モザンビーク伝道の記録
 
        
2003/11/26 (水)
 
CX-749 のキャセイ機がヨハネスブルグに到着したのが予定通りの朝6時35分。
そしてSWISSPORTの窓口でLAM (Linhas Aereas de Mocanbique)のMAPUTO往復を
買う。約US$ 260.- 今回は南アを素道りしてマプトを目指す。(実はこれは予期して
いなかったこと・・・国外免許証を持ってくるのを忘れた・・・!)
エネルギッシュな客引きは「生活の糧」に飢えている人々の「生命の発露」とみえた。
快晴。16℃で早朝の太陽はすでに初夏の輝きだ。
定刻の08:40にはもう飛び上がっていた。
Boeing 737-200
09:30 Maputo 着。29℃
 
タクシー代が・・・350,000 METICAIS  (1US$が23,700METICAIS)
「PENSAO MARTINS」は、なつかしい宿だ。
  TEL. 324926,  324930,  324935,  324938
  FAX. 429645
  E-MAIL:  morest@isl.co.mz
  Av. 24 de Julho, 1098  MAPUTO
 
受付の女性にも見覚えがある。
予約していなかったが、たった一つだけ部屋があるという。その112号室を頂いた。
行ってみると、以前に泊ったその同じ部屋であった。これはじつに不思議な気持ちだ。
荷物を解いて、洗濯もして、少し横になる。
 
2時前にUNICEFに電話をして貰う。491024が繋がった。
  1422 AV. ZIMBABWE
このモザンビーク政府の「難民」に関わる当局はUNICEFの直ぐ近くだとわかった。
 
入口近くで待っているたが、RWANDAの
NSHIMIYIMANA EMMANUELという人と話をしているうちに
福音となり彼は「受霊」した。水のバプテスマも許されたらよいが・・・。
       2:20
   1>  NSHIMIYIMANA EMMANUEL (From RWANDA BUTARE)
           E-mail: nshimiyimanae@yahoo.fr
       c/o  UNHCR
            P.O.BOX 1198 MAPUTO MOZAMBIQUE
 
MS LAILAさん(国連難民高等弁務官モザンビーク事務所)
  TEL. 490242   497976   FAX.  490635
彼女の話から推察すると、どうも別に政府当局があるらしい。
明日の朝にはその当局に話をしておくので、連絡先のホテルの電話番号を聞かれた。
やはり、こうして早めにMAPUTO入りしたのは正解であった。
 
まだ日が高かったので、歩いてホテルまで帰ることにした。
街路樹はジャカランダ、その色はピンクで、すでに盛りを過ぎて散り始めている。
「椰子の実」を青年がリヤカーで売っていた。一個が5,000METICAIS.
まずストローで中の汁を飲み終わると、この青年が鉈(ナタ)で四つに割ってくれた。
見事な白い果肉が約1センチほどの厚さで現れ、それをわたしが食べるために、
彼はこれまた見事に椰子の皮でスプーンを造ったのであった。
これで果肉をかじりながらホテルまでもどった。
これで充分、夕食代わりになった。
 
 
 
2003/11/27 (木)
 
ここはモザンビークの首都マプト、南半球の朝、早朝5時にはもう明るくなっていた。
小鳥達のさえずりで目を覚ます。
 
今日はウイリアム兄が南アのダーバンから昼の2時には着くであろうと予想しながら、
ホテルのレストランで朝食をとる。このシンプルな朝食込みで「一泊が約US$40」で
ある。感謝してゆっくりと食事をとり、終えてホテル入口にくると・・・・
なつかしいウイリアム兄がもうそこに立っていた。すごい大きな真っ赤なスーツケース
がそばにあった。いつものようにお互いがハグをして・・・安否を問うた。
わたしの部屋に入ってもらい、先の伝道の直後 9/20の深夜2時の自動車事故のこと、
その時の怪我の様子と回復のこと、そしてジョセフ・ヤエ兄の出発(9/25)のこと。
そして11/18の帰国のこと。ニャルグスとルグフの神の教会の様子など・・・、
時間の経つのを忘れて話してくれた。常に主イエス・キリストのお守りの中にあり、
奇跡と不思議が伴って、われらは守られていると・・・感謝の祈りを共に捧げた。
 
しばらくは、ベットで横になり休息をとってもらっている内に、
彼のもっている「スワヒリ霊讃歌」をコピーして、新しく5册つくった。
これはわたしが教会を出発前に探したのに見つからなかったものである。
JOSEPH YAYE兄がこれをニャルグスとルグフの神の群れの集会でみんなの前で歌った
ときにみんなは大変に驚き喜んだそうである。日本語の「霊讃歌」が少しずつであるが
スワヒリ語に訳されてゆく。こうして主は必要を満たしてくださるのだ。ハレルヤ!
 
このコピーをしてホテルに戻ってくると、受付の女性が「MS LAILAさん」からの
電話が入っていたと告げた。それはすぐに昨日のオフィスに来て下さいということだ
った。我らはタクシーで行くと、昨日のエマヌエル兄もそこに来ており、共に入る。
ニコニコとしたMS LAILAさんが出てきて、彼女はウイリアム兄にもこの政府の当局の
オフィスに行くように言っている。二人はその場所が分かっているらしく返事をして、
さっさと挨拶をしている。若しも私だけであったならば、MS LAILAさんが案内をして
くれるはずだったのだが、もうその必要はないのである。
そしてその場所に行く。歩いて10分ほどのところだ。
待たされて、結局一枚の紙に「申請のことば」を書くこととなった。
これはタンザニヤでも同じくこうして書類を作り、当局が承認を与えてゆくというわけ
であった。これでは許可を得るのにどうしても数日の猶予が必要なわけである。
当局の承認は明日の10時ごろ出るだろう・・・とのこと。
 
それからLAMのオフィス(IBIS HOTEL) にタクシーで行く。
30分ほど待たされて、何とか応対してもらうこととなった。
予約のある私のナンプラ行きはすぐにチケットが出来たがウイリアム兄には席がない。
11/29のビジネスクラスが一席あるが、何とUS$360.-ほどもする。
彼の意見を聞くと「自分はバスがいい」というので、そうしてもらうことになった。
 
タクシーで、そのバスの乗り場というところまで行ってもらう。
でも不思議なことに、そこにはナンプラ行きがない。
マラウイのリロンゲまでのバスが出るという。
それでは・・・と、ヤエ兄に聞いてみることになった。公衆電話をカードでかける。
元気なヤエ兄の声。彼は情報通である。彼のいうマーケットまで歩こうとするが、
我らにはさっぱりこの町 MAPUTO はわからない。遂に諦めてタクシーに乗る。
途中でここの国の通貨を今のうちに手に入れておかねばならぬと気付き、
両替えの店にゆく。空港と同じレートであった。
マーケットへの途中、ウイリアム兄が運転手にナンプラ行きのバスのことを言うと、
「何だ!それなら自分が知っている」といって、方向転換をしてそこに連れて行った。
そこは確かにバスの発着場のようであった。大きな字でこう書かれていた。
  Tricamo Transportes Terrestres
                  407514
料金表には MAPUTO-----NAMPULA      1,500,000 METICAIS
とあった。大体の概算で、US$ 60 ほどであるから、この国の人には大金である。
丸まる三日はかかるという。
事務所の女性にウイリアム兄が切符を申し込むと、何と!来週の水曜まで席がないと
いうのだ。びっくりしてしまった。
 
やむをえない・・・高いけど明後日の飛行機、それもビジネス席を確保せねばならぬ
か・・・・。タクシーの運ちゃんはしきりに言うのだ。「朝6時発のバスが確かにある
から、そこへいってみよう・・・」と。半信半疑で其処に行く。確かに広い一面に、
バスが並んでおり、人々が大きな荷物をさげて行き来する。
ナンプラ行きのバスというが、何だか怪しい。ウイリアム兄が「先生、祈って下さい」
と言い残して、そのバスの方に出て行った。国が動き出してまだ間もないからであろう
自然発生的に交通網が出来つつあるという感じだ。
色々とウイリアム兄がバスの人たちと交渉している様子が見えた。タクシーの
運ちゃんもいろんなジェスチャーで会話している。そして二人ともニコニコとしながら
戻ってきて、明日朝6時にはこのバスが出発をして三日後の11/30の深夜には
ナンプラに着くのだそうだ。だから明日は5時にはホテルを出て、ここにきて、バスに
乗り出発するということになった。ハレルヤ!
そしてホテルの前で、運ちゃんのあだなが決まった。「ミリオン」である。
1,000,000 METICAISをわれらに要求したからである。
 
私はその11/30の昼12:30には飛行機でナンプラに着くことになっている。
では、どこで落ち合うようにしたらよいであろうか?
二人とも初めてのナンプラだから、とにかく落ち合うホテルを決めよう。
そういうわけで「電話番号問い合せ」で、ナンプラ市内にある「TROPICAL HOTEL」
(06212232) が決まった。果たしてどのような道のりが私たちの前にまっているので
あろうか・・・? きっと、依り頼む私たちの祈り願いに勝るよいことをしてくださる
主イエスさまであろう。早めの夕食をホテルの隣のレストランでとって部屋に帰った。
 
 
 
2003/11/28 (金)
 
うっとうしい雨空が一面に広がっている。
まだ薄暗い4時にはウイリアム兄が起き出してゴムマットの空気を抜いている。
用意が出来たので、霊讃歌を二曲と新約聖書の一ケ所を読み、共に霊言で祈った。
5時ちょうどにホテルの玄関に出てみると、今ピタリと昨日の運ちゃん「ミリオン」が
着いたところであった。真っ赤な大きな荷物バック・・・これはこのたびのナンプラ
伝道のために、ダーバンの兄弟たちが下さったものだという。彼らは自らが貧しい中に
あっても、導かれてよき捧げ物をする。これを見て、主イエスさまを崇めるのである。
こうして彼は明るく元気に出発していった。三日間のバスの旅なのに、少しもひるんで
いない。そこに逞しい伝道者の姿をここに見た。先ほど開いて読んだ聖書は使徒行伝
20章7〜38節であった。そこはパウロ先生の伝道記録の中で特に輝くところである。
 
彼を送りだしてからこうして思い出しながら記録をとる。そして朝7時の朝食にゆく。
昨日の約束では朝の10時にモザンビーク政府の当局にゆけば、その時に、許可書が
もらえるということだった。少し遠いのだが、運動がてら歩くこととした。ピタリと
その建物に着いたのが10時。でもどうも遅れているようで、呼ばれて奥の部屋に通さ
れると、がっちりした大男が説明をする。「キャンプに入るのはあくまでも宗教活動の
為であり、決して写真やビデオをとらないように・・・」という。わたしはすぐに
承諾した。勿論、そうした機材は何ももってきていない。おもむろに彼が言うには
書類をこれから作るから、午後2時に再びここにくるように・・・。
かつては社会主義の国であったモザンビークである。そこに毛沢東通り、金日成通り、
レーニン通り、マルクス通り、等など・・・歩きながら、感慨がひとしおとなる。
 
そうしたわけで、4時間というこの時間をどう過ごそうか・・?と、主にお祈りをして
道を歩く。そこを出て、足が向いたのは先に行った国連の事務所のある辺りであった。
美しいブーゲンビリアが色とりどりに垣根を飾り、ハイビスカスの大輪が鋪道に顔を
覗かせている。よくもこんなにみごとな色彩が色々とあるものだ。もう季節は真夏と
いうことか・・・。 大通りを一つ越えると、そこは各国の大使館の立ち並ぶところ。
ドイツ大使館の斜前には二人が座れるコンクリートの椅子が鋪道におかれていたので、
そこにいたガードマンたちに挨拶をして、腰掛けさせてもらった。
 
この国はブラジルと同じようにポルトガル語を公用語としている。
彼らは穏やかな人達であった。ちょうど年輩の人だけになった時に、話し掛けてみた。
それは変なスペイン語もどきであろう。神さまにお祈りをすると、聖霊がいただけると
いうことが・・・何となく分かったみたいで、パッと顔が変わった。お祈りをしてあげ
るからここに座りなさいとゼスチャーでいうと、スーと座った。ハレルヤ、ハレルヤ・
・・と祈りが始まると、こうしていつもの聖霊待望会となった。異言が出てきた頃には
傍にはもうひとりが興味深く見ていたので、その先の人には席を譲ってもらって座って
もらった。もう真剣な顔で「ハレルヤ」を言い出した。間もなく異言が出始めた。
その頃には向こうの鋪道のガードマンもやってきたので、その若い人にもお祈りを勧め
ると、素直に祈りだしたので、こちらも大変に嬉しくなった。名前を書いてもらった。
 
       11:30
   2> SANTOS LOAPIS  BAQUET     (24/4/1963)
       11:40
   3> SERGIO COFIANE TFANGO     (15/4/1979)
       11:50
   4> PORTAGIO JOAQUIM MANUEL (25/6/1972)
 
この三人が豊かに受霊したので、全き救い「水と霊」を何とか話そうと・・・
何でか良く分からないうちに、彼らはわたしの今のホテルを聞き出して、あすの朝に
ホテルにゆくといいだした。そうだ。ホテルにはプールがあるので、洗礼が出来ると
いいなーーーと思い、これもジェスチャーでお勧めをした。朝の8時頃には行きますと
言うのである。果たしてどうなることであろう・・・?
 
その頃から雷の音がしだして、雨の気配がする。彼らと別れて、つぎの通りに曲がった
ころから大粒の雨が降り出した。それも急であったので、街路樹の陰にしばらくいたが
いよいよ強くなりだしたので、ある家の垣根に近いところに身を寄せた。その時である
その家の男が出てきて自分の家の車庫のところに入るようにと手招きをしてくれたので
入らせてもらった。雨の勢いはいよいよ激しくなっていた。その男の人とひとりの青年
とが何か話し込んでいるが私には何もわからない。
 
間もなく、よく冷えた甘い果物(外側が焦茶色の堅い皮、でも中は甘い白色の果肉)
これはカンボジアでよく食べた南国の果物だがこれを皿に入れて持ってきて「どうぞ」
という。嬉しく感謝して頂いた。ビニールトタンの隙間から筋を引いて落ちてくる雨。
この家の庭の大きな椰子の樹には、薄く色付いた丸い大きな実がたわわになっている。
南国の町マプトである。こうして町をぶらりと歩いても襲われるという危険は感じない
で歩くことが出来た。この治安のよさは特筆すべきことだがこの国の中部には危険地帯
があるとタクシーの「ミリオン」が言っていた。政府がマプト近郷のボボレ・キャンプ
を閉鎖 (2003/3/31) して遠い北部のナンプラにマラタニ難民キャンプを設けたのも、
きっとこの治安の悪化を未然に防ごうとしたからと思えるのだが・・・。
 
長かった内戦の傷跡はいまも市民の生活に深刻な影をおとしている。まずは、これと
いった仕事がない。だから一般の購買力が極端に低く、道端の物売りの悲しみが胸に
迫る。首都マプトにしてこんな様子なのだから、地方の都市ナンプラに移されるのを
憂いた難民たちの気持ちがわかる。でもあの時、ナンプラに主を見上げて行った聖徒
たちに祝福が天からきているのである。UCNHRのMS LAILAさんの話によると、現在
キャンプの人口は約4,300人、来年には5,000人に達するはずとのことである。
 
   UCNHR      Alto Comissonado das Nacoes Unidos    
                   R: Jose Almeida
 
どのようにして国の産業を興すか・・・まず農業は・・・そして教育は・・・
そんなことを考えながら雨足が弱まるのを待つしばしの時、こうした立派な家に住む
この人達は果たしてどんな人達なのだろう・・・?とてもよい、穏やかな顔つきをして
いる。小降りになってきたし、時も1時半になったので、挨拶をして立ち去ろうとした
その時「ハレルヤのお祈り」をするチャンスが訪れた。二人は手を合わし「ハレルヤ」
と、主を讃美してくれたのであった。お礼の気持ちで、握手をしてバイバイ・・・。
 
   家の所在は 214  Av. Lucas E. Kumato
 
政府当局のオフィスはそこからは歩いて5分のところにあった。
大柄の係官が、なにやらしきりに難民たちに話している。難民のままでこの首都に滞在
させることは出来ない。是非ともナンプラにて日々の生活を維持し、そこで仕事もして
帰国の日を待つべし・・・という話であった。
この私には「少し待って下さい」とのひとこと。
そしてまもなく秘書室に呼ばれ、立派にタイプされた書類をいただく。これがキャンプ
「入域許可書」というものであった。それはやはりポルトガル語で書かれていた。
なるほど、ただし書きには「写真を写したり、ビデオを撮らないこと」とある。
 
雨上がりの道を楽しく帰った。こうして無事に「入域許可書」を手にナンプラに向える
ように導いて下さった主イエスさまに感謝がわいてきた。何にも「道」があるのだ。
ウイリアム兄はいまはどのあたりを進んでいることであろうか?よき助け手もこうして
用意してくださった主イエスさまである。きっとこの度の伝道でも栄光をあらわし、
みごとに栄光をとってくださるに違いない。ハレルヤ。
 
    栄光をエホバにかうぶらせ 
    その頌美(ほまれ)をもろもろの島にて語りつげよ
               (イザヤ書  42章12節)
 
ちかくの店でミルクとジュースと水を買ってきて、かるい夕食を部屋でとった。
夜はあの素晴らしい「CD 霊讃歌」を聴く時間であった。
 
 
 
2003/11/29 (土)
 
空は雲に覆われているが、雨はなくそよ風が心地よく吹いている。
朝4時、もうすっかり目がさめてしまった。
さあ今日は安息日である。主ははたしてどのような一日にしてくださるであろうか。
 
昨日のガードマンたちがやってくることを期待してロビーで待っていたが、来ないので
こちらからあの同じ場所に行くこととした。ずっと遠回りして海岸をみるコースを歩
てゆく。そこは大使館や大使館員の住宅が軒をならべる特別地域のようであった。
 
そして、そこには新しいガードマンがひとり・・このひとにPORTAGIO JOAQUIM
MANUELの名前を見せるとさっそく向かいの家に向かって声をかけてくれた。
PORTAGIO は手を振りながら出てきた。そして一緒に異言で祈る。パッとそのあたり
の霊の空気が変わったので、この新しい人にも聖霊待望が出来たしだいである。
 
     10:30
   5>  PEDRO  VICTOR  LUCIO  (3/1/1964)
 
再び、ホテルに戻る。
こうして足で踏み締めながら歩くことで町の姿が次第に明瞭になってくる。
部屋では適当に買い込んでいたミルクやジュース、ビスケットで昼食にした。
 
ノックする音が聞こえたので出てみると、見知った顔の・・・
NSHIMIYIMANA EMMANUEL (From RWANDA BUTARE)と、若い妻と背中の男の子
であった。家からの道のりが遠いのでこんな時間になったと話した。
幸い手元には「スワヒリ語の霊讃歌」があったので、その24番を一緒に歌った。
「あがない (UKOMBOZI)」という讃美はこの9月にもよく歌った曲である。意味がわか
れば、それは救いの本質を簡明にしているので、「水と霊」の救いそのものを捕らえる
事ができる。聖霊待望会に入り、この若い妻のために我らは祈った。
 
       1:30
   6>  MARI CHANTAL  (5/9/1980)
 
聖霊を受けた後にも、またもう一度「あがない」を歌ったら、とてもスムーズに歌えた
のである。では次の「洗礼」はこのホテルのプールですることにして、洗礼着を携えて
下に降りて行った。プールの責任者を見つけてこの三人の洗礼の為の許可をもらい、
100,000 METICAIS 札を一枚渡した。折も折り、二人の少年たちの家族がやってきて
プールの傍に陣取り、二人は早速に水の中で戯れていた。 まもなくあたりの動きが
違ってきた。テーブルが用意され、プールサイドで何か飲み食いがはじまるという気配
である。洗礼を受けるこの三人の用意ができてきたころには、人の数も次第に増えて・
・・まず、気付いた時にはEMMANUELがさっさと水に入ってゆく。私も洗礼着で続
て入ったその時である。「そんなものを着て何をする気だ!」という大声が聞こえた。
ホテルの上役の人らしかった。EMMANUEL は早速に応えていたが、素直に引き下がる
ことにした。救いの為にはよき時と場所を与えられねばならない。
 
再び着替えなおしてから、彼はすまなそうに言うのであった。「あすの結婚式の為の
準備を急いでせねばならない。ごめんなさい。先生がナンプラから帰ってこられた時に
受けに再び来ます。」そうだ・・・我らは「蛇のごとく聡く、鳩のごとく素直なれ!」
である。
 
彼らと別れたあと、部屋に戻りしばらくゆっくりと「CD霊讃歌」を聴くのであった。
夕食は通りがかりに見たあの広い庭のレストランに行ってみようと思い付き、少し足を
のばした。そこは看板も出ていないが客はすでにあちこちに入っていた。一人の男性客
がいて彼はライスにチキンとサラダをこれから楽しもうとしていた。わたしは相席して
もいいですか?と聞くと、「どうぞ」と気持ちよく承諾してくれたので、向いに座り、
同じものを注文したのである。話が弾んだ。この人はコンサルタントでUGANDAの人で
ある。この国のある会社から招かれてやってきている。UGANDAは教育水準も高く、
このところ政情が安定していることもあり、多くの難民たちが押しかけて住み着いて
いるそうだ。このよき福音を語るよきチャンスが与えられ、彼の心も開かれて受霊した
のであった。
 
       4:00
   7>  PETER DRANI OYUGA
             E-mail:  podrani2003@yahoo.com
             Uganda:  00256-77-551217,   00256-71-551217
             Mozambique:  00258-82-277634
             BEATRICE(篤信の母)
 
ナンプラから帰ってきてから是非、電話をして下さい・・・もっと話を聞きたい・・・
という彼であった。ハレルヤ。
 
 
 
2003/11/30 (日)

夕べの風で雲は飛んでしまってすっかりと晴れ上がり、快晴の日曜日の朝を迎えた。
「ミリオン」はなかなかの運ちゃんである。そうでなければこの大変な国で生き延びる
ことは難しかろう。昨日も私を探しにプールまで来て、明日の空港ゆきを聞きに来て
いた。うっかりと「7時ホテル出発」と言ってしまったが、よくチケットをみると9時
までに空港に行けばよかったので、「ミリオン」にそれを知らせねばと思っていた。
朝6時45分であった。部屋をノックしたのが彼であり、改めて「8時30分」と告げ直し
たわけである。タクシー代はいくらか?・・・と聞くと、「150」と言ったので、
「200」と言い返すと、嬉しそうに「200」と言った。

このホテルはなかなかの盛況で(とにかく部屋数が少ない)、ナンプラからの帰りの
予約(12/9~11)も最後の1部屋しかなかった。わたしの日々は何だか蟻の這うよう
な動きだが、ありがたい主イエスさまのみ恩恵がつきまとっているのを感じている。

    
 
われ東より鷲をまねき
    
遠国よりわが定めおける人をまねかん。
    
我このことを語りたれば必ず來らすべし
    
我このことを謀りたればかならず成すべし。
  
             (イザヤ書 46章11節)


 
From the east I summorn a bird of prey;
            
from a far-off land, a man to fulfill my purpose.
      
What I have said, that will I bring about;
            
what I have planned, that will I do.
                                                          ( ISAIAH  46:11 )


 
「ミリオン」はきっちりと8時30分にやってきた。霊言で祈ることが出来るということ
は実に楽しいことである。聖霊の力が臨むのであろう・・・理屈ぬきで心が晴れ晴れ
するのを感じる。空港は先日のバス発着場の方面であった。12/9のナンプラからの
迎えをやはり彼に頼んだら顔をほころばせて喜び「約束」をしてくれた。この人も是非
救われてもらいたい人となった。もうチェックインの時間で受付が始まっていた。
重量が20Kgピタリにおさまったので文句無しである。その分わたしの手にはズッシリ
と重い袋がよけいにあるわけだ。

待合室でほぼ2時間ばかり待って、あの同じLAM機 (Boeing 737-200) に乗るのだが
シートがフリーなのは不思議な感覚である。別にそれでも一向にかまわないわけで
ある。そして、見事に満席となって定刻に飛び立った。
そばにはニコニコとしたMS LAILAさんの小柄な姿があったのには驚いた。
「ウイリアムはどうしたの・・・?」と聞いたので、「バスで出発しましたよ」と返事
をした。

バスの旅はほんとうに大変だと思う。
空から見たモザンビークの国土にはケニヤに良く似たサバンナ地帯がひろがっていた。
ナンプラに近づくと高さ300mほどのツルリとした岩山があちこちとランダムにあって
面白い。真夏の陽気があたりをたちこめて、展望台からは人々が鈴なりにこちらを見つ
めている。果たして私を待っている人がいるであろうか・・・? 最後ごろにわたしは
タラップを降りたのだが、どうも青年達の三人が一斉にわたしに向かって手を振って
いるではないか!でも荷物を受け取って出たのは何とわたしが最初であり、なつかしい
コンゴの特徴ある顔がおが三つ、ニコニコとしており、その中でまずマラウイのミサが
抱きついてきた。
「水と霊」で一つになった神の子たちはやっぱり違う・・・と感じた。
 


A)  ALIMASI  OMARI   (マラタニ・キャンプにある教会の責任者)
   B)  WILOMDJA  LAWI  (よき教会の助け手の青年)
   
C)  MAYAYI  MISSA   (マラウイのザレカ・キャンプの教会の責任者)
                    CELL:  082694797 (モザンビーク国内)
                    MALAWI     CEL:  00265-8315570
                                    DZALEKA  CAMP  TEL: 265-9201309
                            P.O.BOX  1530  LILONGWE  3  MALAWI


 
われわれはタクシーで「TROPICAL HOTEL」に向かった。
予約していないでここを「待ち合わせ場所」にしたのはまずかった。三ツ星のホテルで
やはり満室だった。もう一度タクシーを呼んで、ほかのホテルを探す。「ブラジリア」
というホテルもあったが、ここもダメ。遂に看板も読めない「HOTEL LURIO」213号
におさまった。「TROPICAL HOTEL」にメッセージを置いておいたので、ウイリアム
兄はここにやってくるであろう。さて、「水のバプテスマ」をどこでやるか・・・?
キャンプには川はない。この町にも川はない。BRO. MAYAYI  MISSA はプールが近く
にあるといって私をそこに連れていった。実に頼もしい戦友である。かつてマラウイで
15人が救われたことを話してくれた。その中にはケープタウンから今ダーバンに来て
いるEBUELA MBUBUCH兄もいるわけだ。

またも規定通りプール使用の申請書を書いた。あすの朝8時にはこのプールの責任者
ミケリトさんに会いに行くことにする。

このナンプラの街路樹や電柱には白のペンキに赤のあのマーク、エイズ撲滅を目指した
キャンペーンが張られている。政府の危機感がこの分野に突出しているのであろう。

次に、ミニバスを貸してもらう段取りをつけねばならない。町にでて借りる車を探す、
突風が吹き、砂嵐が吹き付けると目をあけられないほどだ。大きな音がするので見上げ
ると、何と!鉄道列車が通ってゆく。それはひどいすし詰めであった。
ホテルのロビーに腰掛けていると・・・挨拶をして入ってきた人がいた。
MAYAYI  MISSA兄が前から伝道していたこの国の人は「トヨタ・タウンエース」を
持っているが、運転手を雇い、仕事をさせている。19:00ごろにはその車を持って来て
お見せしましょうという。その人も、受霊した。
      
 
17:00
   
8> JOSE NUVUNGA JUNIOR   Tel.  216183
            Rua das FPLM  N-141-   escp  NAMPULA 
     P.O.BOX  100  NAMPULA
     Direccao Provincial Dos Recuisos Minerais e Energia
     Tel.  06-212104
     Cel:  08-2428567


 
何故かその後が続かず、誰もやってこず20:00まで待った三人もキャンプへ帰って
いった。雷が鳴ってそのあとに雨が降り出した。
ウイリアム兄もどうしたわけかホテルに姿を現さない。バスが予定通り動かなかった
のであろうか・・・?このホテルは5階建て、でもエレベーターは動かず、電話もない
とは実に驚きだ。シャワーは水しか出ない。しかしである。ホテルマンのこの人は
わたしが尋ねる場所まで親切に連れてゆくし誠心誠意の応対である。朝はボンディア、
夕べにはボアタルデ・・・と、にこにこしながら挨拶をする。
 



2003/12/1 (月)


夜半の雨も上がって、朝がやってきた。でも空はどんよりとしている。
ホテルのテラスから右手を見ると、広場があるが、昨日の日曜日は恒例の市場が開か
れていたところである。赤い土が一面に広がっている。正面の家の庭には大木に紅の
色をした花が咲き誇っている。アフリカン・チューリップという南国の樹であろうか、
いや違う。紅色は同じだが、多くの花の一つ一つは小さい花びらだからだ。ケニヤで
よく見たジャカランダの別種かもしれない。ここでは派手な紅色である。
目の前の大道りの街路樹はマンゴの樹で、遠くには椰子の樹が望まれる。
 

この部屋には背丈ほどの扇風機がある。大きく「CROWN  JAPAN」と名前を打ち出し
ているが、どうも造りが粗末な感じである。裏の小さなワッペンをみると「MADE IN
  TAIWAN」と申し訳なさそうに印刷されていた。


 
さきほどから箒の音がサ-サ-としていたが、事実、広い道路もきれいになっている。
マーケットの掃除か? この地方都市はそれなりの文化が根を張っているのであろう。
あとで聞いたことだが、今日この町に「JOAQUIM CHISSANO 大統領」が来るという
ビッグ・デイなのだそうだ。 なにはともあれ、今日はとても良い日になりそうだ。

 
7時には「タウンエース」が来て、8日間ドライバー付きで借りる事が出来た。燃料は
こちらもちで、US$480.-という約束が成立。次にプールを洗礼の為に使う、その許可
を貰うためにその事務所に行った。この国は何でも書類なのだ。MAYAYI  MISSA兄が
ポルトガル語で昨日、適当に書いてくれた。 嬉しいことである。

それにしてもあのウイリアム兄はどうしたことであろう。影も姿もない。

 
心配の一切を主イエスさまに委ねて、目指すMARATANE CAMPにゆくこととなった。
09:45出発。昨日の三人と共に向かう。道はかつての難民キャンプそのままである。
確かに川はない、ではどのようにして「水」を確保しているのであろうか・・・?
50分ということだったが、距離は30km程と思えた。
 
ゲートは一筋の紐、ただそれ
だけ。携行している許可書を見せると、すぐに許可が出た。
暫く走ると警察の建物で、MAYAYI  MISSA兄がそれを提出して「OK ! 」となった。

2000年2月に、ここに入った兄弟たちが祈って確保したよき場所に、今年8月に、今の
会堂ができあがった。天井はビニール製で3本の木の柱と竹と土で立ち上がっている。
約30人の労力の奉仕があり、少しづつの献金(支給された麦粉を売って現金に替え)
もあったそうだ。ハレルヤ。3間と7間の大きさである。どうもこの教会の責任者が・
・・ALIMASI  OMARI愛兄のようである。きょうは竹の椅子に50人ぐらいが座って
いた。これは家族単位の群れである。
 
彼らの歌う讃美は大きいが、異言の祈りはまだ
乏しいというのはNYARUGUSUからのことだ。
今のところあそこから移ってきたそのままの形が見えるわけである。
通訳をしてくれている愛兄は・・・LUPANDE WELIA MWENEBITU  である。
「霊讃歌」も日本語のままで意味もわからぬままに歌っているのは一つの特徴である。
かれらの歌う「キベンベという部族語」の讃美は実に燃えるような勢いである。 
讃美の指導をしているのは・・・・今日は、MWENEBATU  JAMES 兄であった。
献金の歌は何と・・・「癒されたり」で、次々と捧げ、最後は頌栄と祝祷で終わった。


 
ちょうどお昼だったので、教会の中心的な人達と一緒に昼食となった。
お米のごはんにスープ、そしてチキンがひと皿であったが、みんなで分け合って
頂いた。おいしかった。最後に飲み物は、ソフトドリンク・・・わたしはファンタで
あった。
 
ちょうどその時であった。雨が音をたてて屋根をたたき始めたが、外には突然
「黄色の日本車」が止まった。誰かが言った。「ウイリアムがきた・・・!」と。
驚きと共に、小柄な彼が両手を広げてハレルヤ!と入ってきた。疲れている様子は見え
ない元気ないつもの彼である。みんなが再び、教会の中に入ってきたので、ひとこと
証しをしてもらった。交通事故で死の危険を通ったが主イエスさまに守られて、元気で
ダーバンを出発して来れたこと。バスではマプトからずっと遠くの町に連れてゆかれ、
ようやくこの正午に、TETEから満員のバスでこのNAMPULAに着き、タクシーで教会
を尋ねて来てみると、前田先生の車が見えたのでとても嬉しかったことなど・・・。


 
それから、洗礼を受ける人達とその家族を乗せてわたしたちは教会を後にした。警察
の前で初老のひとりが降りた。何と「おまわりさん」がずっと集会に出ていたのだ。
なんだか不思議な人が教会にいるものだと思っていたが、そうだったのか・・・!
プールに着くと、チケットをひとり当り50,000METICAISを払って入る事が出来た。
二人の少年(ひとりは右手にひどい障害をもっていた)と三人の幼児であった。 

 
1)  VENASE  ASUMANI     (2/2/1998)      M
   2)  JEMS  EBRAHIM        (9/8/2002)      M
   3)  KALUMONA  OMARI     (12/12/1979)   M
   4)  LAMBERT  ANZURUNI    (22/3/2002)    M
   5)  AMISI AYA              (1991)         M


 
こうした洗礼式をはじめて見るのであろう、珍し気に人々がこの「子供用のプール」に
寄ってきた。救いの業はいつも楽しい、喜びの時である。遂に主イエスさまは道を開い
て下さった。見たところ何もないようだが、「天の喜び」はとても大きなものである。
祈りのあと、コンゴの歌、喜びの歌がみんなの口からほとばしり出てきた。ハレルヤ。
彼らは喜び、手を振ってキャンプに帰ってゆく。
われわれはホテルに入り、ゆっくりと休憩することとなった。ウイリアム兄は霊讃歌の
カセットを楽しんで聴き、そして歌っている。

                                 
 
2003/12/2 (火)
 
朝6時、激しく外には雨が降り注いでいる。伝道が今日も祝されるように祈らされる。
ウイリアム兄は良く寝られたというが、体がとてもしんどいようであるから、足の裏
を揉んであげた。若いということの素晴らしさは元気が持続すること、また回復力の
早いことがその特徴だ。
 
手元の現地通貨METICAISが無くなってきたので、朝のうちに手にいれておかねばならない。三ツ星の「TROPICAL HOTEL」に行ってみたが、全然手持ちがない。言うには「インド人の店に行ってごらん」。私たちのホテルのすぐ傍のパン屋さんの主人はインド人で、ちょうどお金の勘定をしているところであった。何とタイミングのよいこと!さらには1US$が24,000METICAISというからこれが、売り買いの中値なのであろう。にこにこして「また替えに来てくれ」というのであった。こんな人生もあるのだなーーーと、インド人を見てものを思うのである。
 
ひげを立派にはやして、全世界で見事な商売人として根を張っている。彼らは長らく
英国の植民地として辛いところを通ってきたが、身に付けた「英語力」を充分に生か
して、いまやコンピューターのソフト面においてもすごい力量を見せている・・・・。
今日はそのパン屋さんでパンを仕入れて、教会にもってゆくことにした。
200,000METICAISというと約1,000円ほどである。大きなビニール袋にして4個で
あったから、店の人はウイリアム兄の姿に不可解なものを感じたようである。
 
さて、次第に雨が小振りになってきたころミニバスがやってきた。そこにはちゃっかり
とMAYAYI  MISSA兄がすでに乗っている。
 
出発はちょうど8時であった。途中の道で、事故の現場にさしかかった。ひとりの婦人
が頭から血を流して倒れている。車に積んでいた多くの荷物が地面に散らばっていた。
MAYAYI  MISSA兄とWILLIAM MZALIWA兄が真剣な顔をして、あの人の為に祈って
あげてほしい・・・という。それは「神の愛」の世界である。携帯していた「膏瓶」を
手にその人のところにゆき、主イエス・キリストの聖名によって祈ることが導かれた。
すごいことを主はなさるものだ。それからすぐに彼女は車に乗せられて「救急病院」に
運ばれて行ったのであろう。帰りにはもうすっかり片付いていた。
 
キャンプの入口の近くで道路工事にゆくMUSABWA  LEON兄に会った。WILLIAM兄が
降りて抱きついていた。彼はあの「TWELVE BROTHERS」のひとりであった。
 
教会に着くとひとりYUSUF AMISI兄が迎えてくれた。彼はタンザニヤでの器であった
が滞在許可がないことから当局に追求され、苦しめられ夫妻でここにやってきている。
暫くして、讃美をもってみんなの集まりを待つうちに、次々とやってきた。それもふり
しきる雨の中である。今日は子ども達が多くいたので、YUSUF兄に出席の子どもたち
から順次に名前を記録してもらった。記録ノートをみると、子ども達の総数は51名、
大人の総数は66名であった。
 
教会責任者のALIMASI愛兄が聖書を開けて、みんなに語っている。
   1)  ヨハネ伝 14章15〜17節
   2)  ピリピ書 4章6〜7節
 
導かれて、「病いのある人にお祈りしてあげましょう」と言うと、次から次に出てくる
「神癒祈祷」を求めて、出てくるのであった。そのたびごとに祈りが豊かになるように
と、祈って差し上げると、たいていはよく異言がでるようになってくる。
 
続いて、WILLIAM兄に証しをしてもらった。神の奇しきお助けを蒙ったことから、
詩篇の91篇がほんとうにありがたく感じたのであろう。しきりと顔を輝かして語って
いた。かれの証しの個所は、英文でこう書かれている。
 
    "Because he loves me," says the Lord, "I will rescue him;
    I will protect him, for he acknowledges my name.
    He will call upon me, and I will answer him;
    I will be with him in trouble,
    I will deliver him and honor him.
    With long life will I satisfy him
    and show him my salvation.
 
正午になって今日も食事が出た。昨日と同じお米と肉とスープであった。みんなには
パンが配られた。おなかが一杯になると本当に幸せである。まだ今のところ聖餐式と
いう段階ではない。それは将来、監督先生にしていただくことが幸いであると思う。
では今日の洗礼はどうなるであろうか・・・? でも、いっこうに現れてこない。
聞こえてきたのは、ある家庭の幼児がひどい病いの為に入院中なので祈りを求めている
ということであった。「さあ、行きましょう」という声がしたので車に行くと、もう
そこには今日の洗礼の人々と、その関係者15名ほどが乗り込んでいた。発車すると、
どっとかれらの歌声が弾けた。町までの50分間は休む間もなく、次々と讃美が続く。
男も女も声を張り上げて体を揺すっての大合唱なのである。
 
病院はこの町一番の大病院で、見舞客はしっかりと時間が制限されている。
扉の前に立つ看護婦の説明でわれらはほとんど無理と思えたのだが、医者がやってきて
少しならよい・・・と言って許可してくれた。ハレルヤ。ひよわな赤子を抱えた母親の
不安げな顔とそのピクピクと訴えかけていた赤子の「心臓の鼓動」が印象的であった。
膏を塗っていのり、ヤコブ書5章を読み聞かせた。主イエス・キリストの聖名に我らは
ひたすら頼るものである。
 
それからプールに行く。今日は利用者が少なくわれらが行くと、とても有り難いお客だ
と歓迎している様子がうかがえた。今日の洗礼者の名前を書いておく。
 
     14:30
   6)  OMARI  J.  MFAUME           (6/5/1974)            M
   7)  ADIDJA    AMADI              (12/10/1970)        F
      この婦人は責任者ALIMASI OMARIの妻である。
                 身代り・・・父)AMADI  SELEMANI
                       母)TATU  HIDI
   8)  AMADI  ALIMASI              (20/2/2000)           M
   9)  TAOSE  ALIMASI              (31/10/2002)         M
   10)  MARCEL  KAHINDO           (28/12/1998)          M
   11)  ALINOTI  MOZART            (17/4/1984)            M
   12)  DEWA   USENI                (24/3/1984)            M
   13)  AUGUSTIN   KYAMBE        (15/7/1984)            M
   14)  PATRICK  SHABANI          (16/2/1984)            M
 
LAMのフライトの再確認が必要だと言われていたので、昨日はオフィスが閉まって
いたし、今日は3時まで・・・と言われて入れてもらえなかった。
ウイリアム兄がキャンプから戻ってきたのが18:00少し前であった。NYARUGUSU以来
の再会に、友人達は彼からいろいろと聞きたいことが一杯あったようで、彼を離さなか
ったのだそうだ。
 
 
 
2003/12/3 (水)
 
今日はお天気がよい。
朝の早い時間にWILLIAM兄が「夢を見た」と言って、マタイ伝の18章を開けたので
読んでいる。特に前半である。はたして、主は今のわたしに何を求めておられるので
あろうか・・・?と祈り考えている。「水と霊」をして差し上げるこの業には、何の
憂いも起らないのだが、あれもこれもと求めてくるものにどのように対応すべきかを
祈らざるをえない。ダーバンのことを一つとってみても、拠点となる「家」が欲しい
ということがさしあたって求められることである。
 
こうした一切のことをも、我らの主イエスさまに常に導いていただかねばならない。
朝7時30分には出発した。
 
今日は行く途中で、マンゴーの実を売っているのが見えたので、これを持っていって
あげることにした。運転手は昨日よりお腹をこわしてしまい、車のオーナーが運転の
ご用をしてくれている。この彼は集会に参加していた。
 
この二日間に、顔の見えない愛兄AMISI KISEMBEのことが気にかかったので尋ねると、彼らも理由がわからないというので、訪ねてみることにした。
 
彼は私が訪ねたことで大変に喜び、かれの心がなごんだようで、再び以前の彼本来の輝きが出てきた。そしてこのことは聖霊のお導きであったことがあとでわかった。彼は実に力強い福音の器であり、証し人である。ニャルグス・キャンプでも、ボボレ・キャンプでも、福音伝道に燃えた愛兄であった。肉を持つ人間は誰でも心が弱くなるときがあるものだ。今日の集会では力強いご用をしてくれたので本当によかったと思う。今日は、昨日と違って参加者が少ない。でも最後になって、信仰に熱心な人がわたしに話をしにやってきた。この人もよく異言が出てきた。
 
   11:50
    9>  DAVID A.  BALONDANI    (2/1/1972)
 
かれに洗礼を勧めたところ、今日は時間がないといったので、よき折りを与えられたい
と願った。
 
今日の昼食は芋の煮ころがしと肉のスープであった。
今朝は、一緒にこなかったMAYAYI  MISSA兄が朝から町で伝道をしていた。
 
プールに我々が着いた時には、伝道がなされており「救いの業」がまさに成る気配が
していた。これは素晴らしいことだ。今日もプールの人はとても喜んで、幼児の費用
はとらないし、「洗礼を施す牧師さんの費用もとらないよ」といって、無賃で通して
くれた。ハレルヤ。でも残念だったことがある。我らの車のオーナーが、全きみ救いに
与る絶好のチャンスをむざむざ逸してしまったことであった。「主の招き」に対して
素直に心を開く人の幸いをつくづくと感じたのである。
 
  13:30
   15)   JACQUELINE WARD   (23/4/1998)                      F
   16)   RAPHAEL  WARD      (17/12/2000)                   M
   17)   HABRONI   WARD     (12/9/2002)                     M
   18)   BYAMUNGU   MUZALIWA   (3/9/1972)                 M
   19)   AGUSTINHO  MARRERIHA NAMUCALE   (6/6/1966)    M
       モザンビークの人
        身代り・・・母)MARIYA  SAIDE
   20)   MANUEL  LUCIANO   (7/2/1980)                       M
       モザンビークの人
        身代り・・・父)USIYANO  KIMU
 
救いの為に多くの立ち会いがあることは、これまた良いことだ。生命に触れることに
よって「神の世界」をこの身で感じてゆくからである。洗礼の後、LAMのフライトの
再確認に行った。ここでは、お客に対する接客のマナーなどは何も訓練されていない。
 
ホテルに帰ると、ウイリアム兄が洗濯をしてくれていた。これは先の9月の伝道で学ん
だものであった。こうして少しずつ仕えることを身につけるのである。
道端でパイナップルを売っていたので買ってみた。
それはとても香よく美味しい、ジューシーなものであった。
 
夕方にMAYAYI  MISSA兄が部屋に訪ねてきた。彼はこの町をよく知っているので、
レストランの良いところを聞くと、あの「TROPICAL HOTEL」の向かいにあるバンド
付きのレストランを教えた。外からは窺えない「穴場」というものがあるものである。
そこで彼らは「T-BONE STEAK」(一人前で190,000METICAIS) を存分に楽しんだと
いうわけである。主イエスさまは思いがけぬ楽しみを味わせて下さるものである。
 
「イエス之御霊教会教団ペンテコステ70周年記念」についてMISSA兄に話してきかせ
た。ウイリアム兄はもうその「CD霊讃歌」にはまっている。それはとてもよい事だ。
天來のものは、こうして我らのこころを捕らえてはなさない。
 
ミサ兄はこのマラタニ・キャンプ伝道が終わったらマラウイへ帰ってゆくという。
親達はこのキャンプに移り住んで安堵しているので、自分がマラウイにいるのはこの
「全き福音宣教」の為だと、言い切る兄弟である。
 
まずCUAMBAまで早朝5時に列車で行き午後2時には到着する。そこからMANDIMBA
という国境までバスに乗り、国境を歩いて越えて、マラウイの町CHIPONDE に行き、
またバスでMANGOCHIまでゆく。その間は1時間30分。MANGOCHIからLILONGWE
まで4時間で行くのである。
 
不思議な神のご摂理のみ手に我らは動かされているものである。
 
 
 
2003/12/4 (木)
 
穏やかな朝、5時に目がさめた。WILLIAM兄は祈りの人である。ベットの上で身を
丸くして祈り、また天井を仰いで両手をあげて祈る。滔々と異言で祈る。じつに
「御霊の子」である。今、聖餐に与らせていただけないものか・・・と考え、祈って
いる。今回は何の用意もしてこなかった。でも、教会としての形がMARATANE
CAMPの中でこうして整いつつあるのは事実である。まずしっかりと祈って行こう。
 
車がキャンプに近づくと、手を握った形をした大きな岩の山塊が見えてくる。今日は
この山があのシナイにある「モーセの山(神の山)」に似た雰囲気をもって迫って
くる。このキャンプから町に運んで現金収入となるものは、見たところ 1) 炭 
2) 屋根材となる茅 3) 薪 ぐらいであろうか・・・?こうしたものを自転車で朝
はやくから運んでいる男たちの姿が目にとまるのである。炭俵を3俵もよく自転車に
乗せて運べるものだ。2俵でもふらつくのが当たり前なのに・・・。
 
きょうはパンを100,000METICAIS買っていった。これでちょうどみんなに一個づつ
行き渡ったようであった。教会につらなっている一人の青年が背筋と膝に痛みがあり
祈ってあげてほしいとウイリアム兄がいうので、是非ともわざわざにでも家まで行っ
て上げようとしていたら、ちょうどその本人がやってきたので、前に出て来てもらい
膏を塗って祈り、イザヤ書53章4 〜5 節をスワヒリ語で読んで聞かせた。
彼の名は   BYOSE ASENDE  BARADEZO  (6/6/1978)  といった。
 
きょうはMS LAILAさんがこのモザンビークに駐在している日本大使を案内してこの
MARATINE CAMP を訪れているそうである。なんだか不思議なタイミングである。
 
張りのある良い声で讃美歌の指導をしている小柄な姉妹がいる。
彼女の名は   MASOKA WA PINBI  (20/12/1969)  という。
 
この群の責任者であるALIMASI  OMARI愛兄が、今日は私に「何か語れ」というので
マラキ書を開いて「献金の恵み」を語った。貧しいからこそ、捧げる恵みを知って欲
しい。必ず主は豊かに生活させて下さり、充分に報いて下さるからだ。
 
集会の後になって、とくに私と話がしたいという人が二人現れた。
 
   1//  GERMAIN  ASUMANI   (17/4/1969)
     ルグフにて「水と霊」を受けた。
     主イエスのみを見上げる信仰を勧めた。
   2//  FUMBATE SAIDI  WA  DESISI  (30/6/1972)
     この愛兄がNYARUGUSUからLUGUFUへ最初に用いられて伝道した。
     またLUGUFUからこのMARATINEへ(FEB/2000)に初めて伝道をした。
     先生が自分たちを見捨てておると思い、長らくつむじを曲げていた。
     学院に入って「伝道者としての学び」をしたいという。
                    ・・・ここで主を見あげなさい。
     スワヒリ語か、あるいはフランス語の聖書がほしい。
                    ・・・祈りなさい。
 
今日の昼食は芋の煮ころがしと大豆を煮たもので、とても美味しかった。
飲み物はファンタジュースを今日は選んだ。
 
今日のお救いはどのようになるのか・・・?と思っていたが、次の6名であった。
今までになく「真夏の太陽」がさんさんと照りつけたプールであった。
 
     13:15
   21)  MALENGA  ASUMANI    (15/9/1972)             F
       身代り・・・父)ASUMANI
                         母)ROZA
   22)  SULEMANI  WARO        (20/1/2003)            M
   23)  UWEZO  LUSUMBEXHA  (1/7/2002)              M
   24)  HALIDI  MWEMEDI       (24/7/1973)             M
       身代り・・・母)MAUWA
   25)  RIZIKI  HALIDI           (24/8/1998)              F
   26)  SEIGNEUR  HALIDI      (20/8/2000)             M
 
 
 
2003/12/5 (金)
 
今日は安息日の備え日である。目がさめたのがちょうど5時であった。
昨夜、よく絞って吊るした洗濯物はもうすっかりと乾いていた。
こんなに愛している「CD霊讃歌」をウイリアム愛兄にいつも聞かせて上げよう・・・
求めよ、然らば与えられん・・・である。
 
聖書を読みたいが手がとどかない、というアフリカの諸教会が聖書物語を讃美歌にして
信徒の教育に用いたという話はよく聞いていたが、期せずして今日はその生のものを
見せてもらった。聖徒の中でレパートリーが決まっていて、その人が立って、その物語
を解説し、みんなでその讃美をするという形である。自ずから一つのパターンが出来、
決まってきたようである。聖霊の働きが乏しく、生活の中に生きたお証しが少ない
から、必然的にそうならざるを得なかったといえる。「黒人霊歌」というのは非常に
霊的で、聖徒たちを「祈りに導く」という特別な働きがあるものだと今日は思った。
 
力強い声で讃美歌の指導をしているヒゲの濃い兄弟がいる。
彼の名は   MWENEBATU  JEMSI という。
 
今日は5日目ということで、彼らの内側が少し見えてきたようだ。コンゴ人だけの群れ
それもタンザニアの難民キャンプからというある意味の血族関係で固まっているのだ。
これを打破してゆくという新しい目標が必要である。多くの未信者の群れが周りにある
のであるから、福音を掲げて打って出ることを考えねばならない。
 
ミサ兄はマラウイへ、アミシ兄はジンバブエへ、そしてユスフ兄はタンザニアにと
行きたがり、この足元のマラタニ・キャンプを離れようとする。こうした「希望」は
果たして神のお導きであろうか・・・?
 
今の自分が置かれているところ、そこで先ず勝利することが信仰の基本である。
このたびウイリアム兄がニャルグス・キャンプに行くという「希望」が本当に神の御旨
であるかどうか・・・と、尋ねてきたのであるが、ここにきてハッキリとしてきた。
「すぐにダーバンに帰るべし」である。クリスマスも近づいているということもあり、
南アフリカの各々の群れはまだ若く弱々しいものなのだから、彼がちゃんとそこにいて
守って行かねばならない。ミサ兄はマラウイに使命があるのだから、帰るのはよいが、
他の兄弟がたがここを動く時ではない。むしろ、このマラタニ・キャンプにいてクリス
マスに家族の元に戻ってくる多くの人々に、大いに福音を語る絶好のチャンスを迎え
ようとしているのである。我らの教会は今芽生えたばかりの弱い群れなのだとよく認識
して、主によって立てられている「ALIMASI  OMARI愛兄夫妻」をもり立てて、助けて
ゆくことである。
 
   13:00
    *  YUSUFU  AMISI   (28/8/1972)                     M
        身代り・・・父)  AMISI  NGABWE
                          母)APENDEKI  MOSHI
                          妹)MARIAMU  AMISI
   27)   ROSETTE  BINTI  KISEMBE  (1/6/2001)          F
 
夕食は前に行ったレストランであったが、ウイリアム兄はお腹をさすりながら「自分は
あまりすいていない」という。では・・・とメニューを見て、オムレツのシンプルと
いうのが軽そうだと思い、またわたしは大きなスープを注文した。相当時間がたって
このウエイトレスが運んできたのは大きな皿にたっぷり盛られたオムレツのディッシュ
そこにはポテトフライがたっぷり・・・に、サラダが添えられ、それもまた二つの皿で
あった。結局、スープはこなかったけれど、二人は感謝して楽しんだものである。
大きなサイズのミネラルウオーターが30,000METICAISそしてこのオムレツがたったの
60,000METICAIS、それにパンとバターが、かごに盛られてサービスされていた。
ふたりが充分に満足してチップも添えて払ったのが100,000METICAISであったから、
日本円で600円に満たない金額であった。
 
 
 
2003/12/6 (土)
 
輝く安息日を迎えた。それは実に霊と肉の安息であった。
霊には悟りと信仰、そして救いの業が、肉には美味な食べ物を休息が用意されている。
モザンビークのこうした平穏な日々は決して想像出来たわけではなかった。
こうした当たり前のことがニュースにならないということが、実は問題なのだと思う。
すごい「情報の世界」が出来ているというのに、平凡は見向きもされないということ
・    ・・!  いま食べているYOGHRTがこの町で製造されているという発見は新鮮だ。
 
         PRACA  MARTIRES  DE  WIRRIAMO  NO.15,
         NAMPULA,  MOZAMBIQUE    TEL. 06-217092
 
7:15にはホテルを出発してキャンプ内の教会に到着したのは8:10であった。
集まってきた子ども達を前にしてアミシ愛兄が讃美の指導をはじめたが、これがどん
どん大きく力強くなって、将来の教会人としての準備がなされている。4, 5才のこども
たちが「主の祈り」を立派に覚えて語りはじめるのはすごい。今日は安息日だからで
あろうか・・・緑の小枝を教会堂の中にも、入口にも飾っている。年長が前に出て
小さな幼児たちを指導する光景は、日本のかつてが想像できる風景である。絶えず
動きがあるのも別にそれが当たり前のことで、整理係の愛兄がスムーズに動き回って
ひとり一人を適当な場所に導く、そしてみんながそれに従順に従っている。9時ごろ
になると、大人達が入ってくるが、それまで前にいた子ども達がうしろに移り、大人
たちが整然と竹の長椅子に着席してゆく。上を見上げると竹で押さえられたビニール
が見えるがその上には茅が拭かれている為に太陽の直射が遮られ意外に涼しい。
 
この会堂が出来るまでは木の下で集会をしていたそうだ。その頃のことを思うと、
感謝が絶えないという。ほんとうにそうだろう。こんなに美しい集まりとその時間の
流れを今の日本の学校関係者が見たら、驚くに違いない。社会性が実に成熟していて
水中の魚の群れのように、静かな中にも動きがある。この群れの責任者アリマシ愛兄
の妻が立ち上がって証しをしたが、自分はイスラムの家に生まれたので、信仰を持つ
主人とのことを心配し、実家の家族も心配していたが、このたび聖霊を受け、洗礼を
受けてからはとても喜びが与えられ、怖れも取り去られて、信仰してゆくことができ
ている。それを聞いてみんなはとても喜び大歓声となった。それからは、激しい讃美
がつづくのであった。10:00頃になると大人は50人を越えて満堂になっている。
それまでは暗い顔をしていたユスフ兄も恵まれて多くの悩みを越えてここまで来る
ことが出来たと証しをした。
 
礼拝の中で御用を求められたので、聖句を三ケ所開けた。
   1)   イザヤ書  58: 13 〜14
   2)   ロマ書  5: 8,   6: 12 〜14
   3)   イザヤ書  35章全部
 
それから、愛媛教会の聖徒の中で著しい証し人となった、一色マイミ姉と横田初子姉
の上になされた神の癒しと祝福の人生について出来るだけ詳しく証しさせてもらった
ところ、この難民キャンプにいるコンゴ人である愛兄姉たちはとても励まされたよう
であった。まさしく「イザヤ書 35:10」のごとくかつての「悲しみと嘆きとは逃げ
去」ったのである。
 
礼拝が終わり、食事も終わってからじっくりと話をする時間となった。
いままで心に押さえていたあのことこのことを愛兄たちが語り出した。
前田先生は「水と霊」で産み落とした子ども達を捨てたのではないか・・・という
不満がずっとあったこと。手紙を出してもなしのつぶて・・・。
長いこの数年間の苦しみを語り出した。これもみな天の指示であったのだが・・・。
時が満ちて、こうして初めてのマラタニ・キャンプ訪問がなった。とても嬉しいと
同時に、言いたいことが一杯というこの現実・・・!
われらは皆、御霊に導かれて動かされている。忍耐して、しっかりと祈ってゆかねば
ならない。肉の欲や情にうごかされてはならない。
 
            He called a little child and had him stand among them.
            And he said : "I tell you the truth, unless you change and
            become like little children, you will never enter the kingdom
            of heaven.  Therefore, whoever humbles himself like this child
            is the greatest in the kingdom of heaven."
                                              ( MATTHEW 18: 1〜4 )
 
実はこの個所は三日前の朝、ウイリアム兄が夢にみたと言うところである。
今日のAMISI KISENBE兄の話から「モザンビークの責任者」はわたしだと前田先生
に言われて頑張ってきたのに・・・という不満の声を聞いた。主イエスさまの下僕
に対する心構えをこうして、幼子を前に置いて語られたことが天国の内面を教えて
いる。そこは己を低くするという謙遜さが何よりも貴いことを告げている。
AMISI兄がこのところで主によって立てられた「ALIMASI  OMARI愛兄夫妻」を
助け支えてゆく勤めを果たすならば、主より信頼を得るのである。しっかりと勤めて
もらいたいものである。
 
      14:05
   28)  MARIAMU MWANZO    (5/1/1984)              F
   *      ABEKYA  ANZURUNI  (15/3/1970)
       身代り・・・母)  ROZA  ALIMASI
   29)  SAFI  KALUTA          (4/4/1984)              F
       身代り・・・父)  KALUTA  VINGANT
   30)  SAFI  SANGO            (15/5/1989)            F
   31)  DIEME  MATSON        (20/8/2002)            M
 
夕方の5時に車のオーナーが部屋の戸をノックした。聞くと自分の車がまだ帰って
いない。昨日も帰ってくるのが遅かったことを告げた。どうしたわけであろうか?
 
夕食をすませてレストランからホテルに帰ってくると、ミサ兄がMUSABA  LEONを
ともなって我らの帰りを待っていた。この人は、かつてのニャルグス・キャンプ伝道の
あの12人のひとりで、このキャンプに移って来ていた。彼はこのところ、道路工事を
していた為に、教会での集会には集えなかったという。あすの日曜聖会には集えると
のこと。この人も「洗礼証明書」を求めたし、手紙を出して切手をはって投函してくれ
という、彼の考え方・・・教会に対する理解の仕方に驚きを覚える。きっと他の教会が
やっていることが、そのままわれらの「イエス之御霊教会」でも通用すると勘違いして
いるからに違いない。
 
 
 
2003/12/7  (日)
 
思えば、ここまで来るのに長い月日が経過して、信仰も振るわれてきた。もっとこうあれ
ば、あああればと考えられる数々がある。でも主イエスさまを見上げる時に、天からの
慰めと貴い「みことば」がくる。
 
    常に喜べ、絶えず祈れ、凡てのこと感謝せよ、
    これキリスト・イエスに由りて神の汝らに求め給ふ所なり。
    御霊をけすな、預言を蔑(なみ)すな、
    凡てのこと試みて善きものを守り、凡て悪の類(たぐひ)に遠ざかれ。
               (テサロニケ前書 5章16〜22節)
 
肉をもって我らに関わろうと考えた者たちは何の手がかりもないままに、去ってゆく
というこの事態はすごい「御霊の智慧」の世界であるともいえる。何もないのに、その
置かれた場所を去らない、というあり方こそは神の助けがあればこそ出来るのである。
モザンビークのNAMPLA、その郊外に設置されたマラタニ・キャンプ。そこで信仰を
保ってきた聖徒たちの存在は「聖霊のみ働き」のすごさを感じさせる。この4年間の
道のりに御光がともってきて、将来にも輝かしい「希望」が湧いてきたということだ。
今後とも彼らにたいする御霊によるご指導に期待して、わたしはここを去ってゆくに
あたり、初代教会の先達が残した「みことば」を共に開いてみよう。
 
    なんぢらの衷には、主より注がれたる油とどまる故に、
    人の汝らに物を教ふる要なし。
    この油は汝らに凡ての事を教へ、かつ真にして虚偽(いつはり)なし、
    汝等はその教へしごとく主に居るなり。
               (ヨハネ第一書 2章27節)
 
むかしの寺子屋もきっとこんなであったろうと想像しながら、昨日は子供会を見てい
た。こどもを慈しみ育てる大人の目は健康な精神のもとに開かれている。キャンプの
中には、幼児教育施設がまだ整っていないこともあって、必然、教会に親達はこどもを
通わせ楽しみながら学びをさせている。難民キャンプのこの初期なればこその、貴重な
時間であるといえる。何もかも整った世界では大切な「神を学ぶ」その時を持たぬまま
に大人となり、目先の欲望に振り回されて空しくなってゆく、その悲しみを多く見て
いるから「これは素晴らしいことだ」と、つくづく感じ入っているわけである。
 
「遺された者」という表現が聖書にあるが、国に悲しい戦争があり、命からがら逃げて
きたこの難民たちが、その将来に大きな働きを期待され「遺された者」となっている。
「神の叡智」がアフリカに凝縮されて、注がれてきていると・・・この幼いこどもたち
の澄んだ目を見る。「神よ、どうかアフリカに祝福を・・・!」と歌う南アフリカ国歌
からこの二十一世紀に飛翔するアフリカを思い描いているきょうの私である。
 
今日の「日曜聖会」は徐々に兄弟姉妹がたが会堂に満たされ、子どもたちもいれると、
120人ほどになったであろうかと思われる。多くの讃美とお証しが続き、次第に霊気が
高まってはいたが、今一つ、「祈祷がお座なり」という印象がぬぐえなかった。
 
司会をしていたALIMASI OMARI愛兄がわたしに「ご用を」というので、まず両手を高
く挙げて「異言の祈りをみんなでしましょう」と勧めてみた。こうした祈り方をこの
アフリカではしたことがないのであろう。みんな始めはとまどっていたが、次第に祈り
が高められていった。天が開き、炎のように轟々と燃えるには多くの祈りが必要だが、
今日はこれで充分に燃えたということであった。洗礼にゆくミニバスの50分間だけでは
なくプールでも聖霊は激しく姉妹方を燃やし、讃美はいつまでも続いたのであった。
 
今一つは「神の聖名」のことである。
神の聖名は何か・・・? 父の名は何か・・・? これを知っているというだけで大きな
祝福が聖書には約束されている。ウイリアム愛兄が語り、引用していた詩篇91篇に
それがある。ここに現されている「わたし」という主語が神ご自身であることがわかる
と、これは大変にすごい「お約束だ」と理解できるではないか・・・!
 
    彼その愛をわれにそそげるがゆえに我これを助けん
    かれわが名をしるがゆえに我これを高処(たかきところ)におかん
    かれ我を呼ばば我こたへん
    我その苦難(なやみ)のときに偕(とも)にをりて之をたすけ之をあがめん
    われ長寿(ながきいのち)をもてかれを足はしめ且(かつ)わが救をしめさん
               (詩篇  91篇14〜16節)
 
この群れの中でひとり・・・、父の名は「イエスである」と答えた愛兄がいた。
いつも、真っ黒い顔を輝かせてご奉仕していた愛兄である。その人の名は・・・
    KINGI  SAIDI   (25/7/1959)
この愛兄はピリポの質問に答えた主イエスの言葉からそれがわかると返事した。
 
    我を見し者は父を見しなり。
               (ヨハネ伝 14章9節)
 
集いが終わってから「神癒祈祷」が求められ・・・30人もいたであろうか、次々と、
前の「恵みの御座」に出てくる。どの人も神の前に、真摯な態度であるということは、
実に嬉しいことだ。
 
昼食のあとであった。責任者のALIMASI OMARI愛兄が一人の青年を連れてきてわたし
に紹介した。この人はお祈りが大好きでよく自分と一緒にキャンプのあちこちに行って
伝道してくれるという。さらなる祝福を彼の為に祈って下さいということであった。
その名は・・・
    OMARI JACQUES  MFAUME   (6/5/1974)
 
     13:25
   32)  ADIAJA  DUSABE           (26/10/2002)             F
   33)  ELIZA   BYAMUNGU         (5/2/1991)               F
   34)  RIZIKI  UUMILIYA           (4/12/2000)               F
   *    JEREMIE  ASUMANI         (17/3/1969)             M
       身代り・・・父)  ASUMANI  AWAYA
   35)  MWAJUMA  KIZA            (27/4/1983)              F
   36)  ODESI  MFAUME             (12/12/1999)            F
 
朝はやくマーケットが始まるころはあいにくの霧雨が降りしきり、きょうは芳しくない
商売の日になってしまったな・・・と思っていたが、まもなくすっかりと晴れ上がって
勢いのある市場風景が繰り広げられた。鋪道にはところ狭しと、日曜雑貨の数々、電話
ボックスの前には靴を並べる人々。そこにも、群がる客たちのざわめきがあった。
夜になると紙屑やビニール屑などあたりに散らばっていたが、これも翌日にはきれいに
箒ではかれ、片付けられているはずである。
 
 
 
2003/12/8  (月)
 
青空の広がる爽やかな朝を迎えた。聖書を開けるとこんな聖句が飛び込んできた。
 
    わが扶(たす)くるわが僕(しもべ)
    わが心よろこぶわが撰人(えらびびと)をみよ
    我わが霊(みたま)をかれにあたへたり
    かれ異邦人(ことくにびと)に道をしめすべし
               (イザヤ書  42章1節)
 
    "Here is my servant, whom I uphold,
    my chosen one in whom I delight;
    I will put my Spirit on him
         and he will bring justice to the nations."
                                     (ISAIAH  42:1)
 
いよいよこの地における伝道の最後の日を迎えている。きのうもホテルの前で、教会の
メンバーたちと別れる時に、あと一日が残っていることを、お互いに喜びあったもので
あった。毎日が楽しい悦ばしい日々であった。思えば、この初めての土地に来て、何の
思い煩いもなく、安らかにご用を続ける事の出来ていることは、主イエスさまの助けが
充分であるからである。ハレルヤ!大感謝である。少しでも、怖れが心に投げ込まれて
しまえば、さっそく逃げ出したくなってしまうという、この私であることを、主はよく
ご存じである。 憐れみに富みたまう主よ、願わくば、「我らを試みに会はせ給うな」
(ルカ伝  11章4節)である。
 
ここはモザンビーク・ナンプラ、季節は真夏であるが風が爽やかに流れてしのぎよい。
何でも初めてというのは凄いことだと思う。ピンと張りつめた緊張がどこかにあって、
この五感で捕らえた印象がずっと持続するのである。そして何にもまして嬉しいことは
「安らか」という一字である。
 
    その足いまだ行かざる道をやすらかに過ぎゆけり
               (イザヤ書  41章3節)
 
この光と風とを受けながら体を横たえると、悠久の昔を思い起こすのだ。
西欧のポルトガルからここモザンビークにやってきた彼のキリスト教の宣教師たちは、
うわさに聞く黄金の国「ジパング」を目指して船の錨をあげた。そこは実に遠いはるか
なる夢の国であったに違いない。ここモザンビークの航海にたけた頑強な男たちを助け
手として船に乗り込ませ充分な食料もさらにはあの多くの鉄砲も積み込んで出発した。
あの最初の航海ではどの港に寄ったのか・・・・想像するにきっとインドのゴアそして
マレーシアのマラッカとマカオもその寄港地であったことであろう。そして歴史的な
事件「種子島漂着」ということになった。それはあの緑濃き沖縄・南西諸島の島々を
横に見ながら、そこに打ち寄せる高い波をわけて突き進んだ「勇壮な船」であった。
そこに突然襲いかかってきた台風・・・・、嵐との戦い、そして遂に忌わしく恐ろしい
「難破」。そのこと、小さいといえばまことに小さいこの船の「難破事件」が、実に
「ジパング」こと日本に想像を絶する大変な衝撃を与え、これによって、それ以後の
「日本の歴史」が意外な方向へと動いたのであった。そして好むと好まざるとに関わら
ず、日本は世界史の中に投げ出され、江戸時代の「鎖国」を通して、その固有の文化が
他に類をみない「熟成」へと向かったのであった。江戸期の文化、芸術、学術はいまも
世界に驚きと刺激を与え続けている。
 
これを「神のご経綸」という観点からみれば、この極東に位置する「日本国」が神の
持っておられる「福音」の担い手として登場する・・・この信じられない分野での、
「キリスト教の神髄」ともいえる分野での働きが「日本国」に課せられるとは・・・!
これこそは、全世界にたいする神のご慈愛のご発動と言うことができる。そして静かに
幕が開く・・・「全世界が期待する日本」の登場である。
 
    この後、われ四人の御使の地の四隅に立つを見たり、
    彼らは地の四方の風を引止めて、地にも海にも諸種(もろもろ)の樹にも
    風を吹かせざりき。
    また他の一人の御使の、いける神の印を持ちて日の出づるかたより登るを
    見たり、かれ地と海とを害(そこな)ふ権を与えられたる四人の御使に
    むかひ、大声に呼ばはりて言ふ。
    「われらが我らの神の僕の額に印するまでは、地をも海をも樹をも害ふな」
               (ヨハネ黙示録  7章1〜3節)
 
キャンプへの道のりはもう慣れてしまったが、道の左手の水辺の草むらから虫たちの
大合唱が聞こえてきた。決して蝉の声ではない。気をつけて進んでゆくと、大木の梢
から確かに「せみの声」を聞いたので、わたしはひとしお嬉しくなった。
難民キャンプのよさは「たっぷりとした時間」である。このところに置かれた教会の
聖徒たちは存分に讃美と祈りにまた聖書に没頭できる。そして子どもたちの数の多さが
将来への希望そのものである。これはとても大切な「生きる力」ではないか・・・!
群がる子どもたちと共に讃美する・・・この喜びと楽しみを大切にしたい。
 
      14:00
   37)  MUNDJWA  ALINOTI  STAMLEY   (6/12/1977)
       身代り・・・父)  ALINOTI  'YANGYA
   ***  PASTOR  MAHANO  MAFATAKI   (10/10/1957)
       洗足式
 
2000年2月に、ルグフからこのマラタニ・キャンプへ一番に持ってきた愛兄は実は
かつてニャルグスからルグフへ福音をもたらした器であった。その名は・・・
            FUMBATE  SAIDI  WA  DESISI   (30/6/1972)
この人と共にルグフからここにきて、この教会を支えたご奉仕の人。その名は・・・
            ABEKYA  ANZURUNI                 (15/3/1970)
 
最後になって、わかってきたことの一つは
この群れの責任者であるALIMASI OMARI愛兄もルグフで救われ、ここにやってきた
人であった。それに対してニャルグスからボボレに直接入ったAMISI KISEMBE愛兄は
ボボレ・キャンプが閉鎖になったことから、やむをえずこのマラタニ・キャンプに来た
人であった。そこに「微妙な確執」が潜んだわけがあった。みんな神の前に遜ることが
出来れば、それで大勝利がくるのである。
今日のメッセージの中には、そうしたことが説かれていた。ハレルヤ。
 
    至高く至上なる永遠にすめるもの聖者となづくるもの如此いひ給ふ
    我はたかき所きよき所にすみ
    亦こころ碎けてへりくだる者とともにすみ
    謙だるものの霊をいかし碎けたるものの心をいかす
               (イザヤ書  57章15節)
 
WILLIAM兄はMAPUTO行きのバスを予約してMISSA兄と一緒にホテルに帰ってきた。
あすの早朝4時発で、三日後 (12/11) の17:00ごろマプト到着だそうだ。
夕闇がせまる頃、東の空には「満月」が顔をのぞかせた。風が爽やかに吹いて涼しい。
このたびの伝道もいよいよ終幕を迎え、細々としたところまで御光が当ってきたので、
全体像を立体的に把握することが出来るようになってきた。
 
では・・・と、いつものレストランに出向いて「オムレツのシンプル」を三人分注文し
た。そこにはアフリカならではというバンガロー式のテーブルがあちらにもこちらにも
しつらえてあり、プールには噴水が涼しさを演出している。この我らのテーブルにも
「ローソクの光」がゆらゆらとあたりを照らしており、われらはまず各人が籠のパンを
とり、各々バターをつけてミネラル・ウォーターをいただいた。これは決して想像でき
なかったナンプラの夜であった。
 
聞くところによると、コンゴ内戦の前にはMISSA兄の父MUSAFIRI MISSAは大家族の
長として、またタンガニーカ湖畔の村 BARAKA, KALINGA の村長であったという。
内戦勃発時には、いち早く村人たちをタンザニヤに避難させたことで、人的被害を全く
受けなかったというから、政治情勢に明るい人だったといえる。いまは難民となって
このマラタニ・キャンプに家族と一緒にいるそうだ。大きな抗しきれない波が各々の
人生を押し流している。幸いなことに、この父は最初のニャルグス伝道の時にMISSA兄
と共に「水と霊」のみ救いに与ったという。
 
 
 
2003/12/9 (火)
 
ハッと目がさめた時には、もうウイリアム兄は身支度をはじめていた。もう2時40分を
回っていた。3時過ぎにはメータータクシーに来てもらう予定とか言っていたっけ・・
・・。ホテルのボーイさんがタクシーを呼びにいってくれて、まだ真っ暗の中、西の空
に煌々と輝く「満月」を仰ぎながら、ハレルヤ、ハレルヤ・・と手を振って見送った。
 
9/20 深夜 02:00 のあの自動車事故から、よくもここまで元気に回復させて下さった
主イエスさまである。無謀にも、突っ込んできた大型バイクの白人青年は無惨な即死、
このウイリアム兄の乗っていたピックアップ車の乗客二人も巻き添えの即死、運転手は
その後、三回も手術をして、なお思わしくなく入院中だというし、他の数人の乗客も
まだリハビリ中で、ひとりウイリアム兄だけが回復して、モザンビーク伝道にまで来て
いるというこの事実に、教会の聖徒たちはみな驚いて、主を崇めているそうである。
 
そうは言っても、いまも彼は「むち打ち症」が首のまわりに残っているし、いまだに
体のあちこちに痛みがあると言っていた。私は主のお許しがあり、そして飛行機の座席
があればマプトまで一緒に帰れたらいいがと思い、昨日もLAMのオフィスにいって尋ね
たが、空席待ちが多くあるリストを見せられ、やっぱり今回はバスで帰るように導いて
いるなと思った。彼いわく、「わたしは主イエスさまの兵卒です」だって・・・。
4時からそろそろ明るくなり、いま5時はすっかり心地よく明け放たれている。小鳥たち
のさえずりが平和の貴さを思わせる。
 
MISSA兄は先生を空港まで送らせてもらうと言ってくれていたが、10時まえにはやっ
てきて、重たいスーツケースを運んでくれた。空港は意外に町から近くトタン屋根の上
すれすれに爆音を響かせて離陸着陸しているLAM機であった。また小型のセスナ機が
さきほどマラウイのリロンゲに向かって飛び立っていた。とにかく、広大な国土を行き
巡るには、こうした飛行機の活躍に待たねばならない。
 
わたしの乗ったLAM機は途中、インド洋に面した町というBEIRAに降りた。
こうして見回したところだけでは大平原がひろがっているだけでさっぱりわからない。
ほぼ半数の乗客がここで降りてしまい飛び立つ時にはまばらな空席がまわりにあった。
それにしても、まもなく眼下に広がってきたインド洋の入り江の大きさは想像を絶する
ものであった。海岸を洗う大波が筋を引いて打ち寄せていたのであるから・・・。
 
予定通り15:40にMAPUTOに到着。わたしはいつものように最後に降りたのに、はやく
荷物が出てきて外に出た。タクシーの客引きが近づいてきた時である。手を挙げてあの
「ミリオン」がわたしに合図したのが遠くに見えた。ハレルヤ・・・。嬉しそうに
「パストール、パストール」と言って、彼は重い荷物を車に乗せてくれた。半かじりの
ポルトガル語で、このたびのナンプラ伝道のお恵みを語ると「ムイ・ビエン」と喜んで
くれた。
 
宿は「PENSAO MARTINS」の209号である。ここはベットが二つあって部屋も広々と
しており、景観がとてもよい。主さまはよい部屋を与えてくださった。感謝。天井には
時代物の大きな三枚羽の扇風機がカタカタと音をたてて回っている。壁にはモノクロの
人物写真が額におさまっている。その自然な様子からポルトガルの植民地時代の一般の
生活振りが窺われて実に楽しい。わたしのこの部屋の一枚は「杖を手にした老農夫」、
そしてもう一枚は「長い腕つきの大きな鍋を頭にかぶった子ども」である。これらは
飾らない普段着のモザンビークを写している。部屋の中央の壁には原色「赤・黄・緑」
を配したモザンビーク女性を描いた絵画が一枚、それは実に大胆な南国調の明るい
ローケツ染めの逸品である。
 
窓の外は稲光りが走り、天候が崩れてきているみたいだ。風がある。
 
 
 
2003/12/10 (水)
 
夜どうし降った雨がようやく上がって、私の体もしっかりと回復しているのがわかる。
しばらくお祈りをしよう。・・・・・
 
今日はLAMのオフィスまで歩いてみようと思った。地図であらかじめ見当をつけて、
歩き出す方法である。ヨシュア記のはじめにもこうあるではないか・・・!
 
    凡そ汝らが足の裏にて踏むところは我これをことごとく汝らに与ふ
    我が前にモーセに語りし如し
               (ヨシュア記  1章3節)
 
全く東洋人の顔を見ない町を、こうして歩く。こじんまりとしたこの首都MAPUTOは
バックに大きな国土をひかえているのだから、上手に「国づくりのマスタープラン」を
描くことが出来ると本当に素晴らしい。将来性は充分にあるのだから・・・。宗主国の
ポルトガルもきっと力を入れていることだろう。でも何よりも天の祝福が大切である。
 
それにしても地道な農業開発が立ち後れていて、手っ取り早い「物の売り買い」に人々
が日々の糧を求めるのは、非常に残念なことではないか・・・!
宗教一つとっても、大道りに面した教会が扉を閉ざし「鉄の鎖」でガードして「日曜日
の集会案内」だけが目につくとは・・・!その案内板をうつろな目で読んでいる男の姿
に胸がつまった。この既成宗教に対して、新興宗教の「前向きの姿」には何処も同じと
いう感じだ。しかしながら「肉の欲」に訴えかける「世のもの」は、あくまでも偶像の
世界であると、わたしは解釈している。
 
    上より來るものは凡ての物の上にあり、
    地より出づるものは地の者にして、
    その語ることも地の事なり。
    天より來るものは凡ての物の上にあり。
               (ヨハネ伝  3章21節)
 
ナンプラに行く前に受霊したガードマンたちの仲間が今日も二人、貴い聖霊を受ける
事が出来た。「われ渇けるものに水をそそぎ乾たる地に流れをそそぐ」(イザヤ書  
44章3節)との聖言の通りであった。この霊なるものの素晴らしさは類い稀なるもの
である。ハレルヤ。
 
       15:10
           10>  FEMIAS  SIGAUQUE       (6/9/1977)
       15:15
           11>  BAFAEL  CHITLANGO    (24/8/1973)
 
国連難民高等弁務官事務所にMS LAILAさんを訪ねると、いまナンプラでコンゴの代表
という人をキャンプにお連れしているということで、お目にかかる事が出来なかった。
 
T-BONE STEAKが80,000METICAISといえば約3US$であるから、それは安い・・!
それもしっかりごっついのがチップスと一緒に大皿にのってきた。焼き立ての熱いので
あった。ここは、ある専門学校の敷地の中に「臨時のレストラン」といったところだ。
看板も何もない。ただ屋根だけのバンガローがあって、そこにテーブルと椅子が4つ。
そうしたテーブルが10ほど置いてあるだけ。ちょうど「大学祭の臨時レストラン」と
思えばよい。何故、首都MAPUTOの、ど真ん中でこうした商売ができるか・・?という
と・・・思うに、まず「人件費が安い」、それに国がまだ若くて「規制が厳しくない」
・・・ということか。 白人の若い夫妻が、この店を切り盛りしているようである。
一事が万事!ここは今のところ色々と可能性が豊かな国であると考えられる。
これだけ美味しいものが、そして安ければ、お客さんはくるものである。
 
 
 
2003/12/11 (木)
 
深夜であった。午前1時という真夜中に、扉がノックされて目がさめた。
何と・・・!そこにウイリアム愛兄が立っていた。そしてホテルの人が荷物を運んで
きていた。こんな時間に到着する予定だったのだろうか・・・?
いや、予定ではこの新しい日の夕方、それも17:00ということだった。
彼は英語でこんな言葉を口にしている。
 
    I AM WEAK, BUT HE IS STORONG.
 
疲れたであろう・・・・、さっそくお湯のでるシャワーで体を洗い、隣のベットに横に
なってもらった。一昨日、早朝4時にナンプラを出た車・・10人乗りのミニバス・・は
走りに走り続けたそうで、丸二日でこのマプトまでやってきた。荷物は車の屋根に積み
込み、じつに本職の宅急便である。途中の小さなマーケットで用を足したり何か食べ物
を買ったり、でもそれも、わずか5分以内という制限を設けて・・・・「頑張る人」は
ここにもいたのである。
目標をもって励むということは、こうした驚きをもやってのける。
 
そういえば、2000年のシドニー・オリンピックで、この国モザンビークにゴールド・
メダルをもたらしたMANA MUTORAさんのことが、LAM機の機内誌に載っていた。
800mのトラック競技である。最近のことでは、2003年9月のゴールデン・リーグで
彼女がやはり800mで優勝し、何と・・!賞金US$1,000,000,--を、獲得している。
こうした快挙が若い国造りの牽引になると考え、人々は歓呼の声をあげているわけだ。
 
    Olha  o  futuro  com  esperanca.
    Look at the future with hope.
 
これはMAPUTO空港の国内線待合室に掲げられていた「標語」である。
目先に横たわる数々の困難に、心が畏縮してしまわないように・・・と、
一般国民に対して「希望を抱いて、未来を見つめよう」と呼びかけている。
 
朝ゆっくりと起きたウイリアム愛兄は、午前11時には荷物を整えてダーバンに向けて
発っていった。この時刻に出れば、あす金曜日の夜おそくには到着できて、安息日の
礼拝を兄弟姉妹がたと一緒に貴ぶことができるのである。その礼拝は土曜日の午前9時
だそうだ。わたしはこれからいつものようにガードマンたちのところへ行こう。
 
その家の勝手口のそばにコンクリートの椅子があるが、今日はその家の使用人であろう
と思える人、二頭の番犬を散歩させて帰ってきたところを、主が捕らえてくださった。
汗をびっしょりとかいてお祈りをした。
その後、ガードマンたちも順番に座ってよく異言で祈った。
 
        12:30
             12>  ALFREDO FAINDO MARIME    (4/8/1958)
 
ナンプラに行く前に知り合った PETER DRANI OYUGAさん。ウガンダの人。
夜になってホテルの部屋に訪ねてきたから、夕食をごちそうした。
神を畏れ敬うことは篤信の母からの大切な教え。この彼とも共に祈るチャンスが与え
られたことは、将来に繋がるかもしれない。
 
 
 
2003/12/12 (金)
 
いよいよモザンビークの最後の日を迎えた。朝ははやくから光が町に満ちている。
ウイリアム兄はいまごろ国境を越えて南アに入り、ダーバンに向かうバスが動き出した
であろうか・・?この度の伝道でたびたびベットで感涙にむせぶ彼を見たが、それは
アフリカの近未来を見ているようであった。彼はまもなく南アフリカの国籍を取得申請
をする。そして、晴れてパスポートが手に入れば「自由の翼」が与えられて、この福音
を全世界の隅々に持ち行くことができるのである。いまでも「難民身分」が認定されて
いるから、国内はもとより、こうして国外にでも移動は比較的自由である。貴いことは
宣べ伝えるべきもの、主より賜りし使命なる、この「全き福音」を委ねられていると
いうことである。それは別に彼だけのものではなく、救われているわれら一般のもの
なのだが、彼が「感極まって涙する」のは他でもない、霊界が見開かれているからで
あるといえる。
 
    おそるな。視よ、この民、一般に及ぶべき、大いなる歓喜(よろこび)の
    音信(おとづれ)を我なんぢに告ぐ、今日ダビデの町にて汝らの為に
    救主(すくひぬし)うまれ給へり、これ主キリストなり。
               (ルカ伝  2章10〜11節)
 
キリストの誕生というこの実に「大いなる歓喜の音信」でさえも、天が開けなければ、
何の感慨も感激もないという事実・・・、霊の目が閉ざされている者の哀れさを聖書は
告げている。
 
    なにゆえ糧にもあらぬ者のために金をいだし
    飽くことを得ざるもののために労するや
    われに聴き従へ
    さらばなんぢら美物(よきもの)をくらふをえ
    脂(あぶら)をもてその霊魂(たましひ)をたのしまするを得ん
               (イザヤ書  55章2節)
 
霊界が大きく開かれてくると、価値観がすっかりかわってくる。
「神中心の良心生活」という平凡な中に、無限無量の霊の満足が満ち満ちているから
置かれたところに「神の国」を味わっているという次第である。
 
最後になったが、いつものガードマンたちを訪ねることは実に楽しい。
昨日、受霊したALFREDOが敬虔な面持ちで手を合わせながら、近づいてきた。座って
もらって共に祈ると豊かに霊言が出る。そうすると、本人も素晴らしい天のものを感じ
るのであろう。喜びが心に満ちてくる。まわりのみんなもニコニコして見ている。
先の人達も行儀よく順番に待っていたので、手を置いてお祈りさせてもらった。
そこに新しい顔の青年がきたのであるが、さっそく「おまえも祈ってもらいなさい」と
いうジェスチャーだけで、すんなりと手を前に合わせて聖霊待望会がはじまった。
 
        13:30
             13>  EZEQUIEL JOSE TAMELE     (3/1/1979)
 
このたびの伝道旅行は新しい時代を彷佛させるものであった。かつては霊魂をさがし
求める旅を続けてきていたが、いまや逆になってきた。私の方が探し求められている。
それだけ、主のご再臨は近づき、そして全世界に闇が広がり始めたからであろう。
 
    なんぢは人にもとめ尋らるるもの 棄られざるまちととなへらるべし
               (イザヤ書  62章12節)
 
 
 
2003/12/13 (土)
 
何という驚きをもって、ここに今わたしはいるか?
この安らぎ、この恵み・・・唯、感謝を主に捧げる・・・
 
この部屋の広さはたっぷり12帖はある。
壁際にツインベッド、ふっくらと温かそうな真っ白いふとん、
そして、そのベットの造りは赤さびた鉄枠に渋い茶色のラワン材・・・
そのメインの板の中心には丸い真鍮・・・これは「ゴールド」をイメージしており、
その両サイドには鉄製の重しに鉄のワイヤー・・・これはまさしく「奴隷」のイメージ
向いの壁にはテーブルと大きなサイズの鏡があるのだが、
テーブルの四隅に、これもそっくり鉄枠と鉄製の重しに鉄のワイヤーがいとも堅牢に
置かれ、その四つ足は各々外側にそった「刀」をイメージした造りとなっている。
その色合いが赤茶色に全てが統一されていて、他の壁面や天井のホワイトの色調と
くっきりコントラストをなしている。
 
正面のベット側の壁面にはこれも同じ色調の額におさまった、実をつけた植物の
精密画・・・それはルネッサンス以後の「近代ヨーロッパ」のイメージである。
縦長の壁は大きなガラス窓なのだが、麻の手触りの縦柄のカーテン・・・これも土色と
ブルーと白の線で、言うならば「なつかしい人間の色」・・・これもアフリカである。
この部屋の進入部の通路左手には洗面所とバスタブ、その奥にはトイレ。
そのすべてがホワイトで統一されている。
 
それに、家具調のしゃれた空調のことにも一言しなければならないだろう。
大きなカーテンのかかっている壁際に少し高めの腰掛け・・・?いや、それが空調の
設備である。コントロールのスイッチ切り替えで冷暖房が自由だ。いまは弱めの暖房に
したが、静かな噴出の音が聞こえている。
 
ここは、空港の四階に大きく造られたトランシット客専用のホテルである。
その名は「PROTEA  HOTEL TRANSIT」という。
ここヨハネスブルグ空港、南アフリカが立地している位置がアフリカのゲートとして、
またヨーロッパと南米、そしてアジアを結ぶ、実に「ハグ空港」としての展望とその
哲学、いままでのアフリカの歴史をふまえた総合的な造形がここに見える。
「ニーズの応える」という言葉をよく聞くが、わたしのこのたびのニーズにぴたりと
応えてくれたのがこのホテルであった。
 
昨夜、9時ごろこの部屋に入り、清潔で快適な、そしてあたたかいベットでよく寝させ
ていただいた。あと2時間ほどしたら、チェックアウトの時間となるがそれで充分で
ある。その後しばらくして、キャセイ航空で香港経由の大阪で帰国の途につく。
こんなに嬉しい乗り継ぎ空港は今までに覚えがなかった。
 
昨日、マプト空港で「Mozambique!  STOCKHOLM  KULTURHUSET 1987」と
いう本を買い求めた。
この作品は展覧会用に作られたもので、「EXHIBITION WORKSHOP PROGRAMMES」
という副題が付いている。
初めて目にする写真や絵画、音楽、歌、ダンスそして詩歌集。
ポルトガルからの独立、1975年6月25日。それまでの歴史とその後の長きに渉る内戦
の事ども。この一冊で、わたしの空白が埋められてゆく・・・と思うととても嬉しい。
 
わたしたちの国、日本。 その長い歴史の中に外国からの侵略とそれによる「奴隷」の
歴史をもたなかった。何という幸運な国であろうか!
                                ハレルヤ !
 
 
2003/12/14 (日)
 
予定通りの香港到着であった。Boeing 747-400 というから大きなジャンボ機だが、
見わたした限りでは満席であった。大陸中国の「巨大マンモス」が動き始めている。
でも我が国に接続する便はどれもガラガラで、わたしは横になって関西国際空港に
戻ってきた。
大阪は快晴。 何と!そこは行き届いた親切な国であることよ・・・!
クリスマスも近いからであろう、空港内のすっきりとした飾り付けも目に眩しかった。
 
                                  (おわり)
 
 
 
                        MAIL: mizu_to_rei@mac.com.