2006/8/21(月) 晴れ
予定では、広島 7時45分発————成田 9時25分着。そして、成田発の11時30分発のSQ997便であった。 早朝の6時には内海教会を出発して、7時には空港着・・・という計算であった。ところが福山西インター入口にさしかかると、何と!「山陽道」の本郷・福山西間が閉鎖されており、それでは・・・と「2号線」に出るが、高速道から迂回してきた車でノロノロとなり、非常な渋滞が続き、やっと空港には7時55分に到着。予定の成田行きはすでにゴーン、乗り遅れたのであった。8時55分発の日航の羽田行きに乗り換え、またリムジンで成田空港ヘ行った。そこで義樹巡回に合流。当然のことながら、成田発の11時30分発のSQ便には間に合わなかった。然し、夜の19時10分発に変更(無料)が許された。でも、色々と世話になった旅行社の「キップ変更手続き料」が必要とか・・・。ハレルヤ。とにかく、こうして夜の便(SQ11)でシンガポールへ、そこでは、わずか50分という深夜の乗継ぎも出来て、ヨハネスブルグへと向う事が出来た。
2006/8/22(火) 晴れ
約13時間飛んでヨハネスブルグ着が朝8時すぎ。そして予定通り10時過ぎに出発して、リロンゲには12時45分 (SA170) 着であった。
ピリ兄一行6名はミニバスを用意して我らを迎えてくれた。浮いていた種が水面から沈んで地表に着き、小さな芽を吹き出して来た・・・という感じである。会堂の壁に書かれていた教会名はすっかり塗り込まれていて、一見すると「教会」のイメージはない。それなりの訳があったのであろう。でもそれはそれでよいのだ。歓迎の集会は以前と同じく讃美と祈りが盛んであった。一段落した時、フト、水のあるあの池に行きたくなり20名程と共に出かけた。水は少なくなっていた。雨が少ないからであろう。「洗礼着を持ってきたよーーー」とピリ兄に話すと、3名が受けたいと言っているとの返事。それから、燃えた。ここは2003年完成の農業用水のため池である。
2006/8/23(水) 晴れ
早朝の4時になるとモスリムの祈りが始まる。ザレカ難民キャンプの方からである。ドア県のトップであるというコミッショナー氏に面会にゆく。彼曰く「この国は信教の自由が保証されていますから、大いにキリストの福音を宣教してください。何か困ったことがあれば、このピリさんを通して私に告げるといいです。」我らは感謝し共に祈る。最後には彼の頭に手を措いて祈った。「教会の認可を経ないのに、かく伝道の道が大きく開かれた」ことは実に画期的なことであったと言える。ピリ兄の胸には証明書らしきものが、ぶら下がっていた。見ると「イエス之御霊教会(THE SPIRIT OF JESUS CHURCH)」とあって、誰かのサインがあったが、これがこのコミッショナー氏のものかも知れない。
午後は12名のお救いがあり義樹巡回のご用で、とてもよい日になった。宣教に対する質問に立った老兄が「教会の認可がないことが大きな問題だ」と言ったから、わたしは「家の教会」という小規模の集いにはこの国は寛容である・・・という「光」を語り、しばらくの猶予を求めているのだ・・・と告げた。この国にも「牧師先生」が主イエスさまによって立てられれば、日々、洗礼のご用も出来るばかりでなく、この件にも大きな前進がみられる。「今しばらく我らはしっかりと祈り求めてゆこう・・・」と語った。
夜の8時、空を仰ぐと、南斗六星とサソリ座が天空に舞っていた。それから寝た。そして朝方3時に再び空を見上げると冬の星座であるオリオン座が天空に来ていた。静かな夜であった。
2006/8/24(木) 晴れ
15名ほどであった。ミサンジョに向って9時出発。朝の陽光はきつい。ずっと崖をくだって歩く。10時20分着。昨年4月から色々なことがあり、群れの半分はカトリック教会へ行ってしまった・・・とピリ兄は小声で言った。その教会では色々な物資を信徒たちに与えるという。小さな茅葺きの小屋の会堂の中、主イエス・キリストを崇めて祈り、讃美した。聖霊の「火」が心に燃えると、真の食物・飲物である主イエスを受ける・・という実感を得た。ここでの洗礼は母と娘の他には身代り洗礼が3人あった。きれいな水であった。義樹巡回のご用。ハレルヤ。昼食はシーマと野菜のソテー。午後1時30分ごろ出発して3時15分に帰着した。
夜、兄弟方が集って来たので私は「わたしの一代記」を語ると、皆は目を輝かせて聴いた。主はまことに活きていませり・・・である。ハレルヤ。
聖餐式のこと。聖餐のためのジュースは出来るだろうか・・・?ブドウのジュースを持ってくることが出来なかったので「いかに・・・」と祈っていたが、手持ちの「干しぶどう」を湯戻ししてみることにした。それを見るピリ兄は嬉しそうであった。
2006/8/25(金) 晴れ
ビピBMPHI伝道。ピリ兄のところから歩いて片道5時間の道のり。ドワの中心、官庁のあるところから、左手に曲がり直進すると、山を越えるあたりからイモ畑が始まる。ほどなくビピの村。向いのドンバ村の村長さんが亡くなり葬式が本日なされており、多数の村びとが参列しているという。残念ながら「み救い」は後日になった。然し、このビピ村のみで18名の洗礼が与えられた。今回の伝道の第一号のMATIKITI ZANDEGE兄がこの村の人で大いに燃えていた。彼の家で昼食を頂いたが、元の教会の立て札が家の中に残っていた。そこにはその名称PENTECOST HOLINESS CHURCH とあった。
夜は義樹巡回から力強い「祈りのお勧め」があって、愛兄がたや子供たちが大きな声で異言で祈った。
2006/8/26(土) 晴れ
子供たちも数えると、約70名ほどが会堂に入っていた。主のご聖餐が導かれとても感謝であった。初めての事であったが「干しぶどう」を湯もどししたジュースをこのたび使用したが、これはまさしく「ブドウ汁」であった。大きめのパンも用意された。確かに昨年来の「離反」はピリ兄とこの群れにとって痛かったに違いないが、ここに来て「パン種」が除かれているという実感がある。ハレルヤ。義樹巡回は「異言の祈り」をここでも強く勧めていた。これが天からのメッセージなのであろう。とてもよいことである。BIMPHIの愛兄がたは5時間も歩いてやって来た・・・という。すごい!彼が言うには村長さんの葬儀から帰って来た多くの人々が、我々がすでに去った後であったので、残念がって「わたしたちは洗礼を受けたかったのに・・・」と言っていたそうである。これは次回の楽しみだ。礼拝の後、午後からは二人の子供たちが洗礼を許され、義樹巡回が御用をした。
「今日の日付けだ・・・」と言ったので見ると、確かに「ロマ書8章26節」であった。それは・・・「我らは如何に祈るべきかを知らざれども、御霊みづから言ひ難き歎をもて執政し給ふ・・・」とあった。霊の祈りの貴さよ・・・。
「お証し会」が導かれ、愛兄姉がたの証しを聞く機会があった。癒しの証しが多かったが、一人の老兄が語ったことは深くわたしの胸に落ちた。それは今から30年も前のことだったが、ある時に天からのみ声が聞こえた。「ヨハネ伝14章1〜4節を読みなさい」であったという。その時から自分の人生は全く変わった。主イエス・キリストを信じて歩む、この幸いな人生を与えられた・・・と、言ったのである。なるほど、彼は輝いている。体中で主を崇め讃美している。子供たちもこの老人が目の前に立ち上がって体を揺すりながら讃美するその姿に共鳴して、大いに恵まれている様子である。
2006/8/27(日) 晴れ
ピリ兄の村MENGWEから約100キロ地点のべザMBEZAに行く。車で約3時間であった。朝9時に出て、ようやく正午に着いた。一家族が一つに固まって住みついている。井戸が二つ。「癒し」の祈りから始まり、洗礼のために案内の人々に従って草原の中をゆくと、そこに小さな「ため池」(2メートルと3メートルのひょうたん型)。でも中に入ると冷たかった。わき水であった。家族・親族のほぼ全員60名のみ救いであった。
その中の青年MATEYO兄(26才)がわれらと共に帰りの車に乗り込んだ。この青年がピリ兄宅に泊まり込んでこのたび特訓を受けたのである。5時40分に帰着した。夕食はシーマ、米、野菜の煮物、豚肉と紅茶であった。義樹巡回の30才の誕生日はこうして天の祝福を受けたのであった。ハレルヤ。
2006/8/28(月) 晴れ、少し曇り
早朝、4時30分。オリオン座が上天に架かっている。三ツ星の右手には「オリオン座大星雲」がぼんやりと見えた。不思議な大自然に圧倒される。輝く星々、永遠を想う。マタイ兄であろう・・・ピリ兄からの福音の解説を聴いている模様であった。「エペソ書2章」使徒と預言者の上に建つ教会とは・・・使徒たちの信仰が土台だという話であった。
ハレルヤ。午前中に行った村MALILAKWACHAは「空振り」となった。ピリ兄の説明によると、村長がプロテスタントの信仰の人で、「水と霊」のこの信仰が入ってくるのを恐れたという。二人のドライバーは帰着後に受洗。夜は義樹巡回がスワヒリ語の霊讃歌の指導をしていた。20册の霊讃歌の抜粋はとても貴く毎日用いられた。
真夜中に気が付いた。ピリ兄は食事をする真ん中の部屋の壁際に上半身を立てて両足を伸ばして長椅子の上に、一枚の布を頭からかぶって寝ている。どこまで忍耐強いのか・・・、あの100キロもあろうかという遠い道のりを主に選ばれた魂を求めて歩いて行く伝道者の姿が想われる。そして「水と霊」だ。客人をもてなす心の篤いこと、静かに口づさむ霊讃歌。ローソクの火をそばに聖書を静かに読んでいる。我々が到着した日(8月22日)に一頭のブタを潰して料理の準備をしたそうだ。毎日の食卓にのぼっているあのニャーマがそれである。
婦人たちの立ち働く姿は美しく貴い、バケツには重たい水・・・それを頭にのせて三人の婦人たちが今日も井戸から帰ってきた。大きなブリキ製の器に水が注ぎ込まれてゆく。まとわりつく子供たちはどの子も健康で笑いさざめいている。平和な農家がここにある。今日も青い空が広がっている。風はやんだ。山羊、鶏、豚、そして犬たち。男、女、そして多くの子供たち、赤児・・・母の背中に。この国では4〜10月は乾季でほとんど雨が降らない。主食のトウモロコシの取入れの4月以降はあまり仕事がないようである。聞くと、南アフリカに出稼ぎに行く男たちも多いそうだ。
夜になって、再び、べザから来たというマタイ兄を見た。いい顔だちの青年だ。ピリ兄は「聖書神学」の第一章から講議を現地語であるチェチュワ語で始めたようだ。こうして聖霊の火が燃え移ってゆくのを見るのは楽しい。
2006/8/29(火) 晴れ
朝、洗濯。ピリ兄を中心とした一族、一家の姿を見ていると太古の昔にタイムスリップしてしまう。これは文化・文明・技術革新と人の幸せとを検証するためのよき機会である。「競争ではなく共生」という言葉が思い出されてくる。
9時30分になっても予定した約束の車がこない。「今日使う車をさがしに行く・・・」とピリ兄と義樹巡回が出かけていった。ほどなくやってきた程度の良いトヨタ車にて我々は乗れるだけ乗って10時30分には出発した。昨年の「お救い」の群MOMBOに行くのだという。伝道集会となった。懐かしい顔がみえた。ここでも葬式に出かけた多くの人々がいて「空振り」の感がした。ひとりエリヤという名の老人が車に乗り込み、いつもの池で洗礼を受けた。彼はすでに洗礼を受けているから「洗足」だけ・・・という積もりであったらしいが、義樹巡回が「何の名による洗礼であったか?」と質問をしたことから正しい洗礼に導かれ「洗礼の受けなおし」となったそうである。さらには亡き両親の「身代り洗礼」も許された。そしてエリヤ兄はピリ宅に一泊した。
2006/8/30(水) 晴れ
朝はやく衣類を洗濯する。コーランが2回、ザレカ難民キャンプの方から流れてきた。静かな朝である。「義の太陽」が昇るのはもうまじか・・・かと感じられる。詩篇118篇22〜24節を思い返している。庭に敷物をしいて霊讃歌を歌っていると、みんなも集まって一緒になって歌うのであった。早い!7時30分にはもう車がやってきた。
1時間地点のモンボで二人の兄たちが乗り込んで来た。超満員であるが誰も文句を言う人はいない。2時間地点は昨年の群MAZONGAであった。11時から約1時間大きな木の下で伝道集会をした。遠い昔の「路傍伝道」を思い出した。そこから30分でべザMBEZAに着いた。その集会でマタイ兄を責任者として立て、我らは手を措いて祈った。安息日を聖く守ることを勧めた。それから、14名のみ救いがあって我らはみな燃えた。昼食はマタイ兄の涼しい家の中で、シーマと焼き卵を頂いた。美味しく、とても有難かった。そして帰りはとても早かった。走り出してから約2時間10分で帰着したのである。
2006/8/31(木) 晴れ、風強し
いよいよ最終日となった。声をかけてピリ兄がわたしの部屋に入ってきた。手にはビニールに包んだ「クワチャ(現地通貨)」である。つまり「献金」の中の什一を聖別していたものを、「先生、これが主の什一です」と言って持って来たのであった。ドルに換算すると驚くほどわずかの金額になるが、これは主イエスさまに確実にお届けして、祝福をしていただかねばならない。活きた信仰の源がここにあるからだ。
昨日の約束の9時になっても車がこず、その間、お別れの集会をした。10時10分ごろおんぼろの軽トラックがきて、そこに20人が乗った。空港への途中で左後ろのタイヤがパンクした。みんなケラケラと笑いながら道ばたにしゃがみ込む。さて、どうしたものか。スぺヤータイヤはない。われらの運転手くんは通りかかった満員のミニバスに何やら合図をしたのが見えた。約40分ほどしてから坂道を昇って来た満員のトラックがそばで止まると、何と!ぴったりのタイヤにジャッキに自転車用の空気入れが手渡されたのであった。すごいことだ。そしてようやく空港(KAMUZU INTERNATIONAL AIRPORT)、その直前でゲートマンに乗せ過ぎだと叱られた・・・でも、なんとか許されたようだ。空港の中にみんな入って小声でうれしそうに感謝の祈りをしたものである。みんなの顔は輝いていた。ハレルヤ!それから約3時間、ヨハネスブルグに夕刻に到着。
リロングェ発 13:35———16:05 ヨハネスブルグ着(SA171)
ハーツのレンタカーでプレトリアへ向うがひどい渋滞が続いた。さて、予約していた民宿ゲストハウス「ナイフとフォーク」は団体さんで一杯、紹介された民宿「ZELDAGAR ゲストハウス」は驚くべき悲しみの中にあった。主人の息子さんが先程「高速道にて事故で死亡」ということで、ご両親は病院に駆け付けているとか。何ということ・・・!「ナイフとフォーク」からわたしたちの為の夕食が届き、食事を告げにきたのは亡くなった青年の祖母だという。御霊は彼女に福音を語らせた。「水と霊」を語らせてくださった。この涙を喜びに変えうる主イエス・キリストを語らせてくださった。その時に共に祈ったが、受霊まではいかなかった。
私は久しぶりの湯舟に湯をたっぷりと張って身を沈めた。ここで主は静かな夜を与えて下さった。奇しきことである。
2006/9/1(金) 晴れ
昨日「息子さんが事故死」した家の母親が仕事とはいえ、こうして我々の前に顔を出した。その精神・その心のありように心揺さぶられた。出発の前に庭先で、しばらく共にお祈りを捧げた。主のご計画がこの家に何かあるように思わされた。
車はM8—N1—N3とダーバンに向って進路をとる。義樹巡回の運転で約600キロの道のりを7時間30分でペーターマリッツバーグへ到着した。
意外や・・・黒人たちの沸き返る町である。すごい雑踏をかきわけるようにして宿を探すが、なかなか見つからない。その宿の名も忘れている。ぐるぐると回っている内に、見覚えのある通りにでた。奇しき御手の働きを感じた。その宿の名は「UMPHITI」317BULWER ST. PMB 3201
宿の夫妻には生後7ヶ月の男の子。喜んで我らを迎えた。広い一番の客間に通された。間もなく、どやどやと団体客が入って来た。一時して町に歩いてでかけると、道をこちらに横切る人があり・・・ウイリアム兄であった。
美容院(サルーン)に行くと多くの懐かしい顔があちらこちらに見えて、目は笑っている。コンゴ難民に伸ばされた神の憐憫のみ手のひとつがここにあった。デロ兄を中心とした一群れがここにある。賑やかな曲の満ちたサルーンに多くの客が楽し気に頭髪の手入れをしてもらっている。椅子の数は80は充分にあるだろう。むんむんとした黒人たちのバイタリティの発露であった。義樹巡回は驚いたようにビデオを回していた。
2006/9/2(土) 晴れ
義樹巡回はお腹をこわしてベットから起きられない。
安息日礼拝はウンピティの宿の食堂にてウイリアムとヤエと共に。デロを携帯で呼んだが、彼が来たのは午後2時ごろであった。唯、主を頼りとする信仰こそが我らの教会のあり方であることを語った。最後になって悩みを打ち明けた。二人には外に出てもらって彼が言った事は一月前の失火のことであった。刑事問題にはならず、行政処分だけで済んだとはいえ役所から請求されている賠償金のことであった。更にはニャルグスキャンプにいる80才近い母親のことであった。主に祈り、ひたすらに頼る信仰は力を与え希望を与える。信仰がきたようで顔元が明るくなっていた。
夜は30人位の集まりで、今夜も昨夜に続いて「聖餐式」をした。主の求め給う霊と真の礼拝のことを語った。ハレルヤ。
2006/9/3(日) 曇り、小雨
思い出すのは1)スワ先生のこと。あの聖言・・・常に喜べ、絶えず祈れ、凡ての事感謝せよ。2)主のご返事。毒麦を抜き集めましょうか?否。育つにまかせよ。3)純基先生のおことば。百家争鳴の時代をもたらさねばならない。・・・という一連のことばであった。
この群れを我らに与え給うたのは主イエスさまであったこと。1999年1月、タンザニアの奥地、ニャルグスキャンプに始まったあの伝道も主のお導きであったというならば、現在こうして目撃する姿も、主のお許しによる一切である。毒麦の現実がスワ先生を圧倒しようとした時、主は「常に喜べ・・・」と言わせ給うたことを想い出している。かくして2000年を迎え、主は純基先生をお立てになり、聖別の業を全うされたのであった。ハレルヤ。そして再び「世界宣教」に目を転じたときに、はやくも毒麦の徴を目にしている。
「はじめから決まっていたのね・・・」と静かに言われたスワ先生のあのお言葉・・・、長らく忍耐して育てていたけれども、初期に感じた予感は当たっていて、途中で大変化することは本当に稀なのだという「悟り」であったのだと今思う。全てが初めから判っていなかった事が、本当は神の大きな憐れみであったわけだ。人は本来、希望なしには生きていけない者なのだ。このペーターマリッツバーグPMBの群を主は祝して信仰を与えて下さるように祈る今朝である。
洗礼をこの宿のプールで・・・と願うとオーナーの主人はオーケーを出してくれた。彼の妻は「先生が次に来てくれた時に、この幼子もわたしも、主人もここで洗礼をうけます。」と笑顔で約束してくれたのは嬉しい事であった。ハレルヤ。
ウイリアム兄が「献金」を手に、わたしたちの部屋に訪れた。彼はお証しをした。「平和の君」なる主がわれらに平和を与えたまう。自分は貧しいけれども心は平和に満たされている・・・と。ハレルヤ。仕事は週に3日の庭師の仕事と、他の3日は道ばたで子供たち相手に「甘いもの」のバラ売りである。輝いている彼を見て人々は尋ねる。あなたの車はどこにおいているのか?「車・・・は、この靴です」と答える。仕事は何・・・と聞かれると、正直に答えるが・・・だれもそれを信じない。「神の愛は深くして測り難し。」
美容院のお客の一人、その婦人が招いたので我らをその家に連れていった。ホーウイックという隣町であった。兄夫婦といとこの家族と多くの子供たちがそこに集まっていた。福音が流れてゆく。とても幸せな時間が流れた。熱心なプロテスタントの家である。聖霊待望となりみな受霊したが、洗礼は後日に回った。それを受ける時には全家族・・・友人たちにも大いに伝道したいという。いいことである。デロ兄が3年も前から彼女の頭を触りながらお証した「主イエス・キリストと真のキリスト教」がここに来たのである。
夜6時20分頃からの日曜聖会、多くの魂が来るかと思っていたが、20人少々という集いで、なかなか霊が堅いという感じがしたので、しっかりとお祈りをした。主の憐れみを乞い求めた義樹巡回の最初のお祈りもあり、主のご聖餐も祝されて「平和の君」なる主イエスさまの御支配を感じつつ終わりを迎えた。
23才の青年がひとり洗礼を受けることとなり、宿にきてプールで感謝の内に雨の中、全うされた。新しい道が開けたのだ。デロ兄もこの午後のホーウイック伝道に主の御働きをみて貴い信仰が与えられて来た。ハレルヤ。お腹をこわしていた義樹巡回もすっかり回復し、その夜も遠くまで人々を車で送って行った。喜ばしいことである。聖餐式を主が今回は導き給うた。すごかった。やはり、主が大いに戦ってくださった・・・と感じた。
2006/9/4(月) 曇りのち晴れ
宿を出て、われらは別れを告げ、朝6時40分から走り始めた。小雨から濃霧、そして晴れとなった。時速120キロで走って来たからであろう。思いがけずも午後1時前にはヨハネスブルグ空港に着いた。一日早く車を返せたので計算してみると、約800ドルで済んだようである。ハレルヤ。宿は空港の近くのゲストハウス「DOVE’S NEST」に主が導いてくださった。二人で朝食付きで60ドルほどであった。それにしても二人ともよく寝るものだ。
2006/9/5(火) 晴れ
司馬遼太郎「歴史の中の日本」を読んでいる。そこに「百家争鳴」・・・「暗中模索」という表現を見つけた。そうだ、「暗中模索」の中から新しい貴い生命なるものが生まれてくるのである。
ヨハネスブルグ発 14:40ーーー07:05 シンガポール着(SQ479)
ヨハネスブルグからシンガポールまで約12時間。乗継ぎは約3時間。聞く所によると、関東地方に向けて台風12号が接近中とか。
2006/9/6(水) 小雨
シンガポール発 09:45———17:35 成田着(SQ12)
シンガポールから成田までは約7時間。台風12号はそれて房総半島の沖合いを北上中とか。「道」HIGHTWAY ・・・霊の高いところを歩む。その道は主によって贖われた者のみが歩む事の出来るという道。この素晴らしい道を指し示し、導いてくださった恩師、導師のことを思っている。
成田空港の美しい到着ゲート。そこで義樹巡回と共にこのたびの伝道旅行が祝され、守られたことを心から感謝して、それぞれの任地に向って別れを告げたのであった。
ハレルヤ アーメン