黙祷のルーツは昭和天皇の御外遊?
 
 皇太子殿下は明日16日からスペインをご訪問になります。先週の記者会見では「相互理解と友好増進のために少しでもお役に立てれば」とお話になりました。
 
 日本の皇太子が外遊されるようになったのは昭和天皇が最初ですが、この御外遊がどうやら黙祷の歴史と関係がありそうだということに私は注目しています。
 
 毎年、終戦記念日の8月15日、東京の日本武道館で政府主催の全国戦没者追悼式が行われ、かつて玉音放送が全国に流れた正午を期して「一分間の黙祷」が捧げられますが、この一定の時刻に人々が沈黙の祈りを共有する黙祷のルーツのひとつが昭和天皇の御外遊らしいのです。
 
▽第一次大戦休戦1周年の「2分間の沈黙」
 
 戦没者を対象とする国民儀礼としての黙祷の歴史はイギリスで始まったようです。第一次大戦休戦一周年の1919(大正8)年11月11日、国王ジョージ五世の呼びかけで「二分間の沈黙」が行われました。
 
 「すべての交通機関を止め、完全な静寂の中で、すべての人々は思いを英霊への敬虔な追憶に集中させよ」
 
 ロンドン市長公邸で感動的な野外ミサが捧げられ、市長の合図で静かな祈りが捧げられました。
 
 翌年の休戦記念日はもっと盛大でした。ロンドンの官庁街に石造りの記念碑セノタフが建てられ、除幕式に合わせて人々は沈黙の祈りを捧げました。
 
 大正10年春から7カ月にわたる御外遊の旅に出た皇太子裕仁親王(昭和天皇)がイギリスに到着後、最初に行った公式行事はセノタフへの表敬で、皇太子は花環を捧げ、深々と拝礼され、イギリス国民に深い感動を与えました。
 
▽関東大震災1周年の「2分間の黙祷」
 
 黙祷が国民儀礼として日本社会に定着するきっかけとなったのは、大正13年9月の関東大震災一周年です。
 
 記録によると、東京府・市と東京商業会議所、東京実業組合連合会が震災記念事業協議会を組織して協議を重ね、震災発生時刻に社寺教会は鼓鐘、工場船舶は汽笛を鳴らし、市電は一分間停車、市民は「黙想反省」することなどを決めました。
 
 「黙想反省」は宗教を毛嫌いする当時の行政の姿勢を反映してか、きわめて無機質的な表現ですが、新聞はこれを「祈念黙想」と言い換えて報道します。
 
 朝日新聞に「二分間の黙祷」が現れるのは、震災一周年当日を数日後にひかえた予定記事です。天皇皇后両陛下ならびに皇太子・同妃両殿下が震災追悼式に花環を下賜されるとともに、東宮殿下が赤坂仮御所で「二分間の御黙祷」を捧げられることになったというのです。
 
 あたかも協議会が決めた非宗教的儀礼に宗教的な命が吹き込まれたかのように、この報道を境に、市民の「祈念黙想」は「黙祷」に一変しました。
 
 朝日新聞が一周年当日の東京駅界隈の様子を伝えています。「東京駅では、田舎のお婆さんがやおら立ち上がり黙祷を始めると、人々は一斉に緊張した黙祷を捧げた」。新しい儀礼に不慣れなぎこちなさが伝わってきます。
 
 宗教者たちはこの年も東京市主催の震災一周年追悼式を宗教儀礼によって行うことを強く迫ったのですが、当局はこれを拒否し、被服廠跡(いまの東京都慰霊堂)では無宗教の式典が催されました。他方、既成の宗教儀礼によらない黙祷はこののち行政に受け入れられていきました。
 
▽「黙祷はキリスト教の形式」
 
 「黙祷」の歴史を考える上で注目される記事が、昭和16年元日の朝日新聞に載っています。
 
 前年秋に設立された神祇院という役所が、「国礼の統一」の一環で、「黙祷廃止」を検討し始めたのです。「黙祷はキリスト教の形式で、震災記念日に東京市民が始めた一分間の黙祷が全国に広がったらしいことから、神祇院は西洋思想の流れをくむ黙祷を廃し、日本古来の最敬礼と二拝二拍手一拝の礼式を国礼として制定する意向」でした。
 
 しかし結局、黙祷は継続することになります。大政翼賛会文化部、文部省、神祇院が協議した結果、「黙祷は日本人の日常生活に融合、慣習化されている。国民全体が敬神感謝の意を表する適切な形式である」という見解がまとまったからで、同年春の靖国神社の臨時大祭には例年通り黙祷が捧げられました。
 
 今日、キリスト教指導者たちは「国家神道」の時代にキリスト者が迫害・弾圧を受けたと主張していますが、「国家神道」の中心施設と理解された靖国神社ではキリスト教の形式とされた黙祷が受け入れられていたのです。
 
参考文献 斎藤吉久「黙祷──死者に捧げる無宗教儀礼の一考察」(「正論」産経新聞社、2006年2月号)など
 
 
以上、斎藤吉久の「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジンから。
平成20年7月15日火曜日