのだということを自覚してもらいたい。
「平和主義」の理念守れ
 沖縄は一九七二年の復帰から現在まで、約束された米軍基地の整理・縮小がほとんど進んでいない。
 普天間飛行場と同じように県内移設条件付きの返還が多いためで、九六年の日米特別行動委員会(SACO)最終報告で返還合意された十一施設のほとんどがなお滞ったままだ。
 安保条約を肯定し自衛隊容認派が増えたことで、県民意識が変化してきたのは事実である。
 だが、だからといって「戦争放棄」をうたう九条を守る意識に変化が生じたわけではない。
 むしろ沖縄戦に続く二十七年間の米軍支配、復帰後も存続する巨大基地が逆に憲法の必要性を意識させていることを忘れてはなるまい。
 県民の思いは憲法の平和主義の理念に込められているのであり、その意義をこれからも大切にしていきたい。
 
『陸奥新報』時事随想 2007年4月29日
日本国憲法「簡単に変えられぬ最高法規」
 今年の憲法記念日は特別の意味を持っているように思う。日本国憲法が施行されてから、今年はちょうど60年の節目だ。人間で言えば「還暦」に当たり、お祝いの会が持たれても不思議ではない。しかし今日、憲法をめぐっては「改正」の動きが強まる一方、戦後日本の平和と経済繁栄の象徴として「擁護」する世論も根強くある。
 このような中で安倍首相は7月の参院選の争点に憲法改正を挙げており、現に今「国民投票法案」が参議院で審議中であるが、これほどの重要法案にもかかわらず国民の関心はいまひとつという思いがする。与党の絶対多数の国会の中で既に可決が前提になっているかのように伝えられるが、一国民として黙っているわけにはいかない。
 国民投票法案の制定については「現憲法には憲法改正の手続き法がないので整備は当然」「国民投票法案は改憲手続き法であるので法制定は憲法改正の一里塚」の見方がある。参議院憲法調査特別委員会や地方公聴会でのやり取りを見ていると、こんなに急いで結論を出して良いのかと疑問に思わざるを得ない。言うまでもなく憲法は国の最高法規であり、憲法尊重擁護の義務があるのは一般国民ではなく為政者=権力者である(憲法第99条)。立憲主義に立てば首相や国会議員が憲法を一番守らなければならないのに、むしろ憲法改正を急いでいるというのが実際のところである。繰り返すが、憲法とは国民を縛るものではなく、権力を有する者を縛る法規なのである。憲法はこの国のあり方と仕組みを定めたものであるからこそ、簡単に変えてはならない最高法規なのである。
 ところが今回の国民投票法案では最低でも三つの疑問点が浮かび上がっている。第一に、投票成立に関する最低投票率の規定がないこと。第二に、公務員・教員の運動に規制があること。第三に、宣伝の規制の三つである。このうち、特に一番目の最低投票率が明示されていないことについて違和感を持つ方も多いのではないかと思う。一般社会では何事を決めるのにも成立条項の規定がある。一般に会合の成立は過半数(委任状を含む)で、重要条項の賛否は三分の二というのが常識なところだろう。ましてや今まな板に乗っているのは国の最高法規としての憲法である。最低投票率を定めなければ、理論的には投票率50%と仮定すると有権者の25%の賛成で成立することになる。これでは憲法改正のハードルを低くするためのものであるという批判に反論できないのではないか。
 最近の世論調査では、憲法改正が必要だという方の中にも「戦力不保持」と「交戦権」を否認した第九条二項を支持する世論が多い傾向にある。現憲法とともに育ってきた「団塊の世代」の私などは、現憲法があったからこそわが国は「平和国家」を維持し続けることができたと考える。集団的自衛権を容認し、米軍との共同行動枠を広げることが本当に日本の利益になるのか冷静に考える必要があろう。施行60周年を前に、憲法を次世代にも継承することの重要性を再確認したい。
  (弘前大学教授 神田 健策)
 
『社会新報』主張 2007年4月18日
「国民投票法案」
国民の意思正しく反映せぬ欠陥法
 与党は12日、国民投票法案(改憲手続き法案)を強行採決するという暴挙を行なった。ここに至る間、民主案との一本化がなるのかどうかにマスコミの注目が集まった。しかし、民主的な意思表示を保障せず国民の意思を正しく反映しない制度設計という点で与党案と民主案との間に大差はない。自公民3党協議では議論の対象にすらならなかった論点も多い。あらためて、ほとんど両案に共通する主な問題点を与党修正案に則しておさらいしてみる。
 第1に、最低投票率規定がない。投票率を50%と仮定すれば全有権者の4人に1人強の賛成で改憲が承認される。これでは主権者の意思の反映とは言えまい。
 第2に、公務員・教育者の運動が規制される。罰則は設けないとされたが、禁止行為は違法行為である以上、刑事罰より乱発されやすい行政処分の対象となり、強い萎縮効果を持つ。また、国家公務員法・地方公務員法の公務員の政治活動の制限規定適用が排除されず、法施行までに「必要な法制上の措置を講ずる」とされた。刑事弾圧を伴う運動規制導入のおそれは大きい。「組織的多数人買収・利害誘導罪」の構成要件のあいまいさという問題も、依然として解消されていない。
 第3に、有料広告がほぼ野放しのままだ。「持てる者の自由」を保障することで「カネで憲法を買う」という不平等を容認しているのだ。テレビスポットCMの料金は、市民運動がカンパで賄うといったレベルではない。ちなみに、AC公共広告機構の無料広告を有料に換算すると年間300億円超といわれている。
 第4に、議席数に応じて委員数を割り振る「広報協議会」のあり方だ。政党等の届出団体による無料意見広告が賛否平等の扱いとされたことに隠れる形で、同協議会は「公報」(改憲案と要旨、新旧対照表、賛成・反対意見を掲載)を作るだけでなく、いつのまにか改憲案の広報放送・広告を行なう主体とされ、無料意見広告はこれと一体化された。この点は国会できちんと議論されておらず、重大な懸念を持たざるをえない。
 第5に、「過半数」の分母は何かという問題。修正案では「投票総数」とされているが、これは賛成・反対票の合計のことであり、原案の「有効投票総数」の言い換えに過ぎない。
 法案は総じて、主権者が自主的かつ公正な判断を下す条件を整備するという発想を欠いている。欠陥法案であり、廃案こそ妥当だ。
 
『香川新聞』コラム 2007年4月27日
「総意」のリスク
 憲法改正の手続きを定めた国民投票法案の審議が続いている。単なる手続き法とは言うが、考えさせられるものはある。
 国民投票のあり方は、国の政治文化を反映している。欧州では広く行われているのだが、ナチズムを体験したドイツは基本法(憲法)によって、事実上封印している。ヒトラーは国際連盟脱退や領土併合などの際、世論を扇動し、国民投票によって「総意」を作り上げた。
 これとは対照的に、国政の重要課題で国民投票を頻繁に実施するのはスイス。最近では昨年九月に移民規制の強化が、十一月には東欧諸国への経済援助継続が国民投票で可決されている。こちらは国民の総意を問う直接民主主義の手段とみなしている。制度を支える背景には、強固な個人主義と地方分権があるといわれる。
 フランス大統領だった故ミッテラン氏は、国民投票に不信感を持っていたという。投票の結果には、問われている問題への賛否ではなく、その時々の政治全般への信任や不満が表れるとの理由からだ。
 二〇〇五年にフランスとオランダの有権者が、欧州憲法の批准を否決したのはその好例かもしれない。欧州連合拡大による移民問題や、経済自由化による労働条件悪化などへの不安が、直接には関係のない欧州憲法の否決につながった。
 今回の国民投票法案は、有効投票総数の過半数で憲法改正が承認されると定める。最低投票率の規定がなければ、仮に投票率が40%とすれば、その半分、有権者全体の二割程度の賛成で「総意」が形成されることがある。
 国民投票は、使い方によっては民主主義を破壊するリスクもあると肝に銘じておきたい。
 
『神戸新聞』社説 2007年4月27日
集団的自衛権/「結論ありき」でないのか
 安倍首相の強い意向を受け、政府は憲法九条の解釈で禁じられている集団的自衛権について研究する有識者会議を設置した。来月中旬に初会合を開き、秋には結論を出すという。
 研究といいながら、憲法改正を内閣の目標とし、憲法解釈についても度々疑義を唱えてきた首相の指示でスタートする会議が、どんな結論を出すのかは、ほぼみえているのではないか。「結論ありき」の議論が独り歩きする懸念を抱かざるを得ない。
 自国が攻撃されていなくても、密接な関係にある外国への武力攻撃を自国への攻撃とみなして阻止する国家の権利を、集団的自衛権と呼んでいる。国際法上も認められているが、日本は戦後一貫して、その行使を禁じてきた。
 「憲法で許されている自衛権の行使は、日本を防衛するために必要最小限度の範囲にとどまるべきで、集団的自衛権はその範囲を超えると解釈する」。これを、政府の正式見解としてきたからだ。
 しかし、それで日米同盟は効果的に機能するのか。疑問をぶつける形で昨年秋、首相に選ばれて早々の所信表明で、安倍首相は「どんな場合が憲法で禁止されている集団的自衛権に当たるのか、個別具体的に研究する」と表明した。
 首相のいう個別具体的なケースとして、米国を狙った弾道ミサイルを日本のミサイル防衛システムで迎撃▽公海上で自衛隊艦船と並走する米艦船が攻撃された場合の反撃▽PKOなどで共に活動する他国軍への攻撃に対する反撃▽多国籍軍への後方支援-を有識者会議で研究するという。
 結局、自衛隊が米軍と共同行動を取るために、改憲には時間がかかるから解釈による制約を緩めようということではないか。