形のないもの、もたないもの=時間
我々は有限と無限のご縁の中にある。
我々のいのちには限界がある。しかし、無限なものは形がない。われわれのわかるものでいえば時間。
しかも無限でしょう。我々のほうから時間を見ると、われわれには時間がないけれども、時間そのものは無限です。人間がいなくなっても、地球がなくなっても時間はあり続ける。
10年、20年と時が経っていく“はたらき”を時間と呼ぶのでしょう。これはほんとうに不可思議なものですね。こういうことを不可思議というのでしょう、考えても解らないんっですもんね。
いつから時間ってあったのか、いつまで時間というものが在るのか、どれだけの大きさなのか、考えてもわかりませんね。
そしてそういうものはわれわれと関係がないかと言うと、絶対そんなことはない。全部時間と我々は関係している。善人も悪人も金持ちもお金のないひとも女も男もどんな職業の人でも、どんな身分でもみな同じ時間と関係している。時差があって地球の裏側は夜なのでしょうが、同じ時間に変わりはりません。やはり世界中の人々が同じ時間の中に共に暮らしているわけです。人間だけではなく、鳥や魚や草も木も、万物が同じ時間を生きている。形を変えるはたらきを持ってはいるけれども、形はない。
つまり、タイトルが示すように、すべてのものが対応している。
つまり、わたしは「仏とはなにか」ということを語ろうと思っておるんです。
ただ仏といっても、優しい人のことを仏と言ってみたり、死んだ人のことを仏さまと言ってみたり、いろいろな言い方があります。または仏像や呼び方、はたまた宗派によっても違う。もうわけがわからなくなるのではないかと。
ですから、きょうは仏さまというものを原点に返って、源流に還って原理的に考えてみたいと思います。
仏さまというものは、有限から無限に用らきを持っているもの、はたらきそのものを『ほとけさま』と名付けるんです。
用らきです。ほとけさまは見えない。しかし、見えないけれども用らきがあるんです。
「いのち」というものはどういうものかと言うと時間や空や電気もそうですが、用らきによって成り立っています。
そのいのちというものを二つに分けて考えられると思います。
一つは、まず「命を大切に」という意味での体(身)のいのち。生き物としてのいのちです。そのいのちはまず生まれるものでしょう。