豊臣秀吉像(名古屋市中村)
 
 
 今から数年前。ボクは最初の会社を辞めて、ブラブラしていた。そのとき友人のタニヲと一緒に、城巡りの旅に出た。
   ほとんどが車中泊という強行軍で、山陽方面から名古屋、岐阜まで1週間かけて、ほとんどの城を制覇した。ボクも変人だと思うが、思えばタニヲも酔狂である。
 そのとき、ボクは悟った。加藤清正という男はすごいヤツだと。白鷺城、大阪城、名古屋城。名城と呼ばれる城はほとんど清正公が関わっている。城巡りは、清正公巡りの旅でもあったのだ。
 築城の名手だったと教科書的な知識はあったけど、実際に造られた城の壮大さを目の当たりにすると、技術うんぬんではなく、すごい人間力があったのだなぁ、と恐れ入ってしまう。ものすごく緻密な頭を持っていたか、そんな部下を持っていたか。いずれにせよ、短期間でこれだけの名城造りに携わるのだから、カシコクないと領国経営もままならない。
 ということで、ボクは加藤清正公を、後の熊本城主である親近感もあって、とても尊敬するようになった。太閤秀吉は、その養父であり、師匠である。もっと尊敬しなくてはならない。が、ボクは豊臣秀吉さんのことをその時よく知らなかったのだった。
 
博多っ子は太閤びいきなのだが。
 
  主君の織田信長が本能寺に倒れ、明智光秀を討って信長の後継者になった秀吉は、天下統一へ動き出す。中国の毛利を外交的に臣下に加えると、次は九州。
 九州征伐をした直接のきっかけは、大友宗麟からの救援依頼だった。「正式に守護を任じられた我が領地に島津が攻め寄せて来ています。助けてください」というような内容で、いい大義名分にはなった。
 ボクは太閤秀吉の九州征伐の様子にはほとんど関心がない。25万の大軍団がやってきたのだ。島津がいくら強かろうと、勝負になるはずもない。5ヶ月で勝負はついてしまう。いや、5ヶ月も戦い続けた島津はやはり、ツオイというべきか。
 ただ、すばらしいエピソードは周辺にたくさんある。その主人公たちは、銅像になっていないからボクのページで触れることはない。それがものすごく残念だ。大友方の立花道雪、高橋紹運の銅像を誰か即刻建ててほしい(もし、建っているんだったら誰か教えて)。金持ちになってボクが建てるかぁ。
 それはそうと、九州征伐を終えた秀吉は天正15年(1587)に筥崎宮に本陣をすえ、荒れ果てた博多の町並みを回り、再興を命じる。実質的には石田三成が現場監督となって(だったと思う)、島井宗室や神谷宗湛といった豪商が手がけた。
 博多祇園山笠では町ごとに山笠をかく。その1単位を「流(ながれ)」という。流という単位は、太閤町割で形成された町を「流」と称した名残である。
 国際貿易都市で、博多織や酒、刀などを生産する工業都市ででもあった博多は、大名たちが争奪し、その戦乱で荒れ果てていた。いくら博多商人が金持ちとはいえ、日本中の金銀山のオーナーだった秀吉にはかなわない。金持ちオーナーにインフラを整備してもらい、そのお礼として貿易の利益のおいしいところを吸わせてあげるという約束があったのだろう。戦乱の中では、博多祇園山笠なんていうお祭りは出来なかっただろうから、太閤さんの博多復興で博多の山笠が復活したといっても過言ではない。博多では太閤人気が高かったというのもうなづける。
博多の再興、ありがとうございます。
信長に猿だけではなく、ハゲネズミだとか散々に言われる若き日の太閤さん