およそ50年前の昭和31年7、8月、財団法人神道文化会は、国学院大学の滝川政次郎教授(法制史)を団長とする総勢30余名の調査団を、天孫降臨神話で知られる九州の高千穂・阿蘇に派遣し、学際的調査を実施しました。その目的は記紀神話に描かれた天孫降臨の実証研究にありました。
報告書『高千穂・阿蘇』に教授が書いた序文によると、皇祖発祥の地は、戦前は九州説が有力だったが、戦後は大和説が有力になった。戦前は政府が九州説以外を許さず、異説を弾圧した。そのことへの反感が戦後の大和説に力を与えた。けれども歴史は実証的でなければならない、というので、現地調査が企画されたのだといいます。
アとから、「誤報」騒動に発展しました。
記事は、高千穂にある岩戸神社の古代文字(神代文字)は江戸時代の製造で、高千穂周辺の古墳は年代が新しい。したがって「天孫降臨の地としての高千穂は影が薄く、神話は神話でしかなかった、という結論を見出さざるを得なくなった」と伝えました。
これは調査員の片言隻句を専門家の見解とした報道のようでしたが、記事を読んだ住民は事実と信じ込み、教授らの調査に猛反発します。
▼相変わらず「虚偽の報道」にご執心
調査団にとっては濡れ衣で、誤解を解くための現地講演会が開催されました。
──古墳を根拠に天孫降臨を実証できないのは明らかだが、だからといって高千穂が天孫降臨の地でないとは断定できない。記事は途方もない飛躍で、中傷に過ぎない。
調査団は新聞報道の非を鳴らし、文化会は事実を歪曲して報道した責任を問う抗議声明を発表しました。
けれども、当時の調査員によると、朝日側は梨の礫(つぶて)だったといいます。それどころではありません。「マスコミ大親分」の異名をとる大宅壮一を押し立てて記者団を送り込み、「天孫降臨てんやわんや──復活しそこねた神話」と題する記事を「週刊朝日」に載せました。
週刊誌は、調査団の意図は神武天皇の実在証明で、紀元節の復活にも通じる。敗戦でご破算になったかに見えた「神話」が復活しつつあるようだ、と揶揄(やゆ)し、果ては憲法改正運動ともつながっている、と中傷して、宮崎・鹿児島両県の「高千穂」の本家争いは観光合戦だ、とからかったのでした。
滝川教授は、報告書の序文に悲痛とも聞こえる批判を載せています。
──戦時中、検察官や憲兵は「危険思想」のリストに載せられた人間の罪状をでっち上げた。戦後は新聞記者が事実の捏造や虚偽の報道という卑劣な手段で弾圧者を演じている。
戦前・戦中の扇動家が敗戦を境にまんまと平和主義者に豹変した事例は少なくないようですが、じつは大新聞こそ、その代表なのでした。しかも相も変わらず「虚偽の報道」に血道を上げている。
▼「社会の公器」という「神話」
戦時中、大新聞が「大本営発表」を垂れ流しにし、国民の戦意をあおり、戦争の狂気に駆り立てたことは否定しようがないでしょう。
たとえば東京朝日新聞は国民の戦意を高揚させるイベントをいくつも手がけています。
会」も同時に開かれ、展覧会の模様は連日のように紙面に取り上げられました。
ところが、これまた興味深いことに、平成になってまとめられた『社史』全4巻には「戦車展」の記載は見当たりません。
しかも、画期的といわれる新聞連載「戦後50年 メディアの検証」でさえ、言論統制下の新聞の実態を時代への「迎合」と書き、一昨年の連載「歴史と向き合う」は「右翼の圧力があった」とさらに踏み込んだものの、被害者という位置づけは変わりません。
しかし大新聞が時代の犠牲者ではあり得ません。新聞ビジネスにとっては、戦争は時の氏神であり、部数は右肩上がりで増え続け、「経理面の黄金時代」(『七十年小史』)を築いたのです。
敗戦後、みずから責任をとって歴史に幕を閉じた報道機関は国策通信社の同盟通信以外にはないといいます。しかしその同盟ですら、実態は共同通信と時事通信に分離独立したに過ぎません。
これら報道機関に天孫降臨神話を作り話などと批判する資格はありません。「社会の公器」「社会の木鐸」という新聞の理念こそ「神話」なのです。
参考文献=『高千穂・阿蘇』(神道文化会、昭和35年)、『朝日新聞七十年小史』(朝日新聞社、昭和24年)、『朝日新聞社史』(朝日新聞社、1990-95年)など
以上、斎藤吉久の「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジンから。