本日行われた建築夜楽校2008に参加した。
一つの具体的なキーワードとしてタワーマンションを挙げ、モデレーターの藤村龍至氏、南後由和氏をはじめ、北京で活躍する建築家–迫慶一朗氏、今回私にとって非常に刺激的な意見を述べてくれていた日建の山梨知彦氏、私が初めて日本で美しいと思ったマンション「虎ノ門タワーズ」を設計した憧れの鹿島建設–北典夫氏などアトリエ系と組織系の建築家が集まり、さらに団地やジャンクションなど“崇高”な都市建造物を愛し語り口が愉快な大山顕氏、コメンテーターとして批評家の東浩之氏を招いての議論が行われた。こうしたそれぞれが異なるバックグラウンドを持ちながらそれぞれの切り口で社会を議論する際に浮き彫りになる各者の個性は場の空気を華やかにし、また議論もかなり多様になった。結局どんな視点から論じても今回私が読み取った結論は―それが主題から外れてしまっているとしても―ひとつまとまったものになったと思う。専門的・職業的な個性を様々に集め議論する(または創作する)ということの豊かさに聴き手として改めて気づかされたというのが第一に今回の収穫であった。
山本理顕先生のもとから独立し今北京でタワーマンションを建てまくっている迫氏。その建築の形相は“派手”であり驚くべきものであった。というのも、のちのちお話を伺うと中国では今開発が進んでいる地域にそういったランドマークとなるような建築が求められているようなのだ。その建築が建つことで、その地域の今後の方向性が示されることにもなる。中国では分譲マンションのほとんどが投資目的で購入されるという現状を考えると、ランドマークとなるマンションを持つステータス、また先程述べた地域の開発のための方向性提示、そういった要求に応えている迫氏のタワーマンションは、今回の議論の事前に提示された主旨で述べられているようないわば自動的に建てられたものと言えるだろうか。開発の原動力として欲しいというニーズに応じている点で、それは必然的に建ったとも言えるが、購入される住戸が投資目的のためというのは(それが現状だとしても)個人的に腑に落ちないのだ。それが本当にニーズと言えるのだろうか。
それにしても、迫氏のデザインは私にとって非常に新感覚であった。こういうデザインをしてもいいのかという驚きもあった。まず斉南マンションという水平方向のストライプによってデザインされたマンションである。垂直方向に延びる超高層に感じる権威に欲望が傾くことに関心をおき、それを水平方向のストライプのデザインで表現できないかというものだ。今回の議論の内容において迫氏が中国で行っているタワーマンション建設は非常に特殊で、迫氏が行っている建築そのものがこの議題の理想なのではないかと思えたので今回迫氏について記述した。
議論はサスティナビリティへと終結した。
いわば自動的に建っていると表現された都内のタワーマンションだが、それは人間が自らコントロールできない大きな力によって存在しうるのであると言える。つまり、タワーマンションは経済的な要求によって生まれ、また維持されているのでありそれは日本の経済状況を反映しているからである。資本主義経済の中でそういった需要と供給を作家という第三者によってもはや止める事はできないであろうという結論に至った。都市論的観点からのみタワーマンションを論ずる事はもはや無意味で、経済や地域社会の観点から切り込む事でそれがが持つ意味や背景を探れるのではないか。私たちがもはやコントロールできない大きな力に関して、議論の中で様々に例えられた。一つはGoogleである。それは一つの組織が全体をコントロールしようとして成り立っているのではなく、世界中の人々が情報を蓄積する事でGoogleは成立している。それはまさに自動的に成立しているとも言え、実際にアルゴリズムシステムが機械的にそれを更新してもいる。
また、美と崇高に関する論述が非常に説得力があった。美が人間の想像力・創造力によって生み出されるものだとしたら、崇高は人の範疇を越えた“自然”の領域に見いだされる荘厳な光景のことであり、人はそれを扱う事はできない。もし資本主義社会における経済がその“自然”と同義であるとするならば、その要求に応える形で生まれたものの存在はもはや崇高であると言えないであろうか。今回の議論で重要なのは建築物の存在の背景にある経済性を認識する事で、より広い目で見れば地域性はその地域の経済性によって生まれているのだと考える事だ。地域性こそ自動的に生まれるもののわかりやすい例である。よって作家性によって場のコンテクストを読み取りそこでしか在り得ない環境(建築)を創り出すこと、そういった土着的な作業も、実は成り立ちに経済的背景を持った地域という“自然”を相手にしているのだと考える事ができ、作家性も経済性を背景に持つことを否定できないと言える。
以上をふまえた上で、一人の建築家としてタワーマンションの林立に対してどんなアプローチができるのかと考えた時、その存在は“自然”に匹敵する必然だと認識した上で私たちが考えるべきなのは、もしその建築の存在に経済的必然性の薄れが現れた場合に、それ自体を残したいと社会に意識させることに最も可能性を感じる。また山梨氏がおっしゃられるように、豊かな”次”を誘発するシステムを考案する事は、私たちの役割として非常に大きいものだと思う。
サスティナブルな建築を考える時、それに必要な技術はもはや手中に在り、むしろ維持に必要なメンテナンスをしてでも地域がその建築を残そうと思うかどうかではないだろうか。しかし経済的利益回収のための建築的更新は行われるものであると思うし、経済的要求を満たすために建てられたタワーマンション(それはプチブルが自らをヒエラルキー表に当てはめて満足する事に使われる)が地域の財産となる事はデザインの持つ可能性を越えていると言える。そうしたなかで私たちがすべきなのは、次(可能性)につながる提案ではないだろうか。大きな力に真っ向から抗うのではなく、長いスパンで建築や都市の未来を理想に近づけることを考える方が可能性があるのではないかと私は今回の議論を通じて考えた。
日本大学理工学部建築学科2年 中井 翔也