主君の織田信長が本能寺に倒れ、明智光秀を討って信長の後継者になった秀吉は、天下統一へ動き出す。中国の毛利を外交的に臣下に加えると、次は九州。
九州征伐をした直接のきっかけは、大友宗麟からの救援依頼だった。「正式に守護を任じられた我が領地に島津が攻め寄せて来ています。助けてください」というような内容で、いい大義名分にはなった。
ボクは太閤秀吉の九州征伐の様子にはほとんど関心がない。25万の大軍団がやってきたのだ。島津がいくら強かろうと、勝負になるはずもない。5ヶ月で勝負はついてしまう。いや、5ヶ月も戦い続けた島津はやはり、ツオイというべきか。
ただ、すばらしいエピソードは周辺にたくさんある。その主人公たちは、銅像になっていないからボクのページで触れることはない。それがものすごく残念だ。大友方の立花道雪、高橋紹運の銅像を誰か即刻建ててほしい(もし、建っているんだったら誰か教えて)。金持ちになってボクが建てるかぁ。
それはそうと、九州征伐を終えた秀吉は天正15年(1587)に筥崎宮に本陣をすえ、荒れ果てた博多の町並みを回り、再興を命じる。実質的には石田三成が現場監督となって(だったと思う)、島井宗室や神谷宗湛といった豪商が手がけた。
博多祇園山笠では町ごとに山笠をかく。その1単位を「流(ながれ)」という。流という単位は、太閤町割で形成された町を「流」と称した名残である。
国際貿易都市で、博多織や酒、刀などを生産する工業都市ででもあった博多は、大名たちが争奪し、その戦乱で荒れ果てていた。いくら博多商人が金持ちとはいえ、日本中の金銀山のオーナーだった秀吉にはかなわない。金持ちオーナーにインフラを整備してもらい、そのお礼として貿易の利益のおいしいところを吸わせてあげるという約束があったのだろう。戦乱の中では、博多祇園山笠なんていうお祭りは出来なかっただろうから、太閤さんの博多復興で博多の山笠が復活したといっても過言ではない。博多では太閤人気が高かったというのもうなづける。