話題「皇室の権威から生まれた紙幣」
 
▽伊勢で流通した「山田羽書」
 
 日本で最古の紙幣を発行したのは、皇室の祖神・天照大神をまつる伊勢神宮に奉仕する神職(御師、おし)たちだといわれます。しかし、なぜ神宮の神職が紙幣を発行するに至ったのでしょうか。
 
 皇学館理事長などの要職を務めた櫻井勝之進氏の『伊勢神宮』によると、神宮に幣帛(へいはく。捧げもの)をお供えできるのは本来、天皇お一人に限られていました。そのため「紙幣禁断の社」といわれ、神領の寄進や祈祷、金品の献進は、願主が直接、神前に捧げることはできませんでした。
 
 そのため主として権禰宜(ごんねぎ)とよばれる位の神職たちが、大神の神徳を仰ぎ、神威を蒙りたいと願う人々の志を大神の御前に取り次いだのです。これが「口入(くちいれ)神主」で、一面では御祈祷師すなわち御師でもありました。御師たちの活動によって伊勢の信仰は全国の各階層に広がり、御師と檀家の関係は家や村ごとに、代々、受け継がれ、強固なものとなりました。
 
 日銀調査局の妹尾守雄氏の研究などによると、伊勢の信仰が全国的に盛んになり、神宮への参拝も飛躍的に増えたことから、中世末期、伊勢国は山城、近江と並んで、商業が発達した経済的な先進地となっていました。伊勢の神領は内宮領、外宮領とも、歴史的に守護不入の地で、徴税、政務、警察権を行使する自治組織がありました。それぞれに支配の実権を握っていたのは御師たちで、安土桃山時代末期になると、御師たちが秤量銀貨の釣り銭替はりに発行した、「山田羽書(はがき)」と呼ばれるお札が伊勢山田地方で流通していました。
 
▽藩札の原型になる
 
 当時の銀貨は一定の額面を持たず、そのつど重さを量って使われました。そのため端数の調整には、必要な目方分をけずって使用する「切遣い」という習慣がありました。ところが、元和年間(17世紀初頭)に幕府がこの切遣いを禁止したことから、「羽書」は端数処理の手段として俄然、引く手あまたとなり、やがて一定の額面を持つようになったといわれます。
 
 現存する最古の「山田羽書」は慶長15年(1610)頃に発行された預かり手形の「丁銀伍分札」で、短冊形、厚手の和紙の上部に大黒天が描かれ、中央に「丁銀」の文字、金額、下部に兌換文言、最下段に発行者の「山田大路長右」の銘が記入してあります。
 
 山田羽書は伊勢の信仰、すなわち皇室に対する崇敬の念に支えられて社会的信用が高く、そのため公的な性格を持って流通し、のちに藩札の原型ともなりました。近代の貨幣制度にも劣らないほど発行制度が完備し、日本最古の紙幣ながら幕府公認のもと江戸末期まで継続的に発行され、近代紙幣とのつながりも認められるといわれます。
 
▽GHQが追放した忠臣の肖像
 
 お札にはしばしば肖像が描かれています。目的は二つあり、一つは偽造防止。人の顔は少しでも印刷がずれていると違和感が生じ、真贋の判別がつきやすいため。二つめは人々に親近感を持ってもらうためで、これまで日本のお札に描かれた人物は18人。最初の本格的肖像は神功皇后でした。君主制の国ではしばしば国王や女王、元国王の肖像が紙幣に描かれていますが、唯一の例外は日本で、御真影を用いることはあまりにも畏れ多いと考えられたのでした。
 
 敗戦後、連合国軍総司令部(GHQ)は過酷な占領政策を強行しましたが、それは紙幣発行にも及びました。政府は明治以来、認められてきた日本武尊(やまとたけるのみこと)など古代の忠臣たちの肖像を紙幣の図案に採用してきたのですが、GHQはこれらを「軍国主義的」として「追放」したのです。
 
参考文献=曽我部静雄『紙幣発達史』(印刷庁、1951)、朝日新聞社編『日本の紙幣』(アサヒ写真ブック、1959年)、櫻井勝之進『伊勢神宮』(学生社、1969年)、妹尾守雄『山田羽書の事歴』(日本銀行調査局、1970年)、植村峻『紙幣肖像の歴史』(東京美術選書、1989年)、植村峻『お札の文化史』(NTT出版、1994年)など
 
 
以上、斎藤吉久の「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジンから。
平成20年7月1日火曜日