ヨシュアよりルツまで
 
第341号  サムソンの物語     02/11/12
 
    父母にはこれが主の御計画であり、
    主がペリシテ人に手がかりを求めておられることが分からなかった。
    当時、ペリシテ人がイスラエルを支配していた。
               (士師記 14章4節)
    
                But his father and his mother knew not that it was of the LORD,
                that he sought an occasion against the Philistines:
                for at that time the Philistines had dominion over Israel.
                                                              ( JUDGES 14:4 )
 
 
物事の本質に着目して、問題を他にそらさないという姿勢を
「聖書」に感ずるのはわたしばかりではないと思う。
「サムソンの物語」を読む時に殊にこれを感じる。
 
このサムソンの時代背景をきちっと掴んでいないと、
彼の行動を「不道徳」という目で見てしまい、
ここは子供には読ませないほうがいいのではないか、とか考えてしまう。
「聖書は神のことば」という観点を崩さないでここを読むとどうなるか?
 
イスラエルは本来、神のものであり、神をまっすぐに貴んでおれば
祝され恵まれてゆく運命の中にあるのに、肉に負けて偶像に走るならば
サタンの霊、暗闇の霊の支配下にあって呻吟しなければならない。
まっすぐに「神と共に歩む」ことを勧めてこれを読者に訴え続けている。
 
    しかし、イスラエルの人々はカナン人、ヘト人、アモリ人、
    ペリジ人、ヒビ人、エブス人に中に住んで、彼らの娘を妻に迎え、
    自分たちの娘を彼らの息子に嫁がせ、彼らの神々に仕えた。
               (士師記 3章5〜6節)
 
旧約聖書の世界を通覧して思うことは、一見して完璧と思える「律法」が
かれらイスラエルには守り切れないで、逆に審きを蒙っていったという現実を
通して、神が「恩寵」による救いの到来を予告なさったということである。
神の全き救いは律法を守りきることによる「行為」によらずして、
神の約束を信ずる「信仰による義」だと使徒パウロは言っている。
 
ここでイスラエル人を支配しているペリシテ人という存在は、
罪を犯した人類をいまも押さえ込んでいる悪サタンの「霊の存在」を意味して
いる。その時、実に力あるペリシテ人に対して、イスラエル人はなすすべもな
く圧せられていた。そこに神によって登場してきたのがサムソンであった。
 
かれの生まれは不思議な神のみ手によるものであり、人間の業を越えている。
彼が成人してからというもの、両親といえどもその傍若無人の行動をば制し
難く理解をはるかに越えて「ペリシテ人のテムナテに住む◯◯という娘を妻と
したい」といい出した。サムソンがそうしたペリシテの女性に恋をしたという
ことも、さらには後に彼がデリラを愛したということも、全ては神のみ許しの
内、神のみ手の業であったと「聖書」は告げている。
 
見方によれば、サムソンの動きがあまりにも激しい為に「人生の敗残者」で
あるかのごとく見えるけれども・・・「聖書」は決してそうは言っていない。
 
    サムソンは主に祈って言った。
    「わたしの神なる主よ。わたしを思い起こしてください。
     神よ、今一度だけわたしに力を与え、ペリシテ人に対して
     わたしの二つの目の復讐を一気にさせてください。」
               (士師記 16章28節)
 
敵なるサタンの業が撃ち破られてゆくのは、意外なる方法であり、最後の
最後までその人物の批評は出来ないということだ。ペリシテ人たちが総崩れ
となったことから、神の民なるイスラエル人は思いがけぬ回復の時を迎えた
のであった。
 
サムソンというたった一人の存在が際立っている為に、全体像が見えにくく
なるということに注意しながら、今日はこの「サムソンの物語」を読ませて
もらった。
 
 
 
 
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