写真を撮るときに一番大事なのが被写体を「好き」だと思うことだと考えています。小学校で講演をしたときに「どうやったら写真がうまくなるのですか?」と子どもに聞かれ、「好きなものを写せばいいんです」と答えたことを思い出しました。
なぜこんなことを書き出したかというと、今年マドレーヌ島にアザラシの写真を撮りに来た方に、非常にアザラシ好きの熱心な方がいて、「来年もまた来ます。今度はずっと長くいたいです」と語っていた方がいました。
サインをしてほしいと頼まれた写真集が、私の最初の本の初版本だったのが非常に嬉しかったです。大事に持っていてくれたのですね。
この方のブログ(←リンクしています)とそこで取り上げられている他の写真家の方の話を見て、自分が動物写真家になった頃のことを思い出しました。この方はマドレーヌ島に限らず、出会えるアザラシをとにかく熱心に、そし愛くるしく、面白く、楽しく、撮っている方なのですが、最初は「可愛いだけじゃ・・」といわれて随分悩まれたようです。
指導してくれた写真家の方が、「そうじゃないよ」と正しく導いて、後押ししてくれたので、今も個性を失わずに、すごくいいアザラシ写真を撮っておられます。
私も最初の写真集「アザラシの赤ちゃん」が動物の写真集としては空前のヒットだったために、他の動物写真家たちにはずいぶん批判をされました。
同様に「可愛いだけじゃ、いけない」といった内容でした。まあ確かに「可愛い」だけで作ったので、その批判は筋違いではないのですが、「なぜいけないのか?」といったことは、良く判りませんでした。
可愛いものを可愛くとってなぜいけないのだろう?
たとえば可愛い女の子の写真を撮るときに、もっとその子の表面に見えないドロドロした部分も写し出さないといけない、などと考えるのだろうか。見たくないですよね。
なぜ生きものの写真では「可愛いだけじゃだめ」というかというと、「環境問題」がブームのように語られるようになって、とかく「自然の神秘」だとか「野生の尊厳」などといったタームが尊重される傾向があったからでしょう。
「可愛いだけじゃいけない」といった動物写真家の巨匠は、お会いしたときに「自分は動物写真を報道写真のように撮りたい」と語っていました。
「報道写真」が誤解されていないだろうか?
当時バリバリの現役の報道写真家だった私は思いました。優れた報道写真、歴史に残る報道写真はなにも、悲惨な現実や人間の醜い姿、行動などを写しだしたものではないのですね。そういう速報の「ニュース写真」もあるのですが、たとえば「ピューリツア賞」をとったりするような写真は決して、悲惨なところばかりではなく、むしろ「悲惨な現場での最も美しい光景」が撮られていることが多いです。
私の報道写真の現役時代に最も評価された天安門事件の写真もこのタイプです。戦車の前でつながれた手と手が美しいと思ったからの写真です。この写真は米国LIFE誌の「The Best of LIFE」という記念エディションに選ばれているのですが、これはある意味ピューリツアよりも高い評価なのです。ピューリツアは毎年一人が選出されますが、「The Best of LIFE」は14年間(1978-1991)で11枚しか報道写真は選ばれていません。
ちなみにLIFEが最初にその写真を年末総集号で掲載したときに、私の写真を見開きにし、隣のサブカットがその年のピューリツアでした。そのサブカットはもちろん「The Best・・」には選ばれていません。
ちょっと自慢が長くなりましたが、いいたかったのは、報道写真の世界では、「いやだな」と思うことを伝えた写真よりも、「(いやな現場のなかでも)こんな美しい光景があった(だから人間って美しい)」というポジティブな側面を伝えた写真の方が高く評価されます。
私もそのような写真の方が好きです。
動物写真も同じだと思います。心配される地球環境の中でこんな美しい光景があった、こんな愛くるしい動物がいた。それの方がよほど(私が考える優れた)報道写真的だと思います。
撮影者がこの瞬間が「好きだ」と感じたものがそのまま伝わってくる。それが報道でも動物でも写真で一番大切だと私は思っています。
「好き」ということが個性の始まりだと思っています。
子どもが初めて絵本を選ぶときに、子どもはきちんと「好き」な本を選んできます。これが個性が作られる一歩だと思います。
写真は自己表現です。
よく誤解されるのですが、決して真実を写すものではありません。そもそも平面になった段階、切り取られた段階で真実ではあり得ません。
自己表現は個性がいかに現れるかが肝心です。
だから「好き」が一番強いのです。
17年間アザラシの赤ちゃんの写真を撮って来て、誰よりもそのおかれている環境や、人間との共生の問題も理解しているつもりですが、今新たに写真を選べといわれたら、やはり最初の本と同様のセレクトをすると思います。
そしで「好き」だという思いからこそ「守りたい」「知りたい」という知性が働くのだと思っています。
子どもの詩のコンクールの審査員を妻が努めていた時期があります。
都市部の子どもたちの詩には、「地球環境を守ろう」「森を大切にしよう」といった言葉がこれでもかというぐらい繰り返されます。
ところが、田舎の子どもの詩には、子どもが自分で自然の光景を見つめて言葉にした、すばらしい言葉が次々現れます。
「(トンボが僕の指に止まって)
ぼくの心がシーンとした」
「(イワシが海で跳ねた)
ぼくはかなわないと思った」
こういった自然に生まれてくる言葉っていいですよね。
環境問題も同じだと思います。
「守りましょう、大切にしましょう」ということよりも、「好き」になってもらった方が、よほど強いと思います。子どもって、いくらおもちゃを大切にしなさいといってもしないですが、自分の好きなおもちゃだけは、親にいわれなくても大切にしますよね。
「好き」が一番大事だと思います。