第2回 マラウイ伝道の記録
2004/4/6(火)
リロンゲ国際空港の外には多くの出迎え客がいたが、最初のコーナーにはふたりの
兄弟がたが「IESU NO MITAMA MYOKAI」という紙を手にもってわたしたちを出迎えた。
間もなく、どっと押し寄せるのは皆どうも「我らの仲間」たちであった。驚きと
ともに興奮のるつぼとなってゆく。30人はいるみたいだ。ミサ兄がやってきたので
ハグをして再会を喜んだ。
バスがあって、フリントガラスには「IESU NO MITAMA MYOKAI」Personal Hire
と黒いマジックで大きく書いて貼ってあった。間もなく我らはお祈りをして出発
途中でホテル「RIVERSIDE HOTEL」に荷物を下ろし一休憩。さらに讃美を歌い
ながら出発した。飲み物とパンをみんなの為に途中で買い込み、一路「ZAREKA
CAMP」の方に向かう。舗装道路が続くなか両サイドにはトウモロコシ畑が続く。
そして右手に折れる道に入ると、もうそこはアフリカの赤土の懐かしい道路だ。
丘をこえてゆく。思い出す先の伝道のこと、それは2000年11月17日であった。
ZAREKA CAMPを通り抜けると、そこはまさにアフリカの原風景が広がっていた。
小さな集落が点在するその奥にめざす我らの村DOWAがあった。
「難民キャンプの伝道はこのところ閉ざされており、マラウイの現地人の伝道を
しています。キャンプでは人々が金銭の援助をまず求めるので、我らはそれには
答えられない。そして外に出ることになりました。」これがミサ兄の説明であった。
村びとたちが出てきて讃美歌を歌う。バスの中でもそれに答えるように讃美歌を
歌う・・・それは歌合戦のようであった。バスが横付けしたトウモロコシ畑の中に
土壁の一軒家があり「IESU NO MITAMA MYOKAI」と書かれてあった。軒端には
花の枝で飾り付けをしている。群がる人々と一緒に祈ると大きな喜びが天から下っ
てきた。会堂にはいると講壇が出来ており、間もなく一杯の人々でうめ尽された。
子供達も多くいたがみんなとてもおとなしくしている。まずは「会堂の祝福」を
祈る為に先生がた4人に講壇に登っていただき、聖徒方にもみな立って手を高く
あげて祈る。ハレルヤ・ハレルヤとの祈りの声は大きく響いて外の人々をも巻き込んで
恵みが降り注がれてきた。礼子先生の挨拶と田原先生の癒しのお証しがあって、
わかったのであろう。手をたたいて喜ぶのであった。この群れの指導をしている
BRO. STONADI PHILI兄が讃美をみんなに指導すると爆発する聖歌隊がそこに出現
したのである。
何と言う言葉なのか・・・チチェワ語。スワヒリ語を知る者は一人も無かった。
でも一人の青年が巧みな英語を話すことが出来たので、大いに助かった。
彼らに迫る難問があった。それはこの群れの中で死人が出たらどうするか・・・という
ことや、結婚をしたいという若い青年男女の願いをどうするか・・・ということで
ある。先生方とも相談して、この群れの責任者としてBRO. STONADI PHILを立てて
こうした諸問題にあたらせることにした。みんなで彼の上に手をおいて祈ることに
なった。これは先頃から監督先生が指摘しておられた福音の進展に欠かすことの出来ぬ
もののひとつとわれらは理解できたのである。
間もなく夕闇が迫ってきたので洗礼を主は導いておられると感じた。ミサ兄に聞くと
これからすぐに洗礼をしますという。バスには一杯乗り合わせて出発。多くの人々とも
手をふって別れる。今日は時間も遅くなったので近くの小川で洗礼ということになった。
あまり芳しく無いところだがやむをえない。わたしがご用をさせていただき、
礼子先生が洗足をしてくれた。9名の兄弟がたが次々と水に入った。
すっかりと暗くなり「頌栄・祝祷」でおわった。帰る道で次々とバスを降りてゆく。
喜びがみんなの心に湧いてきている。突然、金色に輝く「満月」が昇ってきた。
あの方角が東なのであろう。その上には「南十字星」が輝いている。まさに
天にしるしが現れたということだ。
ホテルに帰ってから、今日のバス代187ドルを払う。
レストランで食事をしながら、今日一日のことを語りあうこの幸せ・・・
福音に使命を持たされている者のみの天来の幸せである。
2004/4/7(水)
リロンゲの町に住む人々にも福音が少しづつ広がるのであるが、政府に提出する
書類が整わない為に伝道をオープンにすることが出来ないでいる。バスで愛兄たち
の住まいに出向くことは今少し、時期を待つこととなった。そこで昨日の村里の
教会に行くのであった。途中のマーケットでバナナをひと袋一杯買い求めてきた。
9時半ごろから始まった集いには讃美が溢れている。
癒しの時間ももった。多くの人々が列をなして祈りを求めて前にきた。油を塗って
祈る。その時には聖霊待望も兼ねてしっかりとハレルヤ・ハレルヤと祈って貰う
わけである。昼食はバナナであった。讃美は「ファナナ、ファナナ」という歌だ。
さて洗礼は昨日よりも少し車を走らせて行ったところにやや大きな水の流れがあり、
そこで洗礼式を行った。わたしがご用をさせていただき、礼子先生が洗足式をした。
バスが3往復で全部で66名の洗礼がなされ、約3時間の時が流れた。
これこそ「至福の時」であった。幼い者たちもとても多かったが勢いが付いてきた。
雑木の木陰で各々が着物を脱いで、水に入ってくる。その姿はかつての難民
キャンプの洗礼の様子そのものであった。ここはマラウイの農民たちの普通の村びと
たちのみ救いである。日ざしが木陰に遮られて、実に穏やかな空間がそこにあった。
赤子がおり、幼児がいる。母親が着物のままで入ってくる。よくお世話をする若い
婦人が右左に動いて手助けをしていたが、この人がミサ兄の奥さんであったとは
先ほどホテルで聞いてわかった次第である。この人が礼子先生の持っていた濡れた
一式を指さして「これを洗って明日わたしがもってきます」といったのには驚いた。
さすがにひと味違った婦人である。ミサ兄の妻はCELINAさんという。難民という立場
で、首都リロンゲの町に住むということがどんなに困難か、主によって生かされて
いくことの素晴らしさをここでも見せられている。この3年半の歳月を生きぬいて
きたことは其れ事態が奇跡だと思えるのだ。生きただけではなく、こうして小さい
ながらも群れが興っているのだから・・・。
少し早めではあったが、ホテルに帰ってきた。
政府認可の問題がたちまちの大問題なのだが、福音の行くところいつも付いて回って
われらを悩ますのである。大きく動けないことが主の智慧の働きであると考えること
も出来るが、逐次、監督先生にもご報告して、さらに主のご指導を仰ぐことにしよう。
何はともあれ、この4年間でこうした群れが興されて何の問題もないということは
大変な「光」である。こうしたへき地の「家の教会」であれば、政府としても大目に
みて、とがめ立てをしないということがわかったからである。
2004/4/8(木)
今日もよい天気である。食事も美味しく頂けて感謝だ。
朝食前に礼子が言うことには「洗礼を受けた人たちが確かに聖霊も受けたということ
を確認することがとても大事ね・・・」そうだ!今日はまず「聖霊待望会」をしよう。
そういうことで出発したのが9時30分も過ぎた頃であった。
途中のマーケットではバナナがなくてパンになったが、これが貴重な「愛餐会」の
恵みとなったのである。教会に着いてからまもなく集合の記念撮影をした。小さな子ども
たちが多いので100名ほどもいるであろうか?それからCHIKAGO PENTIYO兄の家に行って病気の奥さんの為に祈ることにした。家までは約1キロの道のりであるという。
途中までバスでゆき、あとは歩いた。秋の爽やかな風の中、下り坂を行く。
さきにたって歩く青年たちの中に、ニャルグスとルグフで救われたという二人の青年が
おり、ミサ兄が彼らをわたしに紹介したのであった。
ピリ兄と一緒に歩きながら「主の賜う十字架を背負ってお従いする信仰がわれらの
教会である。あなたは十字架を背負うか?」と聞くと「はい、喜んで」と返事したので
ミサ兄たちの家族を迎えてもらえないか?と聞いてみたら、とても喜んだので、
これは主のお導きだな・・・と感じた。町で家賃に追われる生活ではいけないと思って
いたので、衣食住から解き放たれて伝道一筋に進むことが出来るならば、きっと使命が
果たせるはずである。ミサ兄もキャンプに帰っては自由な伝道が出来ぬことを知って
いるので、このピリ兄のそばに家族を置いて活動のできることは彼の希望であった。
トウモロコシがずっと広がって間もなく収穫の時期を迎えるのだ。彼が指さした辺りに
数軒の家があった。町に出てビジネスをしているというおじさんの家はしっかりとした
建物だが、彼の家は小さなもので窓がひとつ、そこには内側に藁のれんがかかっていた。
電気もない薄暗い部屋の中に奥さんと3人の子供達と一人の幼児が壁に背中をつけて
すわっているのが見えた。何も家具などのない土の土間である。そこに広いむしろが
一枚ひいてあり、そこに病いの中にいる家族の姿があった。
「イエスさま」が病いの人を尋ねてゆかれたのもこんな様子ではなかったか・・・と、
一瞬、思った。「癒し主」を讃美した後に、みんなと声を合わせて異言で祈る。
30人ほどが家の内外で一緒に祈った。先生方には手をおいて祈って頂き、わたしは
油を塗って、ひとりひとりの為に祈った。礼子先生が聞くと「マラリアだ」との
返事だったそうである。祈りが天を動かすのがよくわかった。田原先生が病いの霊に
向かって強い口調で「出てゆけ!再び入ることを禁ずる!」と言われた後はわたしの
心にもフッと癒しの信仰が来たのであった。これで大丈夫と思ったので現地語の讃美
をみんなで歌ったら、笑みがこぼれてきたのである。
明るいそとにも愛兄姉たちが家をとりかこんで間もなくわたしは右手に少女の手をつないでいた。草原の道には草花が満開で、目に止まったマーガレットをつんで胸のポケットにさすと、少女は名の知らぬしろとピンクの小さな花びらの集まった草花をつんで、わたしに差し出してくれた。
空には入道雲がでて夏のけはいが満ちているが、風は清涼であり、遠くには茅葺きの
家が集まった村里が点在して見えている。少し勾配のある上り道であったから、田原
先生は屈強の青年たち三人の背中に、交代でおんぶされて「よいしょ、よいしょ」と
かけ声をかけながら、遂にバスまでやってきた。にこにこしながら「よいしょ、よいしょ」という言葉を覚えた青年達の顔には親しみにかがやいていた。
車で待っていた運転手くんに胸のマーガレットを摘んであげると、さっそく自分の
胸にさしていた。バスは満杯で動き出した。間もなく教会であった。そのつち壁には
MALAWI IESU NO MITAMA KYOKAI From17th NOV. 2000 to 2004 と書かれて
いたのを再びジッと見て、心に喜びがくるのであった。
会堂いっぱいの聖徒がたの讃美・・・そして「聖霊待望会」ということになった。
前に椅子を一つおいて、昨日「洗礼」を受けた順番に名をミサ兄に読み上げてもらうと
ひとりひとりが前に出てくる。田原先生が立ってその方に手をおき、礼子先生が右に
宮良先生が前からというぐわいに取り囲んで祈るのであった。
これにはたっぷりと時間がかかったが、とても大切なことと思わせられた。
昨日の「受洗者」の中で約40名ほどが聖霊を受けたもようである。
それから町で買い込んできたパンを前におき、先生方に手をおいて祈っていただき、
みんなに一切れづつを配った。わたしと田原先生はひとつのパンを半分に割って
いただいたが、「これでほら・・・ひとつになった」と先生が言われた。小さくなって
も、手にはひとつのパンがあったという事実は愉快である。きのうは「ファナナ、ファ
ナナ」という歌と共にバナナが配られたが、きょうはその歌がないのでパンだね・・・と、
誰かが言った。ファナナの歌というのは「われらはイエスのごとくにあるべきだ」
という意味のチチュワ語の讃美のことである。
食後は「洗礼」ということになり、まだの人々がバスに乗り込んでゆく。昨日の川で
ある。バスのうしろからきれいな女声の歌声が始まると、男声がそれに添えて歌う。
その天国のハーモニーはわたしたちを魅了した。これは神の賜物のひとつである。
今日は「洗礼」がわたしで「洗足」が宮良先生であり、ひとりの青年が手伝いの
為に水の中にまではいってくれた。わたしの洗礼着もミサ兄の妻CELINA MISSA BANDAが
きれいに洗濯して、乾かしてもってきてくれていた。すごいご用をしてくれたものである。
その彼女もきょうは最後に水に入ってきた。宮良先生のカメラに洗礼と洗足がうまくおさまり、そしてそのカメラからは最後の音が鳴り出したのは面白い。
「洗礼」の数を聞くと、ミサ兄は37名ですと答えた。
道ばたに背の低いコスモスの花が咲いている。福音の広がりをそこに見つけて喜ぶ。
教会にかえるとみんなの顔はうんと輝いて見えた。讃美も張り切っているし、祈りも
ちから強い。わたしは立ち上がって話した。「ここはマラウイの中心です。ここから
マラウイ全国に「水と霊」の真の福音を伝えてゆきましょう。この主イエスさまの福音
、その喜びと恵みを語り伝えてゆきましょう。」すると、大拍手が沸き起こった。
それは小さな子供達であり、今救われたばかりの村びとたちであった。
またまた「聖霊待望会」となり、ひとりひとりが前に来て祈ってもらう。
この方法はとてもよい。しっかりと確認が出来るのである。本人も「水と霊」の意味
を悟ることができるわけだ。われらの運転手くんが頭痛を訴えており、病院に行くと
言っていたので、油を塗って祈ってあげた。異言も出ていたからこれで主は癒して下さ
るな・・・と思ったがその通りであった。「聖霊待望会」も終わり、いざ帰ろうとして
バスに乗りこんできた時には、もうすっかり癒されているふうであった。あすには彼も
「洗礼」を受けるという約束を礼子先生はすでに取りつけていたようである。
今日も夕闇が迫る中をRIVERSIDE HOTELに向かっていたと思ったが、途中で道が
変わり、ミサ兄のいま住んでいる家に行ったのである。そこはレンガ造りの家なのだが、
LUMANYA CHRLES兄の家で、そこに世話になっているという。「どうぞ・・・」
といわれて入って見ると、何もないがらんとした土間にござが隅にあるだけであった。
5才の少年がミサ兄の二人目の子どもで8才の長女は今もタンザニアにいるという。
われらはランプひとつの光のなかで、ござの上に座って祈りを捧げた。ここから移動
してあのピリ兄のところに彼らがゆくのが主のお導きだと感じた。
そして、今迄のミサ兄姉の戦いの全貌が見えてきた。優れた霊魂たちである。それに
「教会認可」ということの持つ意味あいに、巧みなサタンの影を見た思いがした。
さらにはこの難民という立場に押しつぶされない凛としたふたりにとても好感を覚えた
ものである。「まず神の国と神の義を求めよ」という主のひとことが今日はとても重たく
聞こえる。
2004/4/9(金)
全天が雲に覆われているが、静かな朝を迎えている。
DOWAの兄弟たちがいうには、あすは朝はやくから来て欲しい。
たくさんの人々が村々から救いを求めてやってくるから・・・。
私たちはそれに応えて8時半にはロビーに出てバスを待ったし、LILONGWEから
出かけてゆく人々も次々と集まってきた。ロビーには彼ら二人の兄弟がたときれいに
着飾った三人、それからDOWA村の二人・・・全部で7名であった。
今日はGOOD FRIDAYだと婦人達がいうので、改めてこの週が「受難週」であった
ことを思い出したことであった。このマラウイ国に主イエスさまの持っておられるご計画
がとても偉大なものであるような予感を覚えるのである。
ところが・・・である。いや、それだから・・・というべきか・・・?
今までのバスが故障してしまい、他の車を準備しているので待っていて欲しいという
知らせが携帯(リロンゲの一姉妹のもの)に飛び込んできた。礼子先生は「部屋に
もどり横になってくる」と言って席を立った。そうして長い時間が経過してミサ兄の
妻CELINAの一行も加わって待ったのであったが、その間にCELINA姉からミサとの
結婚のことやら、その後のいきさつを聞いたのである。
彼女はこのDOWAの部落で生まれ育ったマラウイの人である。
コンゴ人のミサが内戦の為にコンゴを離れ、このDZAREKAキャンプにきている時、
1996年に知り合ってその年12月5日に結婚をした。翌年1997年2月には国連の手配
で内戦のおさまっていたコンゴ・キンシャサにふたりは移動したが、二ヶ月後には
再び、内戦がひどくなり生命からがら三週間かけてタンザニヤのニャルグスキャンプに
逃げ込んだということであった。その年生まれたのが長女のFEZA MISSA(8才)であり
2000年には長男HORMONY MISSA(5才)が生まれた。
そうして2000年11月17日の初めてのマラウイ伝道のあと、このDOWAの人ピリ
兄にふたりで「イエス之御霊教会」を紹介した。彼女の昔からの知り合いであったという。
それからこの3年半の間に会堂を建てて、村びとに伝道を続けてきたのだそうだ。
このピリ兄はある教会に属していた熱心な信者であった。
確かにキャンプにもっとも近いマラウイの村のひとつではあるが、ただ近いから群れが
興ったのではなかった。主イエスさまの摂理のみ手が動いていたことがわかった。
礼子先生は部屋で一寝入りしてからロビーにきたが、この話をすると驚いて「やっぱり
神様」というのであった。
一方、田原先生と宮良先生は昨日の「よいしょ」の兄弟たちと話の花を咲かせていた。
彼の名はWESTON NGOYANI (Saiwa f. p. School Box 138 Ntcheu)といった。
いまひとりは病気の妻をもつCHIKAGO兄であった。
「あなたはどこに行きますか?」などなど・・・
この国の言葉チチェワ語でどういうか・・・宮良先生は手帳に書き留めておられる。
新しい車には新しい運転手、それがようやく到着したのが、もう昼近くになっていた。
途中のマーケットで今日は特別に「牛肉」を仕入れた。4,000KWACHAほどであった。
日本円にしても同じく4,000円ほどである。一抱えもある肉の塊をビニールに包んで
乗り込んできた。これが夕べの「愛餐会」のシーマとニャ−マとなったのであった。
シーマというのはこの国の主食(ケニヤでいうウガリ)つまりトウモロコシの粉で
作った「ごはん」である。あつあつが大きなお椀に入れられてきて右手で捏ねながら、
口に運ぶのだ。その前には両手を温かなお湯で洗うわけだ。ニャ−マというのが、
牛肉を一口づつに切って、砂糖やしょうゆ味で煮込んだものである。これを左手に
もって口に入れると、実にうまい!リロンゲからの客人やあのたくさんの子供達も、
あちこちに分散して頂いたようであった。めったにない「大ごちそう」であったはずで
ある。そうだ!今日は主の受難の日、GOOD FRIDAYなのだ。
集会は雨もよいの中、ぎっしりと詰め込まれた会堂で開かれた。讃美があり、神癒祈祷
があり、聖言はコリント前書13章の4--8節であった。「愛は寛容にして慈悲あり・・」
のところであった。「己の利を求めず」ということを考えた時に、こうした海外伝道
の心情を言い当てていると思うのであった。監督・村井スワ先生のご生涯を思った。
確かに神のご愛が「IESU NO MITAMA KYOKAI」のこうした海外伝道に流れている。
それは十字架から流されている御血、そのものであると言えるのだ。
ふたりの精神障害の青年たちが講壇の前に置かれて、まずは神癒祈祷がはじまった。
そして次々と膏をぬって祈っていただく。ご用は宮良先生で、力一杯に丁寧に、ひとり
ひとりの為に祈った。感動であった。いつものように献金の歌がつづく。
それから洗礼にと川にゆく。今日は24人だった。あの障害のある人々も立派に受けた。
ところが・・・である。リロンゲからの人々は川まで来ていたのに、入ろうとしない。
その村の信徒である愛兄が「何故、かれらは洗礼をこばむのか?」と、わたしに聞いた
が、本当にそうだ!何故、彼らはここまできて、洗礼を拒んだのであろうか?
彼らは見事に讃美するし、そのハーモニーもすごい!でも、何だか変である。
異言の祈りの乏しいことは目を覆いたくなるほどで、これは「世の教会」そのものが
迷いこんできたとしか言い様が無い。どこでこの見事な讃美を学んだか?と聞いて
みると・・・「学校で」という返事であった。教会経営の学校をイメージした。
リンゴが赤いからといって、中身まで赤いわけではない。
ひと皮剥けば、真っ白である。
われらがこうして見事にキリスト・イエスさまを讃美する青年達に触れてみて、
その内側まで見事な「キリスト者」と思い込んでは大変な間違いを犯すのだ・・・と、
あらためて認識している。
すべてが主イエスさまのみ手の中に導かれて「最高だ」と喜ぶことも大切だし、
信仰の初歩に止まることの危険をしっかりと心得て、さらなる神のお導きにわれらは
従って進まねばならない。リロンゲの人々をいまは切り離してこのDOWAの貧しくも
純粋な神の群れをしっかりと養う必要があると思った。
まずは「霊とまことの礼拝」のことである。精神主義のうわっすべりを警戒しなければ
ならない。祈るということ。異言の祈りの喜び、その命する世界をみんなに知ってもら
いたいのである。まずはこの群れのピリご夫妻、そしてミサご夫妻にである。
皮肉なことに、用意してきた「スワヒリ霊讃歌」はリロンゲの人々には理解できるが、
このDOWAの村びとにはさっぱりである。細い道が開かれているだけだ。
午後6時すぎにホテルに帰ってきた。
礼子先生が今夜は持ってきた味噌ラーメンにしましょう・・・といったので、先生がた
はとても喜ばれていた。普段はたいしたものではないこの日本の味も、ここでは一種の
感動である。
2004/4/10(土)
快晴の朝を迎えている。静かだ。
朝食はいつも決まったメニューであるが、我らはみな満足している。
オムレツは注文で、ポテトフライやソーセージ、レンズ豆の煮物、それにトーストで
ある。他にはあの二種類のコーンフレーク・・・それにミルクと砂糖をかけて、そして
フルーツを食べる。飲み物はジュースにコーヒーあるいは紅茶である。
8時には食事を終えて、まもなくロビーに集まる。
今日は「受難週」の中の安息日であり、大いなる安息日だ。
主イエスさまに期待しながら、わたしたちはロビーに集合した。
ほどなくバスが来て、ミサ兄が降りてきて「先生、リロンゲの兄姉たち(10名)の
洗礼をここの河でお願いしたいのですが・・・」と言った。すごい!見ると、きのうの
晴れ着とは違って、今日は洗礼を受けるという準備をして姉妹がたも乗ってきている。
「水はどこだ?」町を離れて郊外に向かう。突然、左にマラウイの国旗と右に日章旗を
描いたアーチが見えて、どうもそこはモデル住宅地帯のようであった。そこを過ぎると
「リロンゲ河」、それはあたかもヨルダン河のような川幅があり、その流れははやい。
これは太古の昔と変わらぬ流れのように思えた。
水遊びの子供達がいて、両岸には多くの婦人達が洗濯の為に忙しく働いている。
あたりには爽やかな秋空が広がり、光が眩しい。
川底は深くえぐられているので、岸辺に張り付くようにして、先ずは兄弟がたから
わたしが洗礼、礼子先生が洗足を受け持った。二名の姉妹がたも立派に受けた時に、
大きな喜びの声が上がり、拍手が広がった。洗濯の主婦たちも興味津々、この式典を
見守る。10名の洗礼・洗足、それに聖霊待望が終わると、写真撮影は宮良先生。
ファインダーをのぞきながら「これはとても上等」といってあたりの景色を示した。
葦と蘆の茂りあう急流をバックにした撮影だった。それからバスの前での「頌栄・
祝祷」には天の軍勢も加わる大讃美をわたしたちはみな感じたものである。
それからのバスは爆発的な讃美となった。同じ讃美歌でもこうも違うのか!そうだ!
その意味するところがしっかりと自分のものとなってきたのだから、声にも当然、
張りがあるわけである。途中のガソリンスタンドでこのディーゼル車に燃料を入れる
ことになったが、70リッタ−も入ったし、値段も日本と全く同じほどであった。
そしてわれらがマーケットに近づいた時に、すでに時間は11時半であったから、
「バスの人達みんなにパンとジュ−スを買って、ここで食べることにしましょう」と
礼子先生。誰かが数を数えたがうしろで「29人」という声が聞こえた。
そういうわけで、今日も約束の10時にはとっくに過ぎてDOWAに着いた。それでも
大讃美の村人と子ども達に対して、バスのみんなも大讃美をもって応えている。
空には雨雲が覆い始めた。外の広場には仮設の講壇が設えてあったが、ピリ兄が
「先生、安息日礼拝はどこで?」と聞いたので「会堂で!」と応えて、常のごとくに
会堂の中に入る。椅子はみんな外に出してあったから、とてもスッキリした感じを
受けた。主はどのような安息日礼拝にしてくだるのであろうか?開会の宣言をした時に
「宮良先生と田原先生のご用」ととっさに口に言わされたのは不思議であった。
満堂の聖徒がた、前には子ども達が目を輝かせてぎっしりと座り込んでいる。かつての
難民キャンプのあれである。讃美をみんなにしてもらった。チチュワ語の讃美である。
ピリ兄が音頭をとり、体を揺らしながら大きく手をたたく。今日はこの村のチーフや
難民キャンプのチーフも来ている。その人達にも讃美に加わってもらった。
いっとき雨が激しく降り始めた。
宮良先生が立ち上がりゆっくりとした口調で、天地創造の唯一の神を崇める信仰が
われら「イエス之御霊教会」の信仰であることを話はじめた。わたしが英語に通訳し
若い愛兄が現地のことばに通訳してゆく。聖書を開けて読むことしきり、その天地の神
の貴び給う安息日であり、礼拝であることが語られた。これが「永遠の契約」であると
出エジプト記31章16、17節を開いてゆかれる。そしてさらに主イエス・キリスト
さまのこと、この天地の主が人となりて来たり、罪の贖いをなしてくださったこと。
そして全人類に救いの道が用意されたこと、だから「水と霊」というわけである。
つづいて田原先生は立ち上がり、このマラウイの人々の讃美の歌声の素晴らしさを賞賛
した時、嬉しかったのであろう俄然、大拍手がおこった。先生はいうのである。讃美と
同じように霊の祈りをなさることを勧めたい。異言での祈り、主さまは「霊と真の礼拝」
を求めておられる。ヨハネ伝4章23、24節。自分は20年間の長い肺病生活にあった
が、祈りの喜びを味わい、天が開かれて力と信仰が与えられてくることをずっと体験
してきた。いまはこうして健康が与えられて主イエスさまに用いられている。
みなさんもどうぞ、しっかりと霊言で祈り、主と交わる楽しみをもって頂きたい。
それから、みんなは祈りに導かれた。だんだんと御霊の教会らしく整えられてきたよう
である。この群れの責任者であるピリ兄の妻にも手を置いて祈るように導かれ、前に
来てもらう。ふたりが並んで膝をついてもらった。先生がたにはこの姉に手を按いて
祈ってもらった。続いて、ミサ兄と妻にも手を按いて祈るように導かれた。彼らは
このマラウイ国に広く伝道してゆく器であるように思えるからである。
礼拝が終わってから、ピリ兄が言うには「村長さんたちが挨拶したい」といって来て
いるのだそうだ。会堂の右手の椅子に座っている村のチーフたち8名がひとりづつ紹介
された。40代の人々らしいが、とても老けてみえる。ふとみなさんの大切なお仕事が
全うされる為にそのひとりひとりの健康をお祈りさせていただきましょうと、はなして
前に一つ椅子を用意し、ひとりづつ座ってもらった。宮良先生には神癒祈祷をしていた
だき礼子先生には聖霊待望をしてもらった。終わると持ってきていたわたしの愛媛教会
のパンフレット「真の救い」を一部づつあげた。そしたら、お礼の言葉を代表の二人が
立って言って下さった。
その内容を要約すると・・・
イエスさまは救うということの為にこられたので教会のご用はまさに救いです。
わたしたちを力つけ励ましてください。
心配しないで大いに伝道をしてください。
わたしたちの多くのこどもたちに洗礼をしてくださってありがとう。
このような教会はマラウイにはありません。
代表して話した婦人は聡明な顔だちをしていた。
わたしの手をとると強く握りしめて、それも何度も握り返し離さないのであった。
みんながその仕草をみて笑っていた。
終わると、ミサ兄がきて「先生、洗礼いかがですか」というので、外に出たらもう雨は
あがっていた。青空が広がってさんさんと太陽があたりを照らしている。
洗礼を受けたい人々が次々とバスに乗り込むが、以前のように満杯ではない。
次々と水に入り、幼児や赤子を含めて結局、15名であった。宮良先生の洗足式は丁寧
である。田原先生が言われるには、この主が定められた洗礼式場には篤き臨在の雲が
覆っている感がする。この場に入ってきた人々には豊かな聖霊が臨んでいる。
教会に戻り、時計を見ると3時を指していたので、みんなを集めて前の大きな庭先で
祝福の祈りをして少し話をして終わることにした。三人の先生がたに手を挙げてお祈り
していただき、わたしが一言「相愛することの戒め」を語った。するとピリ兄がひとり
の人を紹介した。彼は村長たちのチーフだそうで、聞くと昨夜、実兄が亡くなり、色々
とご用があり今日はそのために遅れてしまい今きましたと言った。
では、あなたの実兄の為に「身代り洗礼」をしましょうと言うとお願いしますと涙ぐん
で頭をたれた。そういうわけで、急きょバスを動かし再び洗礼にゆくことになった。
それが今日さいごの10名の救いとなったのである。5時20分には終了。
先生方が勧めてくださった異言の祈りが次第に板についてきたのであろう、御霊っ子の
香りが漂いはじめたことはとても悦ばしいことである。
大きな群れとなった人々の笑顔に送られてわれらのバスはリロンゲに向かった。
夕日が輝いて眩しい。バスの中の讃美は殊の外、勢いを増している。
暗闇の中をスピードをあげて走った。「パンゴ−ノ」ゆっくりと走りましょう。
運転手くんは今日も洗礼をエスケープした。
ミサ兄があすはリロンゲの「シナゴーグ」(聖徒の集まる所)に行ってお祈りをして
もらいたいと言ったが、それは最後の日の朝、空港にゆく途中で寄って・・・という
ことにした。あすのイースターはこのDOWAの教会でみんなと一緒に迎えよう。
ホテルのレストランは我々だけだった。あのピリピリのスープではないのを注文して
スチームライスに中華風のチキンシチュー。飲み物は各々の好みのダイエットコ−クや
紅茶である。楽しい語らいのひとときは神の恵みを味わう時である。実に濃密な聖霊の
働きの一日「大安息日」であった。今日もミサ兄の妻セリ−ナは黙々と、帰ってから
洗礼着を洗ってこようとしてふたつのバックを手に掴んでいた。ありがたい器である。
わたしは何もする気がしないで、バタンとベットに横になってそのままだった。
礼子先生はタオルや汚れたズボンを洗っていた。
2004/4/11(日)
すごい試練の日となった。
礼子先生はべったりと横になったまま、起きられない。
ミサ兄のはなしではセリ−ナ姉も今日は病気でまったく元気がない。
余りにもご用がきつすぎたように思える。主にお祈りしてあげよう。
礼子先生は朝食にも起きられず、体に力が入らない。
まだ道なかばであるし、今日はこのままベットに横たわって主を待ち望むことに
なった。今日「イースター」を迎えてあの日のことを思う。主の弟子たちの心境は
どうだったのであろうか。復活の約束を受けてはいたが、まだ信仰はきていなかった。
マリヤたちが主のご復活の驚くべきニュースをもたらしても、心は深く沈んだままで
あった。エマオの途上の二人の弟子の、これまたビッグニュースも心を奮い立たせる
ものとはならなかった。彼らはユダヤ人を怖れ、戸を固く閉ざして寄り添っていた。
そこに、主のご出現であった。御声をもてかれらのひとりひとりにやさしく呼び掛け
給うた主であった。「平安なんじらにあれ!」。そのみ声を聞き、目で見て手ざわり
して、ようやく本心に帰ったのがわれらの主のみ弟子たちであった。
わたしたちも今日はまさにそのようであった。
DOWAに行ってみて思った。どの顔も虚脱感に包まれていた。
力を失っている、と感じた。
こんな時に何ができるであろうか。何も期待できないことは日を見るよりも明らかで
ある。わたしたち三人は講壇に座り込み、ひたすら異言をもって祈るのみであった。
主イエスさまが現れて触れて下さり、語りかけて下さる、これ以外には何も考えられ
なかった。長い祈りの時間が経過して、けだるい空気が包んでいると感じていたが、
突然であった。
聖霊が立ち上がったかと思うと、俄然すごい祈りが溢れ出てきた。
聖徒たちにもその祈りは波及してゆき、まもなく全く別世界が開かれてきたのを感じ
たのである。喜びがきた。望みがきた。田原先生には立ち上がってただひたすら異言
で、この群れの為の祝福を祈っていただく。それからはどんな讃美もよろこびをもた
らすのであった。聖言を宮良先生にお願いすると、「使徒行伝2章」の初めから少し
づつチチュワ語、スワヒリ語、フランス語、英語そして日本語で立ち上がって拝読し
ていただいた。結局は初めの1節から42節までであった。「これが教会の歴史の
始まりです。」と先生は説明された。「この教会がわれらの教会と同じものです。」
と言うのを忘れた、とあとで言われていた。
とにかく御霊のみ力が会堂に充満していたので、主をこの村里のあちこちに伝えて
行こうという伝道の霊がみんなの心に降ってきているのを感じた。もうひとつ聖句が
きた。それはマタイ伝9章35節より38節であった。
ミサ兄はふたりの兄弟たち、ヨナ兄とシカゴ兄を伝道の器として村里のあちこちに
出かけてもらいたいと思うのだが・・・との相談があったので、とにかくみんなで
その為にも祈った次第である。
今日のみ救いを求めている人々がいるので「洗礼」をお願いします、という。
幼い者たちが多かったが、若い母親たちも受けたのである。その数は12人。
年輩者もいたが両親の身代り洗礼も喜んで受けていたことは素晴らしいことだ。
帰りの道で、病人の家にみんなで行き田原先生に神癒のお祈りをしていただいた。
男の年寄りが庭でむしろの上に横になっていたのであった。祈りが終わると、にこ
にこして握手をして別れたのである。かつての主のお姿を思った。
電気も水道も全くない世界に、この素晴らしい讃美と祈り、そして輝く信仰の世界が
広がっている。そこには慈しみと許し、相互愛の楽しいのびやかな世界だ。
あすはこのマラウイ国を去ってゆくが、未来の神の国がいとも近いところまで来て
いるという不思議な印象を持ったのである。
次はこの11月に再びこの地を訪れよう。その時はマラウイの奥深くに福音が広が
っているはずだ、と確信している。主イエスさまのご再臨が近いのだ。
2004/4/12(月)
昨夜の夕食にも礼子先生は部屋から出られない。田原先生ご持参の「お粥」をいただ
いて、とても美味しいと喜んだが、まだレストランまではいけなかった。
わたしは夕食の折に先生方に色々とご意見をきいてとても参考になった諸点がある。
悩んでいたことはDOWAとLILONNGWEとの反目が顕著になってきていたことである。
曲がりなりにもこの国の首都に住む青年たちの気持ちがわかるから、なおさらのこと
LILONGWEを福音の協力者にしたいと思う。もっと言えばDOWAには出来ない形での
積極的な宣教ベースになることを願うのである。それにはどうすればよいか?
夜、寝ながら祈るのであった。あのチャ−ルスという英語の抜群の人、ミサ兄が身を
寄せているあの人がキーマンであると感じている。彼を力ある協力者にするにはどう
すればよいであろうか?夢の中でも考えていた。
朝になってある考えが来た。ダイヤモンドを研摩するのもダイヤモンドの粉では
ないか?あのCHRLESを立ててその周りには口煩い姉妹方を配置すれば、優れたご用
が出来るに違い無い。田原先生は「ある意味で金銭は魔物だ」と、言われていたが
はたしてその通り、善い働きをさせることも出来る。何しろ不思議なことがこの度の
出発まえに起っている。内海教会の村上三郎兄が「アフリカ教会設立感謝献金」と
銘打って5万円のご献金があった。さらには愛媛教会の曽我部アイ子姉がたびたびの
海外の聖会参加の為に使おうと思って両替して持ってゆき、持ち帰った米ドル約1千
ドルを主は捧げるようにと示され、わたしに持たせている。これをベースにした基金
を管理するリロンゲの組織を立ち上げてみてはいかがであろうか?
まずは金袋を預かる責任者のCHRLES兄、三人の婦人たちHILDA姉、ENIPHAR姉、
そしてミサ兄の妻であるCELINA姉である。
こうして教会の「俗なる部分」を興し、すでに興されている「聖なる部分」とを、
ドッキングさせてみよう。ミサ兄には妻と共に「聖なる部分」を担当させるのだ。
すると、肉と霊が現れて、うまく機能すれば・・・これは優れた神の器となるはずだ。
しかし、気をつけねばならぬことが色々とある。まず、「教会の施設」という目に
見えるものはなるべくないほうがよい。「教会の認可」を迫られることが必至である
から、これを避けるにはどうするか?宮良先生が言われた言葉を思い出した。
「教会員の家々で家庭集会」というアイデアである。一週間ごとに安息日礼拝を各
家々を巡ることで、目に見えない「教会」を形成できるし、別に「会堂」なるものは
いらないということも極論できるわけである。その場合に各々が「什一献金」を毎週
携えて集い、用意された献金箱に納める。その箱をあけるのがこの婦人たちで、帳簿
をその時につける。その捧げられた貴い「献金」からさらに什一をとって、大切に
保管するご用がCELINA姉になるはずだ。わたしが次に来る11月にはこれをわたしが
受け取って「教団監督・村井純基先生」のもとにお送りすることで、天と繋がることに
なり、神に届くわけである。「神の倉」という重要な存在にこのリロンゲの群れが
与ることができれば、天の祝福に与ることが出来る。こうして集められた「献金」
の十分の九はCHRLES兄が預かり、日々の教会の必要に歳出されるという仕組みだ。
主に「宣教活動」に従事する愛兄姉たちの必要経費がここから出てゆく。そして婦人
たちの帳簿にレコードされ、伝道の「報告書」が集まってくる。これにわたしが目を
通すということで、教会の全体像が把握できる。
朝食の時に、先生方にこうした概略を口にしてみると、「うん、それはいい方法だね」
と言って下さったので、一緒にお祈りをしたのである。こうして朝8時すぎには、
このRIVERSIDE HOTELをチェックアウトして、迎えのバスを待っていた。昨日のこと
ミサ兄に話したことは「バス代」のこと・・・一日借りて187ドル・・・たった3時
間かりても「同じ費用を払へ」というのなら、もう借りたくないから明日は小さな車を
用意してホテルにきてほしい。すると彼は先生、いくらなら払えるか?というから、
50ドルと返事したものである。
バスが来た。いっぱい聖徒たちが乗っているではないか・・・!
やってきたミサ兄がいうには、みんなも行きたいので小型の車というわけにはいかず、
これを借りてきました。100ドルですが、みんなで出し合って足りない50ドルは
補います。それはとてもよいことだ!みんなの顔をみるとみんなはとても元気である。
ただ、肝心のCHRLESがいない!びっくりした。聞くと彼はすでにわれらの向かう行き
先に行って待っているという。そこで「ハレルヤ!」と大声をあげてバスに乗り込んだ
わけである。バスの中であらかたのことをミサ兄に聞かせた。すると彼の顔がパッと
明るくなった。とてもよいことだ、というのである。
そこで聞いてみた。このCHRLES兄と知り合ったのはいつが初めで、どんないき
さつがあったのか?・・・という点である。すると2年ほど前にリロンゲの町で顔を
合わせて一緒に行って語り合った場所がこれからゆく「学校」である。そこは「先生
たちの溜まり場」であったそうだ。自分の信仰と福音にあずかった経緯、あのニャル
グス・キャンプでの「水と霊」のこと、真の全きキリストの福音のことであった。
CHRLESはCOLEDGEで経営学を教えている先生だそうだ。なるほど、彼の英語がひと
きわ優れているのはそのためか・・・!
われらは学校の教室に集まった。わたしたち4人に加えて他に15人がひとつと
なった。4人とこの15人が向かい合うように座った。まず、みんなでお祈りをして
から、田原先生にことばのお祈りをしていただく。
CHRLES兄を正面に座らせて「このリロンゲの責任者」ということで先生がたに手を
置いて祝福をして祈ってもらった。それから席順である。まず、ミサ兄が向かって左端で
その隣りがセリ−ナ姉。そしてこのチャ−ルス兄。彼がリロンゲ河での洗礼で一番に河に
入ったことも理由のひとつとなっている。その洗礼は2004年4月10日の朝10時
すぎであった。その時のメンバーが10名であったが、今日は全員ここに来ている。
聞くと、今日は「イースターの休日」の為に仕事が休みなのだそうだ。不思議なことで
ある。あの洗礼の順番に座席を決めて座ってもらった。
1) LUMANYA CHRLES M 1968 大学の先生
2) ZIMVEKA ZAPANJA M 1979 トラックドライバー
3) STAIN LIWONDE M 1980 トラックドライバー
4) WESTON NGOYANI M 1976 日用品卸商
5) HAWARDI LEFAN M 1980 高校生
6) HILDA PAUL SIMUMBE F 1977 美容師
7) ENIPHAR KADZA KUMANJA F 1977 中古衣料商
8) HANTISANI KACHARA M 1981 高校生
9) PATRICK DODOMA M 1979 料理人
10) JEAN SHBANI MULILO M 1966 伝道者
これ以外がDOWAのキャンプの人JAPHET LUKENDOと、CHRLES 兄の妻と、
キャンプの写真家DOMINIQUEである。
朝の段階で祈りの中に考えていたリロンゲの群れのあり方をみんなに説明した。
「献金箱」を誰かに作ってもらいたいというと、8番のKACHARA兄が手を挙げたので
お願いした。帳簿を用意して婦人たちにつけてもらい、金銭はCHRLES兄が預かる。
天の倉に納める「貴い什一」はCELINA姉が預かる。それからみんなに尋ねた。
安息日礼拝をいつするのが一番都合がよいか・・・という点である。するとすごいこと
には「土曜日の朝10時」ということであった。みんなそれでよいという。
「スワヒリ霊讃歌」を歌えるみんなであるが、これを基に「チチュワ語霊讃歌」ができるといいと話した。
それから、胸にしまっていた「アフリカ教会設立感謝献金」なるものなど1000ドル
をテーブルに出して礼子先生に手をおいて祝福を祈ってもらう。朝、宮良先生が捧げて
くださったものも、さらにはすでにこの国のKWACHAに両替していたものも付け加え
られた時、みんなが喜んで拍手したのである。婦人のひとりENIPHAR KADZA KUMANJAがこれを数え、記録し、什一をとり、それをCELINA姉にわたし、残りを
CHRLES 兄に預けた。
みんなに言った。みんなはこのマラウイ国の隅々までもこの福音をもちゆくために、
よく祈って主さまに導かれていってほしい。そこで出会った人に聖霊が降るように
祈り、病人には手を按いて祈ってあげなさい。葬式とか結婚式という式典はミサ兄姉が
主に祈って「主イエス・キリストの聖名」で祈ってとりおこないなさい。
病人に手を按くときに膏を塗って祈ってあげなさい。こういったことをみんなの前で
告げておいた。
CHRLES兄に立ってもらうと、彼は婦人達3人をセクレタリーといい、この12名の
全体をCOMITEEと表現した。彼は元気が出ていた。やるきになっている。初めから
理想的にゆくものではない、でも肝心なことは押さえておかねばならない。
最後にひとこと言ったことは、「民主主義ではなく神主主義」でゆくということだ。
これは旧約聖書に見られるイスラエルの政治形態であり、モーセとアロンを立てて
イスラエルを導きたまうた神のコントロールしたまうやりかたである。これに対する
この世の力は「教会認可」という当然といえる要求を我々に突き付けてくる。これは
民主主義の理念からくるもので、これにはまり込まない智慧を必要とする。その為に
われらはあのDOWAの群れ「家の教会」という形を相当長期に亘って維持してゆくの
である。人々の目には決して止まらないほどの微少な「神の群れ」を求めて建設して
ゆこう。小さな村々にあのDOWAのような群れを主に興してもらうのだ。あれならば
認可云々を迫られることは決してない。深く静かに「パンゴ−ノ」である。そして、
いつの間にかマラウイ国に1000以上の群れが興され、世の関係者たちが気付いた
時には動かし難い「天の勢力」が完成しており、「神主主義」という内容を整えた
「教会認可」が出来るわけである。
こう話すと、みんなの顔がひときわ明るくなり、大きな拍手が起った。
空港への道は快適であった。この国際空港は日本政府の援助で出来上がった素晴らしい
空港である。福音はすでにすっかりと用意されていることを肌身に感じながら、御霊の
力に満たされてわれらはかれらと別れを惜しんだ。何枚も何枚も写真をうつしたがった
彼らであった。CHRLES兄はマラウイ国の紹介を盛り込んだ地図を一枚くれた。先生方
には絵葉書を何枚か組みにしてプレゼントしたのは気がきいていると思った。
ミサ兄に言った。「CHRLES兄のシャツのドラゴンは気に入らないね。われらは人々を
脅迫するような団体ではない。やさしい相互愛の団体だから・・・もっと相応しい衣服
をつけてほしいものだ。」
おわり