有限と無限の対応 1
 
 
        <はじめに>
 
 明日まで、有限と無限の対応という講題で、お話をしていきたいとおもいます。
このタイトルを聞くと難しいことのように聞こえるかもしれませんが、これは特別なことではありません。
 われわれは誰でも有限と無限の中に存在をしているわけです。万物がみな有限と無限との対応の中にある。有限というのは、限りがあるということです。
限りがあるということは、いつかなくなるということでしょう。あるいは、行ったらそこで終わりということでしょう。町や国というものは、大きいものではあるけれ ども、国境や県境がありますから、そこまでです。限りがあるんですね。私たちのいのちも限りがある。今日は一〇四歳の方のお葬式がありますが、まあ一〇四歳ぐらいが限界じゃないでしょうか。
 
 その逆の、限りのないことを”無限”といいます。こういうことは日本人の大人なら知らん人はおらんはずです。解ってはいるけれども、このことを深く受け取っているかは別問題です。
「いのちには限りがあるぞ」と云っても、いざ死ぬ時になったら恐ろしいとか、死にたくないとか、悲しいとか、そんな感情が湧き出て来てなかなか現実を受け取ることができない。
実際、知ってはいても必ずこのことが受け入れられるとは限らないわけですね。
 
 そして不思議なことに有限のものは全て形を持っているんです。形といってもいいが、姿といってもいいですね。
 しかし、無限というものは形をもっていません。無形です。形を持たないものって一体なんだろうとおもいますね。
しかし、実はこれはみなさんもよく知っているんです。
 それは「時間」とか「電気」などが形をもたないものです。
電気は形を持たない。波なのか、光なのか、記号なのか、わたしには正体は解りませんが、とにかく銅線を通って伝わってくる。パソコンを毎日やっていますが、なんであんなものが四角い画面にどういう仕組で出てくるのか、わたしにはわけがわからん。銅線を伝わってくるというところまでは解る。
それがモーターを動かすということもわかる。モーターの中なかには磁石があって、それがくっついたり離れたりしてエネルギーが起こってモータは回ることまではわかるけれども電気そのものはやっぱり見えません。
 
それから形がないものといえば風ですね。風は形を持ちませんので見えません。しかし風に揺れる草を見れば「ああこれは風があるな」とわかる。すべて「いのち」というものは形を持っています。その形をもったいのちが形を持たない時間とはなれては存在できないものなのです。これらはすべて形を持ちませんが、形に なることができるんです。
 形のないものが対象物に作用して形になる。例えば電気がモータに作用して扇風機を回す。そして風がおきる。
 
これが『方便』というものです。インドではup?yaといいます。
こういうことが仏教の中心的課題です。涅槃経というお経に書いてあります。
お釈迦さまがいのちを終わられる頃、傍にいた弟子のアナンにずうっと語っていかれるんですね。
 
 
    <形を持たないもの>
 
 いきなりの飛躍に聞こえるかもしれませんが、ほとけさまにはきがある。
仏法を信じて聞けば、ほとけさまの智慧が仏を信じた人に。そのは用きによって我々は迷いを離れることができる。これが仏法の道理です。その道理をこの有形と無形ということからお話していきます。
 
 先ほどから「いのち」ということを申してきましたが、そのいのちというものも有形と無形の二種類の質で成り立っているのです。われわれは普通、「いのち」というと形のあるものをいのちと云っています。
ところが「いのち」というものは生き物としての形をもった「いのち」が形を持たない無形の「時間」に作用さ れて存在しているんです。形を持ったものとしての「いのち」は時間とはなれては存在できないものです。
 もう少しこだわりますが、生き物としての「いのち」は因と縁の和合によって、生まれ、成長します。そして「いのち」は昼も夜も休みなく動いている。そして時の用らきを受けて年寄りになっていく。
 最後には死をむかえ、消滅するものです。これは事実であり、道理でしょう。すなわち有形のものは「無常」なのです。時間の用きによって最後にはそのいのちを終える時がやってくる。この有限なる「いのち」は、永遠なる無限なる「時」というものと対応しているのですから離れないものです。異なっていて離れない で、ずっと一緒です。
 あるいはまた「いのち」は「」と一緒です。空は永遠でしょう。すなわち無限です。そして常住です。いつ始まったのか、いつまで続くのか。どこまで続いてるのか、こういうことは人間の考えでは不可解で解決のつかないものです。そして空はすべてのものを包んでいる。ですからどこにいても空が自分のところに届いて来ています。あえて云えば我 々は空の中にいるんです。
云いかえれば、空が我々のところまで来ているんですね。有形のいのちは無形の時間や空と絶対関係にある。有限と無限は対応しているというテーマはこういうことです。有限は無限に向かい、無限は有限へ向かう。
 
 さあ、そこで「来る」ということをキーワードにしてみます。日本語の日常会話では、「空が来る」とはまず云わないですね。空というものは高く遠いところに有るものだと思うのがたいていの人間の感じ方です。
 ところが以前、日曜学校の子どもたちとお話しているとき、「空はどこまであるかな」ということになった。ある子が畳をたたいて「空はここまで」といった。まあ、子どもは偉いですね。そんな発想は大人ではなかなか出てこない。
この無限に大きく遠いものが実はこの間近な畳にまできているんですね。それは果てしなく大きく、過去にも無限、未来にも無限なもなのにです。
 「時間」もそうです。時間というものはものすごく大きなものでしょう。いつも誰にでも時間はある。つねに時間が自分のところに来てるんです。金持ちにはたくさんあるけど、貧乏人には少ない、そんなことはありません。善人には多くても、悪人には少ない。こういうこともない。
そういう意味では、空も時間も平等なんです。時間は決して差別しない。しかし、人間は差別する。空も差別しない。無形のものは平等でしょう。
 
 
    <有形のものには限りがある>
 
 有形のいのちは生まれてくる。神の運命によって造られるというのは旧約聖書ですが、仏教ではそうは言いません。父の因と母の縁とが因縁和合して生を受けるというのが仏教の基本です。そして生きている間は休みなく動いています。それから、いのちは他のいのちをもらって生きる。もしくは奪って生きている。他のい のちに因縁を結んで生じ、存在しています。生き物としてのいの
ちはであるということです。そして最後には「死」がやって来、消滅してゆきます。生・老・死と変化しつづけるものです。いのちには限界があるわけです。すべてのいのちがこのように変化し、消滅します。こういうことを諸行無常と言います。神の支配によってなされているとは云いません。これらはすべて因縁によって起 こる因縁生起、すなわち縁起性です。これが仏教の道理です。
「魚は捕りすぎると、いなくなる」と岡倉天心が漁師たちに云ったら漁師たちが怒ったということが伝えられています。今日の時代は捕りすぎによって魚がいなくなってしまったわけですが、食べるだけあればよい、ですませればよいのだけれども、ついつい欲が出てとりすぎてしまう。すると魚はいなくなってしまう。岡 倉天心が云った通りになりました。有形のいのちには限りがあるんです。
とりすぎるといなくなる、これは道理ですね。すべてこの世は因縁の道理、すなわち縁起性によって成り立っているわけです。
 
 
    <仏教は心の問題を説く>
 
 形を持った身体は形を持たない「心」と対応しています。「いのち」は有形と無形の対応において成立しています。われわれには形は見えないけれども、たしかに「心」がある。仏教では「心」のことを『煩悩』と云う。その心を分析してみれば『八識』という説明ができます。「識」とは区別して知ることです。またこ の「知る」とは、対象を得ることでもあり、その作用を伝統的には「了別」云います。それではその「八識」というのは何か。
前六識(了別識) 六境(対象)了別作用
眼識     色    視覚
耳識      声    聴覚
鼻識     香    嗅覚
舌識     味    味覚  <前六識>
身識     蝕    触覚
意識     法    知覚
・・・・・・・・・・・・・・・
末那識(まなしき)       <第七識>
アラヤ識             <第八識>
 
 これが六識と云われている表層意識で、われわれが通常感じる感覚です。
それから深層意識があと二つ、七番目には。これはとも云い、執着するこころですから、とも名づけられています。
意志で起こすこころではなく。縁が来れば自然に発せられる意識です。例えば幽霊はいないんだけれど、墓の前を通るとゾーとして気持ちが悪くなるということがありますよね。
いわゆるDNAのようなものに執着する心が組み込まれているんでしょうか。
そして、末那識より深いところ、一番深いところにある深層意識がアラヤ識すなわち第八という意識があるんだと唯識派は説明するんです。
 このアラヤ識は「蔵識」とも呼ばれます。あることを経験したことによって
経験は記憶される。いわゆるした意識を埋蔵している倉庫のようなものというのです。
わたしたちの科学的な常識では幽霊はいないと理解し、納得しているものの、いざとなるとそうはいきません。
末那識が誘発して阿羅耶識の中からゾーとする気持ちを引き出してくる。ずーっと昔から人間はそういう感情を持ち続けてきたんでしょう。
それが永い歴史を重ねて無意識というか深層意識の中に印象づけられ、この科学時代の現代人にまでも受け継がれている、こういうことではないかと思うんです。
先祖を感じているようなものは末那識なんでしょうが。まあこれもアラヤ識のなかにしまわれて無意識化されていた古い意識が墓のそばを通ると、墓が縁となって感情に表れてくると いうものでしょう。
このようにこころというものは形を持たない無形なるものですが、実に深い人間存在の奥底によこたわっているものであって、仏教にとってきわめて大事な課題と見てきたのです。
 
 
   <学ぶこと>
 
 このように仏教はわれわれの心を問題にしているんです。「心とは一体何だろう」という問いから始まった。生き物としての形を持ったいのちと、形のないいのちつまり心とが対応しているものなんです。そういうものなんですね我々というものは。
 正信偈に『天親菩薩造論説』という言葉があります。その天親菩薩が五世紀頃に書いた書物には詳しく書かれています。それを唯識論といって、仏教を学ぶ人はみな呼んできました。近代になってからは、西欧のほうでも哲学を学ぶ多くの人がこういう書物をさかんに読むようになってきたんです。
それをわれわれもこう いうお彼岸のお座に少しずつ学んでおるわけです。
勉強というものは、いっぺんにやろうとするからうまく行かないんです。すこしずつやるしかありません。すこしづつやるから出来るようになるんです。
草を取るのに一遍に全部やろうとするからできなんですよ。とにかく出来るところから少しずつとって、そうして長い時間かけ てじっくりやっていけば必ず出来るんです。なんでもそうです。
難しいことをなんでもいっぺんで解ってやろうとするから出来ないんです。それは生意気というんです。そしてやさしいことを繰り返すんです。そうすれば自然に憶えるんです。頭が悪いわけでは決してないんです。
そうしてどんな難しいことであろうと、こつこつやっていくとそう難しいことではな くなるんです。真実というものはいつもこちらに向かってやって来ているものなのです。光が闇に向かって来るように・・・・・。
無限なる真実が私自身のものになっていくんです。
 
 
 
    
2007/09/22  日中/前半
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