▼政府はアメリカ型農業を導入
北海道は、米の生産量が60万トン(平成19年)もあり、いまでは新潟に次ぐ米どころですが、そうなったのは近代以後のことで、逆境にもめげずに寒地稲作に挑み、のちに「北海道稲作の父」と呼ばれた1人の男の苦労と涙の物語を忘れることはできません。
なにしろ、明治の初期、日本政府は北の大地での稲作に執着することはありませんでした。
明治2(1869)年に開拓使(のちの北海道庁)が設置され、翌年、開拓次官に就任した黒田清隆は、天皇の許しを得て、渡米し、北海道開拓の筋道を与えてくれる助言者を捜しました。
そして現職のアメリカ農務局長ホーレス・ケプロンが開拓顧問に招かれるのですが、ケプロンが指し示したのは、稲作を中心とした伝統的日本農業からの決別であり、当時、アメリカ東北部で主流だった家畜と畑作との混合農業の導入でした。
▼寒さと孤独に耐え
北海道は合理主義的欧化政策のいわば実験場でした。明治9年に札幌農学校(現在の北海道大学)が設立されたとき、黒田は開校式で、欧米の科学的な農業を摂取し、全国に普及させることが必要だ、と訴えました。教頭に就任したウイリアム・クラーク(マサチューセッツ農科大学学長)によって聖書教育が実施され、寮の規約には「米飯を食すべからず」と明記されていたほどです。
こうした政府の方針に逆らうように、寒地の稲作に果敢に挑んだのは民間人であり、明治初期、石狩地方で米作りを成功させたのは中山久蔵その人です。
文政11(1828)年、河内国(大阪)に生まれた久蔵は、明治維新の前は仙台藩士に仕えていましたが、武士の時代が終わると42歳の厄年を機に、一大決心の末、北海道へ単身移住し、なんと無一物で島松(シママップ。いまは北広島市)に入植、6000坪の開墾を始めました。奇しくもケプロン来日と同じ明治4年のことでした。
久蔵は粗末な小屋に住み、寒さと孤独に耐えながら、寒地稲作に取り組みましたが、うまくいきません。3年目の6年には寒さに強いという芒(ぼう。のげ)の赤い赤毛種の種籾を渡島地方から取り寄せ、1反歩(10アール)の水田耕作を試みました。
しかし5月にまいたモミはなかなか発芽しません。風呂の湯を沸かし、昼夜、苗代に流し入れ、さらにかたわらを流れる島松川の水を暖水路であたため、水田に引きました。涙ぐましい苦労と粘りがようやく実り、ついにこの秋、2.3石の収穫が得られたといいます。
▼明治天皇のご下問に接して
クラークが来日したのはこの3年後の明治9年です。翌年、クラークは「少年よ、大志を抱け」の名セリフを残して、学生に別れを告げたのですが、奇しくもその駅逓こそ、じつは久蔵の自宅でした。
かたや欧米の農業ばかりかキリスト教教育までも導入したクラーク、かたや伝統的な稲作にあくまでこだわり、成功させた久蔵。そしてクラークは帰国し、久蔵の米は開拓移民を通じて北の大地に着実に根付いていきました。
久蔵の成功の喜びと重みを象徴する出来事は明治14年9月、東北・北海道を巡幸中の明治天皇が久蔵宅で休息され、昼食を召し上がったことでした。久蔵は親しく天皇のご下問に接し、7年間に収穫した稲穂などをお見せしました。「金300円、並びに御紋付き三つ組み銀杯」を頂戴した久蔵はただただ感涙にむせんだと伝えられます。
この巡幸が転機となり、開拓使は幕を閉じ、北海道庁が生まれます。開拓当初は米食禁止令が出され、稲作を試みた農民が投獄されるということさえありましたが、道庁は26年に稲作試験場を開設し、寒地稲作を推進します。「米を作りたい」と願い、成功させた民間人の汗と涙を無視できなくなった結果でした。28年には久蔵が育てた新穀が宮中の新嘗祭にささげられました。
久蔵の苦労そして成功がなければ、今日の北海道の稲作はあり得なかったでしょう。
参考文献 『新撰北海道史2 通説1』(北海道庁、1937年)、『北海道農業発達史』(北海道立総合経済研究所編、1963年)、『北大百年史 通説』(北海道大学、1982年)、『恵廸寮史』(北海道帝国大学恵廸寮、1933年)、『広島村史』(広島村、1960年)など
以上、斎藤吉久の「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジンから。