第268号 この国のかたち 02/07/12
あなたはこの山で示された作り方に従い、
注意して作りなさい。
(出エジプト記 25章40節)
聖書が描いてみせた「神の国」。
「この国のかたち」はどうなっているであろうか。
創世記のごく初めの物語、驚くべき「大洪水」という滅びの到来に際して、
唯一の救いとなった「ノアの箱舟」は、実に「神の国」の全体像を表わしている。
神はノアに命じた。
汝松木(まつのき)をもて
汝のために方舟(はこぶね)を造り
方舟の中に房(ま)を作り瀝青(やに)をもて
その内外(うちそと)を塗るべし
(創世記 6章14節)
ノアは命じられた通りに「箱舟」を作った。
松木(まつのき)と瀝青(やに)といえば・・・
それは主イエスさまの肉体と御血潮を連想させる。
主イエスさま御自身が「神の国」だといっても言い過ぎではない。
その構造上、日頃われらが目にする「ふね」、船舶とは違って
「ノアの箱舟」はある不思議な特長を持っていた。
それは陽光を取り入れる「窓(単数)」が唯ひとつであり、
それも最も高いところに取り付けられていたのであった。
箱舟に明かり取りを造り、上から一アンマにして、
それを仕上げなさい。
(創世記 6章16節)
You shall make a window for the ark,
and you shall finish it to a cubit from above;
(Genesis 6:16)
天からの光がその「一つの窓」から差し込んでくる。
天を仰ぎ見よ、然らば生くべし・・・ということか。
さらに「神の国」の幸いを歌ったダビデの歌
詩篇第133篇をみると・・・。
見よ、兄弟が共に座っている。
なんという恵み、なんという喜び。
かぐわしい油が頭に注がれ、ひげに滴り
衣の襟に垂れるアロンのひげに滴り
ヘルモンにおく露のように
シオンの山々に滴り落ちる。
シオンで、主は布告された
祝福と、とこしえの命を。
祝福の油は大祭司アロンの頭に注がれる、とあり・・・
ヘルモン山に注がれた天よりの露が、多くのシオンの山々に滴るとある。
こうして注意深く「神の国」のかたちをたずねてみると・・・
神がお選びになった「ひとつのもの、一人の人」を通じて、
広く祝福が我ら一般に与えられる、という構造的特長をもっている。
この観点から、目を転じて出エジプトのイスラエルを見ると、
神が選び、そしてお立てになった預言者モーセの姿が浮かび上がってくる。
あるとき、コラ・ダタン・アビラム・オンという力ある指導者たちが
「この国のかたち」に不満を抱いて、250人の名ある人々を仲間にひき入れ、
モーセとアロンに逆らって次の様に言ったのである。
あなたたちは分を超えている。
共同体全体、彼ら全員が聖なる者であって、
主がその中におられるのに、
なぜ、あなたたちは主の会衆の上に立とうとするのか。
(民数記 16章3節)
あまりにもモーセは独裁的だというのである。
民主的に運営すべきだ、というのであった。
一見、もっともな意見とみえた。
モーセはこれを聞くと、
「ひれ伏したりしが・・・」
やがて何と返事をしたかというと・・・
主がわたしを遣わして、
これらすべてのことをさせられたので、
わたしが自分勝手にしたのではない。
(民数記 16章28節)
この全ては「主」のご意志による・・・といった。
そうなのだ。「神の国」は神のご支配したもう国である。
イスラエル(神が支配する)なのである。
神の定めたまう事が成し遂げられてゆく、
モーセは神の下僕として、常に聖旨を尋ね、
イスラエルの為にとりなし、神に祈り求めていた。
「彼はわが家に忠義なる者なり」(民数記 12章7節)
あくまでも神に「忠義」なモーセを通して
イスラエル全体に神の祝福が及んでいったのであった。
旧約時代を聖書を通して見渡し鳥瞰してみると、
いつの時代にも神が立てられた「預言者」といわれる人々の存在があり、
イスラエルは神より遣わされたこうした人々を通して
正しき神のご指導を受けるべく求められていたことがわかる。
いまの我らの新約時代はいかに・・・とみるならば、
「預言者」たちに加えて「使徒」たちの存在がある。
霊のイスラエルである「教会」はこの存在を土台としている。
従って、あなたがたはもはや、外国人でも寄留者でもなく、
聖なる民に属する者、神の家族であり、
使徒や預言者という土台の上に建てられています。
そのかなめ石はキリスト・イエス御自身であり、
キリストにおいて、建物全体は組み合わされて成長し、
主における聖なる神殿となります。
キリストにおいて、あなたがたも共に建てられ、
霊の働きによって神の住まいとなるのです。
(エフェソの信徒への手紙 2章19〜22節)
「使徒や預言者」があって、
はじめて「教会」がその上に形づくられてゆくのであり、
こうした上よりきた原則は人がいかに思案しようとも
決して動かすことの出来ぬものであると聖書は告げている。