私の代わりに笑ってもらえますか?
Will You Laugh for Me, Please?
スラヴォイ・ジジェク
Slavoj Žižek
訳:佐近田展康
私の代わりに笑ってもらえますか?
Will You Laugh for Me, Please?
スラヴォイ・ジジェク
Slavoj Žižek
訳:佐近田展康
[2003年]4月8日、缶詰の笑い[canned laughter]の発明者であるチャールズ・R・ダグラス(1)が、カリフォルニア州テンプルトンにてこの世を去った。享年93歳だった。缶詰の笑いとは、テレビ番組でコミカルな場面に付けられる人工的なお祭り騒ぎのような笑い声のことだ。1950年代の初期に、彼はテレビを見る生の視聴者の反応を強化したり代理するアイデアを発展させた。このアイデアはキーボードのような機械によって実現され、キーを押せばそれぞれ異なった種類の笑い声を発生させることができた。『ジャック・ベニー・ショー』(2)や『アイ・ラブ・ルーシー』(3)の中で初めて使用されて以来、今日ではその現代版がいたる所で見うけられる。
缶詰の笑いは、われわれの最も奥深い部分にある情動の状態について、自然な前提を土台から覆している。にもかかわらず、これほど圧倒的に普及したことで、私たちの眼にはそのパラドクスの核心が見えなくなってしまっている。缶詰の笑いは真の「抑圧されたものの回帰」を示しており、それは通常われわれが「プリミティブな人びと」の属性だと考えている態度の回帰なのだ。伝統社会における「泣き女」── 葬儀の際に泣くために雇われる女性 (4) ── という不可思議な現象のことを思い起こしてほしい。裕福な人間は自分の代理として嘆き悲しんでもらうために彼女たちを雇うことができる。泣いてもらっているあいだに雇い主は(遺産相続の交渉といった)より実利的な用件に関わることができる。この役割は他の人間によって演じられるだけでなく、チベットの転経器(5)のように、機械によっても演じられる。筒の中に祈りを書いた紙を入れ機械的に回す(さらには風車に接続することで回す)。そうすれば機械が私の代わりに祈ってくれる。もっとはっきり言えば、自分の精神が最も汚らわしい性的な考えに支配されている最中でも、その道具を使って私は「客観的に」祈ることさえできるわけだ。
ダグラスの発明は、これと同じ「プリミティブ」なメカニズムが、高度に発達した先進社会においても機能していることを証明した。夜になって私は帰宅する。すっかり疲れ果ててしまって、もう意味のある活動などできない。そんな時、私はただテレビのコメディ番組にチャンネルを合わせる。ハードな一日で疲れた私は、たとえ自分が笑わなくてもただテレビ画面をじっと見つめていさえすれば、見終わったあとにホッと解放された気分になる。これは、まるでテレビが、文字通り私の代理として私に代わって笑ってくれているようなものだ。
しかし、それでも人びとが缶詰の笑いに慣れるまでには、わずかばかり居心地の悪い期間があるのが普通だろう。つまり、そこにある機械が「私に代わって笑う」などという事態は簡単には受け入れられる話ではないので、最初は軽くショックを受ける。番組が「スタジオにいる観客を前にライブで収録されたもの」(6)だったとしても、その観客のなかにテレビを見ている自分は含まれてはいない。まして、いまやテレビ番組自体の一部としてメディア化された形式のなかにのみ観客は存在している。しかしながら、時間が経つとともに、この肉体のない笑い声に人びとは慣れて行き、その現象は「自然な」ものとして経験されるようになる。これが缶詰の笑いにまつわる薄気味悪さだ。つまり、私にとって最も個人的であるはずの感情をラディカルに外在化することが可能なのだ。私は文字通り他者を通して笑ったり泣いたりできるのである。
この論理は、情動だけでなく信念についても適用できる。有名な人類学の逸話によれば、例えば自分たちが魚や鳥の子孫であるといったある種の「迷信」を信じる「プリミティブな人びと」に、直接この信念について尋ねてみると「もちろん違う。われわれはそんなにバカじゃない。けれども私は先祖が確かにそう信じていたと聞かされている」と答える。要するに、彼らは自己の信念を他者へと転移しているのだ。同じことをわれわれは子供たちにしてはいないだろうか?子供たちがサンタクロースの存在を信じている(だろうと想定されている)ので、がっかりさせたくないから、われわれはサンタの儀式を続けている。子供たちもわれわれ大人を、つまり子供は無邪気なものだという大人の信念を、失望させないために信じるふりをしている(もちろんプレゼントを獲得するためではあるが)。(7)
ある不気味な方法で、信念のなかにはつねに「離れたところから」機能するものがあるように思われる。機能する信念には、その究極的な保証人がなければならない。しかし、この保証人の登場はつねに延期され、居所を追われ、具体的な人としては決して現れない。その信念が効果を及ぼすためには、必ずしも直接的に信念を持つ他者が現実に実在する必要はない。見せかけのなかに、いわば、われわれにとって現実の一部ではない神話的な創始者のなかに、単に実在すると想定されるだけで十分なのだ。
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こうした背景に対して「インタラクティブ性[相互作用性]」という流行の観念を、その影のようなずっと不気味な代役である「相互受動性[interpassivity]」(ロベルト・ファラーの用語)(8) によって補完したくなる。今日、新しい電子メディアとともにテクストや芸術作品の受動的消費は終わったのだと強調するのはごくありふれたことだ。もう私はただじっとスクリーンを見つめているだけではない、ますますそれとインタラクティブに関わるようになり、対話的な関係に参入する。こうして、番組を選ぶことから始まり、ヴァーチャル・コミュニティ内の議論に参加するようになり、さらには、いわゆる「インタラクティブな物語り[interactive narratives]」(9)における筋書きの結末を直接に決定する立場にまでに至る。
ニューメディアが持つ民主主義的な潜在能力を称揚する人びとは、一般的に言って、まさにこうした諸特徴に注目する。しかし、私が言う「インタラクション[相互作用]」にはもうひとつの側面があり、それは、満足(あるいは哀しみや笑い)といった私自身の受動的反応を、インタラクションの対象自体が私から奪い取ってしまうことだ。この対象自体は、みずから楽しむ欲求[need]から私を解き放しつつ、私に代わって「番組を楽しんでくれる」わけだ。われわれに代わって受動的に商品を享受しているような膨大な数の広告スポットやポスターを、われわれは「相互受動的に」目撃してはいないだろうか?コカ・コーラの缶には「おぅ!あぁ!なんて美味しいんだろう!」とキャッチコピーが書いてあり、理想的な消費者の反応を前もって代行してくれている。
ある男が面白くない悪い冗談を言い、まわりの誰も笑ってくれない時に、突然大声でキレて、引きつった笑い声を立てたとしよう。気がつけば彼は、期待していた聴衆の反応をみずから実行せざるをえない立場に立たされていたのだ。この補完的な笑いはテレビの缶詰の笑いに似ている。しかし、この例では、われわれに代わって笑う代理人(つまり、うんざりし、きまりの悪い思いをしているわれわれ聴衆にとっての笑う代理人)は、見えざる聴衆に代わって笑ってくれる匿名の音声トラック ── すなわち「大文字の他者[Big Other]」 ── ではない。そうではなく、冗談を言っている当の本人である。彼は、周囲すべての象徴的秩序である「大文字の他者」に、自分の行動をちゃんと登録したたことを確認するためにみずから笑うのである。彼の強迫的な笑いは、われわれがヘマをやったりバカげなことをしでかした時に「おっと!」と言わざるをえないような感覚にずっと近い。もしわれわれが「おっと!」と言わなければ、つまり、間違いを犯したという確認をみずから公共の秩序に登録しなければ、われわれと「大文字の他者」との想像上の対話を不完全なままに放置しておくようなもので、それにより象徴的に忘却されてしまうのである。
強迫的に何百もの映画を録画するようなビデオ・マニア(筆者もそのうちの一人だが)がよく分かっていることは、ビデオ機器を所有することの直接の効果は、そういった録画機器がなかった頃のシンプルなテレビ受像機だけの古き良き時代よりも映画を見なくなったということだ。人びとにはテレビのための時間などない。だから、貴重な夜の時間を失う代わりに、ただ映画をビデオに記録し、将来見るために保存しておくのだ(もちろん、将来もほとんどそんな時間はない)。私は実際には映画を見ないが、私の好きな映画が自分のビデオ・ライブラリに保存されているというまさにその意識によって深い満足を感じる。時にはそのおかげで私はリラックスし、無為[何もしない]というとびきり素晴らしい芸術作品に没頭することができるのだ。まさに、ある意味でビデオ機器が私に代わって、私の代理で映画を見て楽しんでくれているかのようだ。
相互受動的な配置においては、私は大文字の他者[the Other]を通じて受動的となる。私は(享楽の)受動的な側面について大文字の他者に従う。一方でその間、私は能動的に活動を続けられる。つまりレジャーや喪に服するといった「非生産的な」活動の欲求なしにもっと長時間働くことができるのだ。ビデオ機器が私に代わって受動的に楽しんでくれている間に、私は夜になっても働き続けることができる。泣き女が私の代わりに哀しんでくれている間に、遺産相続の財産配分を行うことができるように。
それゆえ保守的な文化批評の常識のひとつは転倒されなければならない。つまり、ニューメディアのせいで、われわれが麻痺したようにぼんやりとスクリーンを見つめるだけの受動的な消費者になってしまうという考えはまったく逆なのだ。むしろ、ニューメディアの真の脅威とは、それがわれわれから受動性を、本物の受動的経験を奪い去ってしまい、そうして精神なき狂乱的活動、終わりなき作業へとわれわれを向かわせようとしていることにある。
したがって、もしチャールズ・R・ダグラスの葬儀で、ささやくような泣き声を発生させる音響機械が彼の棺に添えられたとしたら、それは彼にとって正しい葬儀ではなかろうか?その機械のおかげで、彼の愛する遺族たちはたらふく食事を楽しんだり、ことによっては他所で仕事をしたりできるかも知れないのだ。おそらく、彼ならば不遜なことだと思わず、そんな埋葬を功労として受け取ってくれるのではないかと私は思う。
訳者後記
このテキストは”IN THESE TIMES”のウェブサイトに掲載されたSlavoj Žižek "Will You Laugh for Me, Please?", 2003 の全訳である。サイト上の投稿日は2003年7月18日となっている。原文については以下を参照されたい。
http://www.inthesetimes.com/article/88/
同名のテキストについては"LACAN DOT COM"のウェブサイトにも掲載されているが、内容が若干異なっている。
http://www.lacan.com/zizeklaugh.htm
両者を比較すると、後者は明らかなタイプミスや英語表現の面でも多くの曖昧さを含む一方、前者は分量的にもおよそ30%程度多く、読解にあたってより分かりやすく改訂されているように思われる。このためここでは”IN THESE TIMES”のテキストを元に翻訳を行ったた。[ ]内は訳者によって挿入された原文ないしは補助的語句である。
翻訳ならびに公開にあたっては、ジジェク氏本人の許諾を得ている。原文に忠実に訳すよう心がけたが、数々の誤訳やミスがあると思われるので、ご指摘いただければ幸いである。sako[at]nuas.ac.jp (2008年7月14日)
このテキストの大部分は分解され単行本「ラカンはこう読め!」第二章のなかに再録されている。そのままコピー&ペーストされたパラグラフもあれば、微妙に修正されている部分もある。本テキストでは十分に説明されていない部分についても丁寧な議論が展開されており、鈴木晶氏の明解な訳文もあわせて理解の助けになるだろう。また、修正箇所やパラグラフの組み替えのなかにジジェク氏の執筆プロセスを垣間みれて興味深い。なお同書との比較において誤解を招いたり不適当と思われる訳語があったので本翻訳を一部改訂した。
スラヴォイ・ジジェク「ラカンはこう読め!」鈴木晶訳、紀伊国屋書店、2008年
Slavoj Žižek, “How to read Lacan”, Granta Publications, 2006
(2008年8月8日)
訳注
(1) Charles R. Douglass。1910年メキシコ生まれ。2歳の時にアメリカに移住。ネバダ州立大学で電気工学を学んだ後に、CBSのラジオ技術者となる。その後テレビ番組の音声技術を担当していた1953年に、本稿で言及されている缶詰の笑いを発生させる装置を発明する。これは「Laff Box」と呼ばれ、オルガンのように操作することでさまざまな種類、年齢、性別の笑い声を発生させた。当初は番組収録時に生じた音のギャップを埋める目的で使用されたが、1950年代60年代を通じてテレビ・ラジオのコメディ番組で過剰なまでに多用されるようになる。2003年没。
Christopher Reed, "Charles Douglass - The man who gave us canned laughter", The Guardian, May 1, 2003. Michael Judge,"Charlie Douglass, RIP - Two cheers for canned laughter", The Wall Street Journal, May 8, 2003.
(2) 1950~1965年に米CBSおよびNBCで放映された人気テレビコメディ番組。同じ登場人物が毎回異なったエピソードを演じる「シチュエーション・コメディ(SitCom)」の基礎を作った。
(3) 1951~1960年に米CBSで放映された人気テレビコメディ番組。ちなみに、ジジェクは「缶詰の笑い」を最初に用いた例としてこの2作品をあげているが、「The Hank McCune Show(1950)」が最初だとする説がある。
(4) ここでの泣き女とは、ジジェクが好んであげる例のひとつで、彼自身の故郷であるスロベニアで伝統的に見られる職業を指している(同様の例は中国や日本などさまざまな文化で見られる)。次のインタビューも参照されたい。
http://hive.ntticc.or.jp/contents/interview/zizek/
(5) 「マニ車」と呼ばれるチベット密教の宗教祭具。円筒形の筒内部に経文を入れ回転させると、回転の数だけ経文を唱えたことになると言われる。
(6) 本稿で言及されているダグラスの「缶詰の笑い」は、あらかじめ録音した何種類もの笑い声や拍手をオペレータが操作することで、映像に対して人工的に観客の反応を付加する方法である。しかし、初期のテレビ・コメディ番組では、技術的な理由からスタジオに観客を集めその前で役者が演じる生放送スタイルが用いられていた。したがって笑い声もその場で自然に発生したものになる。このスタイルはリアルな臨場感を演出する方法として現代でも用いられ、缶詰の笑いと併用されることもある。
(7) ここでは訳出しなかったが、前掲の"LACAN DOT COM"のウェブサイトに掲載されたテキストのなかで、ジジェクは、信念の主体を他者に転移するもうひとつの例として、他者に宗教的・民族的原理主義者の烙印を押しつけるケースをあげている。
(8) Robert Pfaller。1962年ウィーン生まれの哲学者。アルチュセールやジジェクに関する論及がある。ファラーの書いたものについて訳者は未見であるが、 文脈上、 “interpassivity” は ”interactivity” をひねった概念であり、ここでは「間受動性」ではなく「相互受動性」と訳した。 ”interactivity” については、電子メディアに関わるキー概念としてすでに日本語として流通しているので「インタラクティブ性」とした。インタラクティブなメディア技術の進展により、個人はますます多くの能動性、主体的自由を獲得するように見える。言い換えれば、個人はあらゆる場面で自己決定し「対象に対して能動的に働きかける者」としてつねにせき立てられている。しかし、同時にその過程は、個人にとって根源的な受動性(対象によって引き起こされる自然な反応)を外在化し、メディアによって媒介された他者へと転移させ、喪失する過程でもある。“interpassivity” は、こうしたパラドキシカルな関係性を表現していると思われる。
(9) 観客やユーザがストーリーの進行に影響を与えるような新しい物語りのスタイルを指す。ジジェクがあげる例では、映画の途中で登場人物の恋の告白が成功するか、殺人が成功するか、裁判の判決が有罪か無罪か等、その後のストーリー展開を観客の電子投票で決定するようなもの。メディアアートや一部の映画の世界では実験的試みとして行われて来たが、RPGなどゲームにおいてはすでに日常化している手法である。
first upload on July 7, 2008
改訂第二稿 on Aug 8. 2008