第3回 マラウイ伝道の記録


2005/4/4(月)

 朝6時前、冷気が漂う駅前の瀟洒なホテルを出て、
わたしは「近鉄四日市」駅前発「中部国際空港」行きのバスに乗る。
海上空港は産声をあげたばかりの初々しい光の中にあった。
バスの所要時間1時間12分。
予定通りの午前10時05分発のキャセイ航空で香港へ向かった。

 福岡発の平淳一郎先生をこの香港国際空港で待つのに約2時間もあるので、
フト思い付いて、待合室のある出発フロアーに行くと、
そこで判ったことはもう下の到着フロアーに戻れないということだった。
さあーーー、どうしよう。
これで内心随分と汗をかいたが、エレベータ−前でみかけた女性の空港職員に
わけを話すと、彼女は「これは特別なのだが・・・」といって案内し、
下の到着フロアーに通してくれた。ハレルヤ。とてもうれしかった。

 そして喜びのうちに笑顔の先生を迎えた。
ふたりは快速電車で香港の町にくりだした。山頂にケーブルで登る。
すごい景色だ。風も強い。この世界屈指の商業の町はビルの林立だ。


2005/4/5(火)

 12時間あまりで早朝にヨハネスブルグに着いた。
日本との時差は7時間。季節は秋であるらしいが、残暑が厳しい。
予定どうり、10時20分定刻にてマラウイのリロンゲへ向かう。
その機内にはわれらが同胞の青年海外協力隊員たちの多くの姿があった。

 さて空港にて500ドルを現地のお金、カチャに換えた。
これはすごい札束だ。1ドルが116カチャであった。
だから、ほぼ日本円と同じレートと考えてよい。

 ドワ県メングエ村から兄姉たち30名ぐらいと、ムゼ兄とミサ兄の姿がそこにあった。
彼らがチャーターした大型バスは一日あたり150ドルとか・・・。
このたびは「会計」を平淳一郎先生にお願いする。
ドワの教会は昨年よりも長さが2倍になって、讃美も祈りも力強くなっていた。
まず祈りと讃美が主に捧げられた。彼らは近くの四つの村からやって来ていた。

 ここで我らは二週間とどまって主を見上げる予定だ。
ピリ兄の話ではみんながとても我らの滞在を喜んでいるそうだ。
二人には各々よき個室が与えられ、体を横にすることが出来た。
夕方には愛兄がたと新しい「スワヒリ霊讃歌」を歌う。それも全部を・・・。
これはよきことであり、真理の教えが自然にわかるという次第だ。

 それにしても「電気が無い」ということはすごい。
また夕闇の中で子供達の遊ぶ声がすごい。
ダーバンからの三人(ウイリアム、ヤエ、ムゼ)は正式な書類がないために、
色々と冒険を重ねてモザンビークのテテ経由で入ってきた。
バスに乗継いでの四日間の旅でこのマラウイ国に入り、
リロンゲでもミサに連絡がとれず、タクシーでドワ村のピリ兄を尋ねて、
昨日の朝に着いたのだそうだ。それは本当にすごいなーーーハレルヤ。


2004/4/6(水)

 メングエ村のピリ宅にて私たちは朝6時に起床した。

 バスはリロンゲに帰ってゆく、と見えたが・・・さにあらず。
バスの運転手たちが不満を持っているのだそうだ。
それはミサが7日間のチャーター予約をしていたからだ。

 彼らがさらに一日分の150ドルを払ってくれというので、払うことにした。
意志の疎通が充分でなかったということで、これは一つの反省材料となった。
ミサにはこれが彼の教育になったであろうか?
でも、こうして主イエスさまは今回リロンゲの群れとは一線を画してくださった。

 朝食の時に、今日はこの地方のチーフがくるので少々もてなしをする必要があり、
ピリ兄から1500カチャを求められた。肉でも買うのであろう。

 広くなった会堂には、また聖徒たちが一杯になってこの子供たち約28人を加えれば
100人程であろうか? まず子供たちが講壇に上がって讃美をしたが、最後には
霊讃歌30番「救いを得よ」をきれいに日本語で歌ったのには驚いた。
それはそれは美しいものであった。
午後からの洗礼を希望している人は・・・と聞くと、20数名が手をあげた。

周辺の村々のチーフたち8人が集まったということで、午後からも集会をした。
福音が穏やかな流れとなって村々に流れていっているのが感じられた。

 ピリ兄の家の教会から歩いて何と!10分ほどのところに大きな池があった。
ちょうどそれは愛媛教会の前にある「塔ヶ谷池」の3倍ほどの大きさであった。
国際援助団体のCAREによる2003年の完成・・・とコンクリートの堤に印があった。
すごい!

 100名ほどの聖徒たちの讃美の内に、次々と「水と霊」のみ救いが押し進められた。
その中には片足を失っていた老兄もあり彼も喜んで受けていた。
その洗礼の数は男10名と女23名であった。

 教会に帰ると、浮き浮きして兎に角、主イエスさまにもっと祈りたそうだったので、
みんなが充分に聖霊による「異言の祈り」が出来るようにと平先生にお願いした。
みんなは次々と前に出て来て祈ってもらっていた。
その時の記録をみると全部で24人であった。


2004/4/7(木)

 この輝きに満ちた「驚きの星空」をどう見るか?
それがこうして実際にあるのに、うかつにもわたしは知らず、気がつかなかった
ということを・・・。アフリカのこの暗闇、人工的な光の一切ない世界では、
神の創造のそのままの「驚きのみ業」が見える。

 目が覚めた6時半にはもう陽光が満ちていた。
食事前も讃美し、食事後さっそく9時には集会をした。
そこでみんなは「スワヒリ霊讃歌」を習った。
午前の11時20分に終了した。

 昨日「水と霊」を受けた人々の中で、3人が次々と立ち上がって、
「とても祝され、よく寝られた」と喜びの証しをする。
その中に一人の婦人ソロフィナ姉は遠くのミサンジョ村からやって来た人であって、
今日は多くの村びとたちが、この救いを求めてやってくるという。

 そして、それは期待以上であった。
ピリ兄の家の教会から5キロメートルほど離れたその村から、
多くの婦人たちが子供たちを連れてやって来て「水と霊」を受けた。
それは男17名と女25名の洗礼式であった。その他に身代り洗礼は7組もあった。

 あす朝はやく7時にはここを出発してそのミサンジョ村に伝道だ。
そこの「木の下の教会」で集会をして4時ごろには帰ってくるという。


2004/4/8(金)

 ミサンジョ村に向かう道で、二組の家族が下から上ってくるのにであった。
背負っている子供が二人とも病気の為に「先生、祈ってあげて下さい」といわれた。
みんなと一緒に手を措いて祈った。
平先生がくださっていた甘いキャンデーを各々にあげて別れた。
私たちが帰る3時ごろ、そのキャンデーの包み紙が点々と落ちていた。
出会った場所のずっと手前からそれがあって、その場所より先の丘を越す手前の
ところまで落ちていた。思うに、あの夫妻たちは「祈っていただいたのだから、
もう大丈夫」と考えて、あの場所から引き返していったに違いない。

 ミサンジョ村は広大な平原の中に多くの集落をつくっている。
あの茅葺きの家は見かけよりはずっと快適で、中に入ると、涼気が漂っている。
若い婦人たちは皆、幼い子供たちをかかえているのだが「慈しみ」の表情がみえて、
そこに平和が感じられた。健康でさえあれば全く金銭を必要としないこの世界に、
この素晴らしい「愛と平和」がある。ある意味の開眼を与えられた思いである。

 洗礼式の前後のあの行列、大きな歌声、讃美の様子はアフリカの一番美しい見もの
であろう。「魂の誕生」が喜びの根底にある。「水と霊」の福音は生命の発生という
観点から見るときに、とても興味をそそられる。

 夜になって、ピリ兄が一枚の書類を出してわたしにみせた。
それは先月末にわたしがメールした「伝道予定の報告文」なのだが、よく見ると、
一番下にペン書きで「4月4日、ドワ県の知事の伝道許可」あり、こう英文で書かれて
いた。
    Dowa District Assembly Commissioner for Oaths  04-04-2005
                                             Private Bag 2 Dowa

 ここで、その日の日記を抜き出してみよう。

 朝、7時には出発・・・という話であったが、少々遅れてミサンジョを目指す。
「よいしょ」のシカゴ兄の家を通り抜けて間もなく眼下に広がる大平原。
そこの一帯がミサンジョであった。5〜6キロの道のりがあったが2時間はかかった。
背の高い草を分けて続く細い道があり、草原の中の村里。そこに「これが教会」と、
紹介された小屋。入り口を入ろうとすると「小さな蛇」。
それは白い色をしていたが、何だかミミズのようであった。
そこにぎっしりと我らは入り、共に祈り讃美する。間もなく歌声がした。
その後、メングェ村の聖徒たちが来たので大きな木の下に移動。
そこが教会のいつも集会をしていた場所らしい。集会には60名ほど。
それから洗礼のために川に行く。それは20分の道のり。冷たい水で
17名のみ救いであった。
                                   以上


2004/4/9(土)

 聖徒たちの多くは日曜日を安息日と教えられ、その様に思っていた。
土曜日が神が定め給うた「聖なる安息日」であるという知識がなかったわけである。

 今日は安息日礼拝がはじまって間もなくある青年の質問から急に盛り上がった。
この人はべスタ・オロマニ愛兄で聖歌隊(HOLY SPIRIT CHOIR)のリーダーである。
それは彼が「死者の為の洗礼には失望した・・・」と言ったことからであった。
「身代り洗礼」のことを聖書を開けて順々に話してゆくと、次第に福音の神髄が
理解されてきたのであろう、彼も満足し、みんなの顔がとても輝きだした。
本当に「真理」は人を解き放ち「全き自由」を与えるものである。

 それから洗足式のことの質問があったのでヨハネ伝13章をみんなで拝読した。
神のみ名がイエスであること・・・も大きな感動を呼び起こした真理であった。
聖餐式のこと。異言に対する正しい理解・・・こうした質疑応答が次々とあった。
わたしにとって珍しい質問は「一夫多妻」に関するものであった。

 最後になったが導かれて什一のことを語る。何時の間にか講壇の前にバナナの一房が
運ばれてきていた。これは信仰がみんなに天から降ってきている顕われだと感じた。
昼食前には「什一献金の什一」がピリ兄から渡された。ハレルヤ、感謝である。

 昼食には見なれない青年たち「ザレカ難民キャンプ」の人々がやって来ていた。
まだ「水と霊」に心が開かれていない青年がフランス語の聖書を求めたが、
今日は差し上げるようには導かれなかった。

 ミサンジョからは10時30分ごろに到着したのをみると、彼らは9時前には
村を出発したのであろう。

 洗礼の為に、今日あの池まで行ったのは聖徒がた約40名ほどであった。
今日は平先生にご用をしていただいた。受洗者は4名であった。


2004/4/10(日)

 ミサ兄の家族の問題をどの様に主が導きたまうか?
祈りの中に一つの道が示され進み出す。
ピリ兄は彼の家族がモザンビークのナンプラからやってくる事を歓迎しているのが
明らかになったからである。

 日曜聖会。エニシダの花飾りが会堂の天井に美しい。
聖会の始めに、平先生が聖書を開けられた。ヨハネ黙示録7章の1〜3節であった。
わたしはこれを読ませていただきながら、突然とても心に響いた言葉があった。
それは「大声」と「害ふな」という二つの言葉であった。
「日の出づる方」から登る御使の口から発せられた「大声」と、かれが「害ふな」と
命令していること、そのの意味しているところに注目し、いよいよそのような
地球規模の動乱が近づいて来ているのをこの肌身に感じたのであった。

 今日は<HOLY SPIRIT CUOIR> 子供たちの聖歌隊(ちょうど50名)が結成された。
まずこの聖歌隊のみなさんの歌声と踊りがあり、バンダ HYNESS BANDA 姉の独唱が
続いた。この国の人々に主が与えておられる音楽的才能、その素晴らしい賜物に
魅了された。

    何ごとにも我が名によりて我に願はば、我これを成すべし。
               (ヨハネ伝 14章14節)

 ペンテコステは主のご復活から50日目。その日は日曜日であった。聖霊降臨があり、
教会がこの時に発足したことを語った。みんなでレビ記を読んだ。そこに火祭が
あってよき香りが立ち上ったという。その記事からわたしは「祈り」を思った。
また、そこにパンがありよき糧である主イエス様をいただくと、力を得て立ち上がる
というわけだ。あすの月曜日はみんなでミシ村への伝道にくり出すのだそうだ。

 救いが予定されていたので用意をして、昨日と同じあの「大池」に行った。
幼い男児が「さちあれ、さちあれ・・・」と日本語で歌いながら私たちの一行を先導
してくれた。見渡す限りのトウモロコシの畑を横に見ながら深く天国を味わった。
今日は7名の魂のみ救いであった。ハレルヤ「水と霊」!

 ピリ兄から「エサヤ YESAYA兄が妻と赤子と女児が病いに罹っているのでお祈りに
来てほしいと願っている」とのことで、我ら数名で出かけた。
昨日のミサンジョへ行く道のあの崖ぶちに建つ家であった。
弱々しい彼の妻の姿、ぐったりとした赤子、うつろな目をした女児。
聖書はマタイ伝4章23節。

   イエス遍くガリラヤを巡り、會堂にて教をなし、
   御國の福音を宣べつたへ、民の中のもろもろの病、
   もろもろの疾患(わずらひ)をいやし給ふ。

 チェチュワの讃美を一つ歌って、われらは異言で祈った。持っていった膏を塗って
「主イエス・キリストの聖名によりて・・・」と神癒祈祷をした。霊讃歌の146番の
「いやされたり」はすでにスワヒリ語訳があり、それを兄弟方がみんなで歌った。
時計を見ると、午後4時10分だった。エサヤ兄に信仰が来たのであろう。表情が
明るくなっていた。確かにこうした僻地で、病院もなく病いに罹ることのおそろしさは
人々に真剣な信仰を呼び起こすものだ。

 夜は夕食の後で平淳一郎先生のお証しをみんなでお聞きした。それは先生の種子島・
屋久島伝道のこと。このマラウイと全く同じような伝道生活を思い出しながら、
先生は主イエスさまの数々の御業を語ってくださった。


2004/4/11(月)

 ミシ村まで約5キロの道のり。
行ってみてわかったことは、そこは昨年の洗礼式の川に近い村であった。

 集会所は小高い丘の斜面で、柱6本に葦葺きの屋根だけという建物であった。
今年1月の強い雨風に打たれて、先の建物は潰れてしまったそうである。
でもこの屋根で厳しい日ざしは遮られて、風が通リ抜け、とても心地がよかった。
その景色は美しく素晴らしく、眼下に点々と山里が望まれた。

 まず讃美、神癒祈祷から始まった。人々が次々と加わってきた。
子供たちもいれると50名ぐらいであったであろう。ハレルヤ。
ダーバンからやってきたヤエ兄にご用をしてもらったが、彼はマタイ伝16章を
開けて「汝の上に我が教会を建てん」との主イエスさまの聖言を語った。
いつも開く聖句であるがとても感動をした。

 わたしは洗礼のご用をさせていただいたが、今年は雨が少なかったから、
流れる水がとても少なく川底はぬかるんでいた。
今日は男子5名、女子5名であった。

 洗礼が終り、別れを告げて2時過ぎに我らはメングェのミッション・ベースに戻った。
私は部屋で横になっていると、ミサ兄がやってきてニュースを告げた。

 「4/8のミサンジョ伝道の洗礼の時、記憶喪失の少女が最後に受けたが、その後、
記憶が戻って来て、ものが言えるようになり、現在、警察につれてゆくと、警察官の
助けを得て車に乗せられて自分の村、両親を探すようになった」との事。
ミサンジョの村びとは誰もこの少女を知らず、名前もわからなかった様子であった。
発見された時にはほとんど死んだようになっていたそうで、村びとは心配していた。
あの洗礼の前には生き返っていたが、記憶は戻っていなかったそうである。
主のみ力がこの伝道に現れてきているのを感じて、みんなで感謝をしたのであった。


2004/4/12(火)

 ピリ兄の「家の教会」のあるメングェのミッション・ベースから北方へ6キロ地点。
「ザレカ難民キャンプ」を通り抜けて坂道を下ってゆく。
大きな道から右手にそれた側道を進む。
徒歩にての伝道としては今回は今までで最も遠かった。
往きは下り坂で楽だったが帰路はきつかった。片道だけで2時間ほどかかった。

 そこはジカパンダ ZIKAPANDA 村といい、カピセニ老兄がわれらを歓迎してくれた。
まず、われら総勢20名は彼の庭先に座り込んで讃美を始めた。大いに讃美した。
近所の人々はその歌声をきいて三々五々近づいてきたのであった。
老人たちが立って踊りながら歌う。それは現地チェチュア語の讃美歌であろう。

 いつものように神癒祈祷から・・・と思うが驚くほど手ごたえがない。
ただひとり、妻のアロニ姉は顔の右側に何かかたまりがあり、心配な病気のようで、
彼女が救いを求めているのがわかった。主の名により膏を塗って祈らせてもらった。

 主は証し人としてエサヤ兄を用意していてくださっていた。
彼は一昨日、妻子たちの病気を憂いていた人であったが、
すっかりその顔元が変わっており、平安と喜びに満たされていた。
「主イエスさまは癒しを与えて下さった」と彼は嬉しい主のみ業を証ししてくれた。
ハレルヤ!

 今日のヤエ兄のお勧めは聖書の使徒行伝2章37〜38節で、
そこは「水と霊」のところで救いの核心を突いていたからか、
わたしの心が燃えたのを感じた。

    人々これを聞きて心を刺され、ペテロと他の使徒たちとに言ふ
    「兄弟たちよ、我ら何をなすべきか」
    ペテロ答ふ
    「なんぢら悔改めて、おのおの罪の赦しを得んためにイエス・キリストの
     名によりてバプテスマを受けよ、然らば聖霊の賜物を受けん。・・・」

 この伝道にはミサンジョのソフィナ姉も加わっていた。美しい声であのバンダ姉と
共に讃美をリードしてくれたのであった。

 今日の洗礼の場所は近くの農業用の「ため池」だったが洗礼は本当にボチボチであった。
多くの人々が周りにいたが、讃美が続くなか見るだけの状態で、
「また次の機会にしましょう」ということとなった。

 洗礼は結局13人が与り、庭先に戻ると輝きだした「群れ」となっていた。
カピセニ老兄は妻と共に主に仕えることになったからであろう、
三回も高くジャンプをして喜びを現していた。
はたして彼は何歳なのだろうか?
これからはピリ兄が来て毎週水曜日に午後1時から、みなさんと共に集会をする
ということが決まった。

 帰りは登り坂が続き、苦しい道のりであったが、みんなは主に支えられて帰ることが
出来た。あすは「休憩・・・」という話があったが、よく聞いてみると
モンボ MOMBO 村の人々はこのたびの我らの来訪を待っているという。
でもそこは基地から20キロもの道のりがあり、それには車がどうしても必要だ。
ピリ兄に交渉してもらうと、小型であれば一日のチャーター代が6000カチャと
いうことが判り、では車で乗れるだけ乗って行こう・・・ということになった。


2004/4/13(水)

 昨夕、ピリ兄の顔を見た時に、車を借りることによってモンボ村に伝道できることを
思いつき6000カチャの出費で行くことになった。そこは約50キロの地点で、
自転車では3〜4時間の道のりである。ピックアップ車にぎっしりと乗り込んで
愛兄姉たちが嬉しそうに、何だかピクニックへ行くみたいであった。

 この村のレンガ造りのサイディ兄が目当てであったのに、ようやくにして到着して
みると肝心の彼が不在で、これでは伝道も不発に終るか・・・という思いがよぎった
が、彼の家の軒先を会場にすることとなり、たくさんの讃美の中に婦人子供たちも
満たされて、神癒祈祷の中に次第に霊気が満ちてくる。

 お祈りの為に前に出て来た37名はほとんどが聖霊を頂いたようであった。
今日のヤエ兄のご用は使徒行伝10章のコルネリオ家の救いの記事で、上からの強い
力が働いていた。

    そこでペトロは、
    「わたしたちと同様に聖霊を受けたこの人たちが、
     水で洗礼を受けるのを、いったいだれが妨げることができますか」
    と言った。
               (使徒言行録 10章47節)

 「さあ、洗礼だ・・・」と案内された処はやはり農業用の小さな「ため池」であった。
大勢がこの小さな水場を取り囲み、次々と進む「み救いの業」を見ていた。
洗礼は全部で21名であった。

 この村の長老チャンバラ兄はすでに「イエスの聖名」で洗礼を受けているということ
で、洗足(ヨハネ伝13章)のところを開けてお勧めすると心を開いて洗足を受けた。
それが大変な恵みとなり、これからの伝道の協力を彼は約束してくれたのであった。

 帰途は1時間と10分で午後2時半には早くもメングェの基地に戻った。
明日はワゾンガMWADZONA 村へゆく。今日よりさらに遠いところだそうである。


2004/4/14(木)

 ワゾンガ MWADZONGA 村への伝道の日。そこは車で2時間の地点であった。
途中で昨日の愛兄たち二人を乗せて、ヤコボ兄の村へ向かった。今日のチャーターの
大型トラックには25人の愛兄姉たちが乗り込んでおり大変に楽しそうであった。
そこはタバコの産地である。途中には数多くの村々があり、校庭の木陰で集会をして
いる30人程の一群を見て「信仰的な風土」を感じたものである。

 今日も連絡なしの突然の訪問であり、目指すヤコボ兄があいにく不在であったこと
からとても村人たちに驚きを与えたようであった。それでも愛兄の家のそばの
「木の下での集会」となった。

 こちらから出かけたみんなの讃美の応援があっても中々うちとけない状態がしばらく
続いた。そこで霊の戦いを感じた。神癒祈祷の場を設けても、あまり前に出て来て
祈ってもらおうとする人々がなく、心の固い状態であった。ミサ兄が近くのカシヤ村
には「顔見知りの信者がいるから・・・」とトラックを動かし迎えに行く・・・という
こともあり、しばらくはざわついた「霊の状態」であった。

 しかし、次第に時間と共に御霊が立ち上がってくださり、福音が証しせられ、だん
だんと皆の心が開かれていった。遂にはほとんどが前に来て受霊(60名)し、膏を
塗って祈ってもらったのである。今日もご用のヤエ兄は燃えていた。ヨハネ伝3章5節
をもって「水と霊」を高く掲げたので、とても素晴しく私たちも燃えた。先日、妻子
が「主イエスの聖名によりみな癒された」というあのエサヤ兄の証しも力強かった。

 そして今日も最後に「水場」に行くのであったが、そこは農地の中の「小さなため池」。
私がここではご用をさせていただいた。次々と洗礼が続き、全部で29名であった。
水のほとりでのピリ兄の説教はとても光っていた。多くの人々の魂が揺すぶられて
いたように思う。次回には更に多くの「み救い」となることであろう。ハレルヤ。

 今日はこうして昼抜きの伝道となり、片道2時間という遠い道のりであったので
メングエの伝道基地に帰り着いたのはもう夕刻の6時になっていた。教会に帰って
からみんなは会堂で大いに感謝し、主に祈りをささげたのであった。その後、用意
されていた食事をみんなは美味しくいただいた。
トラックの運転手が割り増しとして2000カチャを要求したので快く応えておいた。

 マラウイには中央部に位置するこの広大なドワ県 Districtを含めて、28もの 
Districtがあるそうだ。国土は北、中央、南の3地方があり、南北に細長い。
今後とも農業開発が指向される国だと聞いた。


2004/4/15(金)

 午前10時より午後0時30分まで。平先生を中心として愛兄姉方が集いをもった。
私は部屋でゆっくりさせてもらった。微熱があるようだ。聞くところによると、
集いは大変に恵まれ、南アフリカ・ダーバンからの三人の兄弟がたのお勧めは
力強く、最後のお祈りはミサンジョのソロフィア姉で、光っていたそうである。

 昼食後「難民キャンプに伝道に行こう」と愛兄がたと平先生は出かけた。それは
買い出しのついでにということだった。帰ると彼らがいう。群がる難民の人々に
みな力強く語ったそうである。すごい!

 私はこの村の愛兄方から、この一年間のドワでの「霊の戦い」のありさまを聞いた。
「サタンの教会だ」と言って去っていったという三人の兄弟方のことや、村々への
伝道のこと。会堂を広げる作業とそのためのお祈りのこと。昨年の6月16日より
2週間でこの会堂の拡張工事を完了したということだ。そして唯、主のみを見上げる
信仰のありかたのことを語った。

 日没後は、この教会の青年たちと「スワヒリ霊讃歌」の讃美会となり、とても盛り
上がった。わたしはすでに「安息日の恵み」を感じたものであった。

 ストナード・ピリ兄と親しく交わると・・・彼は八人の兄姉たちの末で、現在35才。
この家のあとつぎにと、彼がまだ弱冠18才の時に兄姉たちが話し合って決めたのだ
そうだ。それはこの国の慣習であるという。だから現在は彼が約60人の大家族を
ひきいているのだ。夜中、わたしは目をさますとピリ兄がほのかなロウソクの火の
下で真剣に、食い入るように聖書を読んでいたのがとても印象的であった。

 それにラファエル愛兄の証しは圧巻であった。洪水に流され死を目前にした時に、
偶然にも子牛に掴まり助かったことから、神に選ばれて生かされていることを感じて
いたという。彼の家には今回はダーバンの三人の兄弟がたが宿っており、毎晩とても
楽しい信仰的な語らいがなされているのだそうだ。

 ピリ兄がいうには、私から「今回はドワ村のピリ宅にて二週間を過ごす」という
メールを受け取り、みんなにそれを知らせると愛兄姉がたの喜びはとても大きかった
そうである。やっぱり主のお導きがそこにあったのだ。  ハレルヤ アーメン


2004/4/16(土)

 主イエスさまは村々を巡り福音を宣べ伝え、諸々の病いと患いを癒し給いしが如くに、
我らも高く「水と霊」の福音を掲げてゆく。

   収穫は多いが働き人は少ない、
   故に働き人を収穫場に遣わし給わん事を求めよう。

   PRAY PRAY 求めよ。求めよ。

 安息日礼拝の途中でわたしに「今日は105名の参加です」と知らせる青年がいた。
遠くモンボMONBO村から自転車をこいで、あの坂道を登って来た三人がいた。
あとで聞くと、ここまで約3時間ほどかかったそうである。

 クワイヤー(聖歌隊)は礼拝にても、洗礼にても美しい歌声を聞かせてくれた。
このメングェ MENGWE 村の姉妹方はマルタ役、客人たちのもてなしに忙しく、
昼食の用意をしていたために礼拝にはその顔々が見えなかった。
確かにピリ愛兄の統率は行き届いている。

 一方、ミサンジョ村からは多数20名ほどが今日も参加して輝いていた。
これから彼らは大いに村々を歩いて伝道するようになるであろう。
とても楽しみである。今日の礼拝後の洗礼は4名であった。

   常に喜べ       コンデラニ タウィゾセ
   絶えず祈れ      ペペラニ コサレガ
   凡てのこと感謝せよ  ムゾセ ヤミガニ

 夕刻のひととき、庭に敷物をひいて座っていると、みんな集まって来て歌いだした。
「主の十字架を背負ってお従いします・・・」というチェチュワ語の讃美であった。
まず4人の婦人たちが始めて、続いて10人の子供達が加わった。

 空には上弦の月。このたびは下弦から新月を経て上弦までの二週間であったために、
夜は毎晩、美しい星空を楽しませていただいた。
いよいよ明日でこの地に別れと告げ帰国するかと思うと懐かしさがこみ上げてくる。

 夜の語らいの時、ピリ愛兄は「パスカ(過越)」を求めた。
それでわたしは次回には聖餐を主はしてくださるのだ・・・とわかり嬉しくなった。


2004/4/17(日)

 二週間のマラウイ国は中部地方のドワ県、ピリ宅でのこの滞在がいよいよ幕を閉じる。
主イエスさまの救いである「水と霊」の数を手元のノートをめくって数えてみると、
男性が105名と女性が75名であった。ほんとうに素晴らしいことだ。ハレルヤ!
日本からのわれら平・前田の両牧師とダーバンのウイリアム・ムゼ・ヤエの兄弟方は
懐かしさを胸にいっぱい詰め込んで、各人の立場持ち場に帰って行くこととなった。
ミサ兄は現在家族の住むモザンビークのナンプラにある「難民キャンプ」に旅立つ。
そして妻セリーナ姉とふたりの子供たちをこのピリ宅に迎えることになるであろう。

 午前9時から11時まで「日曜日・お別れ聖会」をした。
会堂には約100名が集まり、讃美につぐ讃美を主イエス・キリスト様に捧げた。
天来の「お別れの聖句」はやはりこれだった。

   常に喜べ       コンデラニ タウィゾセ
   絶えず祈れ      ペペラニ コサレガ
   凡てのこと感謝せよ  ムゾセ ヤミガニ

 目の前に集まっているマラウイのドワの人々。
その「神の子たち」を見ていて思い出されてきた使徒パウロ先生のあの「おことば」。
コリント教会の人々に語りかけておられるあの「おことば」の数々。
それをみんなで拝読し味わった。
主イエス・キリストに対するこのような「よき信仰」がこの人たちの霊肉をこれから
きっと大いに祝福して下さるに違いないと思わされて嬉しくなったのである。

   憂ふる者の如くなれども 常に喜び、
   貧しき者の如くなれども 多くの人を富ませ、
   何も有たぬ者の如くなれども 凡ての物を有てり。
              (コリント後書 6章10節)

 さて空港までの約1時間、小さな車に8人も乗って・・・大きな荷物ものせて、
ハレルヤ!これも主イエスさまを愛している主のこどもたちだから、忍の一字・・・
何の不足もないというわけである。

                    栄光主にあれ! ハレルヤ! ハレルヤ!


                                                                    MAIL: mizu_to_rei@mac.com.   
                                               
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