いろんな事件があって、話題が徐々に流れていく。
母親殺しの少年事件が、心の中に澱のように溜まってて、不快でしょうがない。
いっその事、違う視点で眺めてみる。
ただただ腹が立っていたけど、醒めた心で眺めてみる。
思い切って。アートとしてみる。
先入観(被害者の腕として見るのではなく)を持たず、「白く塗った腕が立てかけてある」オブジェとして眺めてみる。
現代アートの「素材」には際限(規制)がない。
そもそも。表現活動は強迫観念に似たところがある。一面でしかないけれど、心の奥底にあるドロドロしたものの捌け口として、芸術作品があるんだと思う。
あの少年の行為は「作品」なのだろうか?
昔、ドイツやフランスの精神科医が、診療で集めた絵画などがきっかけになり、アール・ブリュット(J.デュビュッフェが提唱 Art Brut「正の芸術」の意)運動がおきた。
これは精神異常者や幻視者が描いた絵画などを、作品として見直そうという動きのことだ。
これら作品は、美術教育を受けていない素人作品であり、意図的に描いてはいないという事は、作品自体の純粋無垢に繋がる。その点がこそが、非具象絵画の価値でもある。
(やがて、障害を持つ人の豊かな感性に注視するようになり、障害者理解や自立支援へとなっていく←正の意味)
アール・ブリュット作品には感動する。むろん肯定的な意味での感動ばかりではない。魂を揺り動かす芸術なら、鑑賞する者に、吐き気や目眩を引き起こすものである。そういう意味ではアール・ブリュットは危険とも思える。
つまりオブセッション(Obsession=強迫観念、妄想)がもたらしたアートだから。
オブセッション・アートは絵画だけではない。
映画「セブン」や「ビューティフル・マインド」でも似たシーンがあった。壁一面に聖書の警句や数式が書かれていたり、アルミ箔を張り巡らしたり。
とにかく空白が怖くてしかたがない。空間的な恐怖感だけではなく、音も重要だ。音楽を大音量で流していなければ、耐えられないケースもある。これも強迫観念。
個々人の強迫観念や妄想が現実の壁を乗り越えることは、ある。妄想がアートとして発露する場合だ。
オブセッション・アートはアール・ブリュット以来、既にメジャーである。というか、アール・ブリュットではないけれど、フイルム(映画とか)の中ではメインストリームと言えるのかも知れない。「硫黄島からの手紙」「バトル・ロワイアル」など、自分なりに思い浮かべてしまう。暴力シーンばかりだけど・・。
乱暴な言い方だと思うけど、ズバリ。
オブセッションって、「過剰」なのだ。←キッパリ。
自分から欠落したものは、埋め合わさなければならない。それも、「過剰」に・・。
心の欠落が行動に現れるのなら、コレクター心理は興味深い。
食玩やガシャポンを集めたり、キャラクターを収集したり。それを飾り棚に並べ、際限がない。終わらないことに目を瞑る。
好きなものに囲まれて暮らす生活。別に否定も肯定もない。
生活必需品というよりは、何の役にも立たないモノに溢れかえる部屋。性別を問わず、オタクの部屋ってそうなんだろうなと勝手に想像してしまう。自分の部屋=「妄想の城」である。
電車の中でも、音楽を聴いている人のヘッドフォンから漏れ出る「過剰」なくらいの大音量もそうだ。
その、大音量を気にしなくなっている自分自身に、さほど違和感を感じなくなっている。
現実の猟奇殺人がフィクションよりも、頻繁に起こりすぎていて感覚が麻痺しつつある。
やっぱり。オブセッションは伝播している。
きっと、何かの衝動。
現実と妄想の区別の見分けがつかないとき。
「白く塗った腕」は母親の腕ではなくて、少年の中で、オブジェになったんだと思う。
とまれ。
逆説的な言い方かも、知れないけど。
冒頭で「白く塗った腕」をアートとして解釈しようとしたのは、僕自身が、オブセッションに囚われているからかも。
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