有限と無限の対応 2
 
 
<如来について>
 
     『如』と『来』の意味
 
有限。体というものは病気をする。動いているものはやがて動かなくなる。しかしそれも仏法にあうと活性化するのかなと思っております。
 
  
それに対して空や時間のような無限なものがある。それはインドのも言葉でtatha(タター/如)といわれるものです。
日本語では「在るがまま」と訳されますが、中国の老子のことばでいえば、如・真・実・不虚(むなしくない)という字でいわれています。
そういうものがあるんだとブッダはいわれています。
時間は在ります。しかしよく考えないと在るんだということはわからない。空も在るけれども、大きさや、いつからあるって何時まで在るのか、これは解りません。電気もいつから在るのか、いつなくなるのか、全然わからない。人間がいなくなってもあるのかもしれないけれどもそれも解らん。
こういったものは我々では理解できないものです。しかし確かに在る。そのことは誰でも知っていますね。
 
 無限なものは有限な我々と必ずつながっているものなんです。
Tatha(タター/如)というものはそういうものです。
そしてtathaは、“来る”という意味で、英語でいうと"come"にあたります。
ここまでくると仏教も深い理解になってくるんですね。
 
光もそうです。 太陽は1億5000万キロの彼方で高温で燃えている。その燃えている時に出る光がここまで届いているんです。
その光は、そこに立っているイチョウの木、水、魚、石、山、あるいはアメリカやイラク、北朝鮮やインドにも差別なく光はやって来ている。
どこにでも光は来ている。もしくはわたしに向かってくるんですね。
 
 
   『如来』という言葉が持つ二つの意味
 
如来という言葉を『来る』という意味で説明しました。
  実は「来る」という意味の他に往く、おもむく。という意味もあります。
老子は如と言う字を「去く」という漢字をつかって表現しています。ですから如という言葉には「往く」と「来る」という二つの性質を持っている言葉です。
これはつまり”わたしが仏のほうに往く”という意味と、”わたしのもとに仏が来る”という二つの意味があるんですね。
 このことを往相・還相(おうそう・げんそう)といいいます。
 
正信偈の文には『往還回向唯他力』とありますね。
 
  つまり、如(真実)の方に向かっていく、如(真実)のほうがわたしたちのに向かってくるという二つの意味を持っているんですね。
 
 
 
如来と真実と我々の関係
 
人間というものは真(実)のほうに向かっていくものなんだということをお釈迦さまは『涅槃経』(ねはんぎょう)という経典で説いています。
そのお釈迦さまの説法をじっと阿難(アナン)と言う弟子が聞いている。一日一夜で語られたと書いてあるけれども、実際は何年もかかって説かれたものをぎゅっと縮めて書かれてたんだろうとわたしはみています。この涅槃経という経典は沢山あって何回も翻訳されているもので中には漢文にされていないものもあるんです。あるいはサンスクリットではないパーリ語で書かれたものもあるんです。ですから繰り返し繰り返し学んだんでしょうね。翻訳したということは学んだということでしょう。
その中で原語をみてみると『如来』という言葉はここから来ているんです。
 
 
 有限と無限=自利と利他の関係
 
 
太陽からみるとお前たちはわたしの光をあびないと生きていけない。だから「わたしは光となってお前の元に届こう」といわれる。これを他を利する(他利)といいます。
我々の方からみると他から利される(利他)ということになります。太陽がわたしの元までやって来てわたしが生きられるいのちを与えてくれる。
そういうことを他力というんです。
他力という言葉を中国で使った時に中国の人たちは大変誤解したようです。こんな言葉はふさわしくないといわれてその当時の人から批判を受けたに違いない。そういうことは曽我先生の授業の中にあります。「他力は俗語、利他が正語」という講演があります。
 
 
   “浄土”という表現方法と道場
 
真というものがある。実というものがある。
そういうことを中国の人たちは“如”と呼んだんです。
“真”も”実”も「まこと」と読みます。“信”もまことです。これは“虚しからざるもの、偽りのないもの、あるいは“正”という字をあてたり、“定”という字をあてたりするんです。
  浄土というのは、真実の在処、真実の蔵といったもので、そういった表現でしかいいようのないものなんです。そこから、真実(如来)が来るんです。真実が私のもとに来ているんです。しかし私たちは自分中心に考えていますから、真実(如来)が来ていることに気付かない。
 そして、我々はそういうことを考えるということを知らない。もしくはそういうことを知ろうとする志がないんです元々。
ですから、こういう道場を建てて「人間にとってそう言うことを知ることは大事なことなんだ、生きるためにはなくてはならないものなんだ」という人間にとって根本的問いを道場、つまりお寺でここで学ぶんです。
道場の道は“法”すなわち如来ということです。その法、如来わたしの元にやってきている。そのことをわれわれは元来求めて生きている、真実がないと我々は生きていけないものなんだということに目覚めさせる場、それが『道場』ということの意味です。
 
 
      虚しくおわらないもの=如来
 
 天親菩薩は仏さまというものは『不虚作住持』だと言われています。
仏は「不虚」、つまり虚しくない。浄らかで永遠に真実であり続けるわけです。「住持」というのは保つという意味です。だから無限に保ち続けるということです。つまり、『不虚作住持』とは、不虚を住持することを作(な)す。といわれるんですね。
虚しくなるということがない。つまり、永遠に真実がなくては生きていけない我々がいる限り、真実に生きていないものがいる限り、如来は闇に光を送り続けているんです。
 
最後に曽我量深先生のことばを紹介しておわりにします。
 
祖先というものはいつでも自分の中にある。
祖先は自分自身において生きている。
だからそれは、我が業、我が宿業、我が責任である。
だから自分自身がたすかれば、祖先もたすかる。
自分だけがたすかるのではありません。
自分が仏法を信じ
念仏をとなえ、本願を信じてたすかれば、祖先がまたたすかる。
一切の祖先は「どうかおまえたすかってくれ」と願っているのである。
2007/09/22  日中/後半 
Copyright (C) 2006 Mangyoji All rights reserved