創世記
 
 
第282号  信仰の家風   02/08/01
 
    あなたを豊かに祝福し、あなたの子孫を天の星のように、
    浜辺の砂のように増やそう。
    あなたの子孫は敵の城門を勝ち取る。
    地上の諸国民はすべて、あなたの子孫によって祝福を得る。
               (創世記 22章17〜18節)
               
 
家風というものがある。
イサクが40歳の時にリベカは嫁いできた。
実に晩婚であった。
おだやかな黙想の人イサクといまひとつ神信仰に徹し切れない妻リベカ。
結婚後、子供がない20年間が続きこれが大きな悩みとなってゆく。
悩みを通して人は「主なる神」に近づくものだ。
意外なことにはリベカが美貌の婦人であったことが、
悩みの種になったことがある。
 
    そこで、イサクはゲラルに住んだ。
    その土地の人たちがイサクの妻のことを尋ねたとき、
    彼は、自分の妻だと言うのを恐れて、
    「わたしの妹です」と答えた。
    リベカが美しかったので、土地の者たちがリベカのゆえに
    自分を殺すのではないかと思ったからである。
               (創世記 26章6〜7節)
 
飢饉による悩みもあった。
しかし、信仰に立つイサクには豊かな祝福が注がれている。
 
    イサクがその土地に穀物の種を蒔くと、
    その年のうちに百倍もの収穫があった。
    イサクが主の祝福を受けて、豊かになり、ますます富み栄えて、
    多くの羊や牛の群れ、それに多くの召し使いを持つようになると、
    ペリシテ人はイサクをねたむようになった。
               (創世記 26章12節)
 
生きた神との交わり・・・
それが「信仰の家風」の確立に繋がってゆく。
イサクにはすでに神のはっきりとした「約束」があった。
父アブラハムを通してである。
冒頭に掲げた聖言に再度注目してみたい。
それは実にすごい!としか言い様のない「神の御約束」である。
神の与えたまうたその「約束」を受けるために必要なのは「忍耐」であった。
アブラハムの「信仰」とその「忍耐」を神は高く評価しておられる。
使徒パウロはその点を明示して、私たちにこのように語りかけている。
 
    そのころ彼は、およそ百歳になっていて、
    既に自分の体が衰えており、
    そして妻サラの体も子を宿せないと知りながらも、
    その信仰が弱りはしませんでした。
    彼は不信仰に陥って神の約束を疑うようなことはなく、
    むしろ信仰によって強められ、神を賛美しました。
    神は約束したことを実現させる力も、
    お持ちの方だと、確信していたのです。
               (ローマの信徒への手紙 4章19〜21節)
 
神はイサクにもリベカにも等しく「信仰」を与えようとしておられる。
妻リベカもややに育ってゆくこの「信仰の家風」の中にあって、
子供のない20年間を過ごし、さまざまな心の葛藤があったことが窺われる。
イサクは59歳という初老になった時、遂に主の前に出た。
 
    イサクは、妻に子供ができなかったので、妻のために主に祈った。
    その祈りは主に聞き入れられ、妻リベカは身ごもった。
               (創世記 25章21節)
 
うれしい、長らく待ちかねていた妻リベカの「妊娠」であった。
リベカの心に少しずつ、神に対する目が開かれて「信仰」の芽生えがある。
胎児が次第に育ってきたころ、どうも普通ではない感覚が起こり始めた。
「妊娠」の喜びがここで一挙に不安に転じている。
そしてリベカは自らすすんで、主なる神のみ前に出てゆくのであった。
 
    ところが、胎内で子供たちが押し合うので、リベカは、
    「これでは、わたしはどうなるのでしょう」と言って、
    主の御心を尋ねるために出かけた。
               (創世記 25章22節)
 
 
・・・
    教会の風格
 
教会のいい気風を作ることであります。
教会の徳を建てないことは絶対に止め、徳を建つことは専心努力することです。
かく言いますと、基督者(クリスチャン)だからこうしなければならぬ、
ああしなければならぬとなれば、これは律法(おきて)でありまた偽善ではないのか。
人は心にあるがままを言い、或いは成すことが、天真爛漫で、正直で、基督者に
相応(ふさわ)しくないかと考えられますが、
実はそのことが自他を苦しめて来たのであります。
 
真の基督者は、不平不満は勿論、苦しいこと、辛いことなど
主の聖前(みまえ)に出でて勝利を持つべきものであって、
キリストの徳を建てないことなどは人に言うべきものではありません。
基督者同士はお互い神の子でありますが、言うべきことと、
言うべからざることの弁(わきま)えを致さぬために、
牧師にせよ、信徒にせよ、悪魔の手中に落ち込んで悩まされるのであります。
 
教会は、人の悪しきことや徳を建てないことなどは、
一切お互いに言い得ぬ程の空気になっていなければなりません。
教会の徳をたてることに勤(いそ)しまないことを、恥ずる程になって
居らねばなりません。このために、先輩の信者が言葉にも、行状にも、愛にも、
潔きにも、一切においてよき模範となって居りますと、
それが後進の指標となって、教会のよき風格が自ずと生ずるのであります。
 
                   『われらの教会』  村井ジュン著
                (「聖霊第60号」より 昭和15年6月1日発行)
 
 
 
 
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