Shinichi Nabeyama
Shinichi Nabeyama
1972年3月30日、千葉県船橋市で生まれる。4歳の時に南米パラグアイに移住するが、詐欺事件の被害者となり一家は一文無しとなる。父親は自給自足の農業、万屋などをやり最後は首都アスンシオンにある日本語学校の校長をやり5年間のパラグアイ流浪生活が終わる。
’81年帰国。東京都立川市、埼玉県越谷市、春日部市 千葉県印旛郡で少年青年時代をすごす。 小学5年の時、ゆでたまご の『キン肉マン』など漫画に夢中になる。小学6年の時、藤子不二雄の『まんが道』に感動し、古本屋通いがはじまり、藤子不二雄、石森章太郎、手塚治虫などの他たくさんの漫画を読みあさる。そして漫画を描き始める。週間少年ジャンプ他、漫画雑誌を毎週読む。
’88年中学校を卒業後、文化学院芸術専門学校に入学する。内田伸輝と出逢う。在学中に 黒澤明監督の映画を見て衝撃を受ける。以後雑誌ぴあ を持ち歩き、ありとあらゆるジャンルの映画を 見始める。土木作業員のアルバイトをやりながら油絵の具代と映画代を稼ぐ。内田と銀座の並木座などに通う。文化学院の文化祭を盛り上げるため 内田とコンビ名『ブラザ-ズ』結成、これがのちに映画製作ユニット『ブラザ-ズ企画』となる。
’91年TV番組の人形劇制作会社の制作部に就職。フジテレビひらけポンキッキの中の 鳥山明キャラクタ-デザインで、素晴らしい声優の方達が豪華競演していた『アップルポップ』、 NHK『英語であそぼ』、TV埼玉『お話かざぐるま』他の演出助手を担当。演出も経験する。高田馬場の録音スタジオで日本に来ていた ジムジャ-ムッシュと男子トイレで一緒になり感動する。 この時のちに自主制作映画を撮る 植松淳、関乃介に出逢う。TVの仕事をしながら、学生生活を続けていた内田と共に 自主制作映画『アルバイトロ-ド』(’91 ブラザ-ズ企画)、『狂人の森』(’93 共同制作、出演/竹田雅則 他)を作るが、目指していたPFF(ぴあフィルムフェスティバル)にも落選してしまい日の目を見ずに終わる。映画への思いと疲労で肉体が限界に達し’93年暮れ、退社。
会社をやめ三ヶ月ほど実家に閉じこもり ビデオでひたすら映画を見ていたら『おまえはもう働く気が無くなったのか!!!!!』と鬼より怖い親父に怒鳴られ実家を出る。
’94年、新潟県や群馬県で住み込みのアルバイトをしたりTV時代の恩師より演出助手の仕事をもらいながら 映画学校の学生だった内田の自主制作映画の手伝いをしたりする。このころ演技の世界から映画を目指そうと 映画監督でもある奈良橋陽子さんが主宰していたUPSアクティングセミナ-短期クラスを受講する。
’95年2月、神戸へ行き、5月まで阪神大震災ボランティア活動を行う。
6月東京に出てくる。土木作業員を昼夜やり 六畳一間のアパ-トを借りる。TVもまともに映らなくて、電車が通ると揺れる古いアパ-トで まさかここに12年間も住むとは夢にも思わなかった。再びUPSアクティングセミナ-を受講する。このころイメ-ジフォ-ラム16ミリ映画制作講座夏期も受講したり、内田と共に照明の牛場賢二さんにアルバイトをさせてもらう。土木作業員もつづける。
’96年、年末年始のみの泊まり込みでの24時間保安警備のアルバイトで年が明ける。
2月、UPSアクティングセミナ-で結成した仲間で初舞台、映画の舞台化だった。『ミットナイトラン』(演出/蒔野雅紀 出演/竹田雅則 他)。ヤクザ役で新宿のその道の人が通う床屋さんを探しだし パンチパ-マをかけ 特攻服を来て新宿歌舞伎町を歩き回り役作りする。内田がスチ-ルを担当する。舞台は 1日限りの公演だった。
その後も土木作業員をやりながら UPSアクティングセミナ-他、三つの演技セミナ-を掛け持ちで受講。演技セミナ-は アメリカの リ-・ストラスバ-グやサンフォ-ド・マイズナ-の系統だった。
4月、夏の本番に向けての昼間のリハ-サルに参加するため土木作業員をやめる。
6月〜8月舞台『いっそ、生きたい』(演出/大村昌泰 出演/小野田良 他)。易者役で 役作りのため新宿の易者さんの家まで行き一晩伝授してもらう。小野田良さんの演技に感動して涙を流す。この時期 日本テレビのドキュメンタリ-番組の仕事をしていた内田が来て同居生活を三ヶ月ほどする。
夏の舞台の途中で貯金が底をつき、築地青果市場で働き始める。夜から朝にかけて働き、そのまま稽古に行き夜舞台本番、舞台の後再び市場で仕事という過酷な日々がつづく。夏の舞台が終ったころ、築地に行く途中で腹痛を起こし動けなくなり救急車で病院に運ばれ、驚いた母親が実家から駆けつけてくる。
このころは きつかった。市場で ジャガイモをダンボ-ルで一箱買って それで一ヶ月食いつないだり 市場で売り物にならない キャベツを かじったりした。
12月、自主映画『狂人の森』で共に汗をかいた 竹ゾウ君(竹田雅則)が カ-ル組を旗揚げし誘われて参加。『a boy』(脚本・中島淳彦、演出・竹田雅則)。自ら命を断ってしまう高校生の役で とにかく精神的に自分を追い込み 大変だった。最後は『顔が青白いよだいじょぶか』と言われる。この時、内田が舞台監督と劇中映像を担当する。『a boy』は好評だったが カ-ル組 最初で最後の公演となる。
’97年、公演一ヶ月前の舞台の演出をしていた テルさん(大星輝宗)に頼まれ演出助手を担当す る。出演者は6人中5人が関西出身でほとんどが初舞台でパワ-みなぎる人たちだった。
時間がなくとにかく走り回る。
2月『ジャングルブック』(演出/大星輝宗 出演/村井克行 他)公演。
内田に頼んでスチ-ルを担当してもらう。劇場のロビ-に内田の撮った役者の人達の写真を飾る。
夜から朝にかけて築地青果市場で働き 帰ってきては映画を見る日々がつづく。
舞台からは遠ざかる。少し疲れたのかもしれない。
10月 役者仲間で当時、助監督をしていた ケンちゃん(加藤健二)に誘われ自主制作映画『TRUTHS:A STREAM』(監督・槌橋雅博 第50回ベルリン国際映画祭 第11回ヴォルフガング・シュタウテ賞特別賞受賞)の長野県富士見町入笠山ロケで15日間山に入り美術担当の久野さん と二人でひたすら枯れ木を集めてセットを作る。黒澤プロ出身の撮影の人にほめられて感動する。
山を降りた後 築地青果市場をやめ 現在も11年続けている建築現場での過酷な肉体労働『荷揚げ屋』に入る。
’98年 年末年始のみの警備巡回のアルバイトで年が明ける。
5月 ひどい腰痛で荷揚げが出来なくなり仕事を休む。休んでいる間、本をたくさん読む。
二ヶ月経ち動けるようになったので 体を鍛え直すために ヨネクラボクシングジムに通い 保養施設のプ-ルの監視員のアルバイトを始める。このころ父親に連れて行かれた 『ハガキ道』の坂田道信先生の話に感動、またその時出逢ったイエロ-ハットの創設者である鍵山秀三郎さんより 数冊の本を送って頂き感動、そしてその送っていただいた本の著者である半田正興さんとの交流を通じて、絵手紙を描き始める。
9月 黒澤明監督が永眠する。
10月、再び テルさんに頼まれ舞台『Funny day』(演出/大星輝宗 出演/村井克行 他)の 演出助手と脚本の手伝いもして 少しだけ出演もする。ラストに登場するヒットマンの役で再び パンチパ-マをかける事となる。
舞台が終わったころ渋東シネタワ-他にて 黒澤明監督追悼上映にて25作品を見る。毎日映画館に通う。上映の休憩時間に映画館に飾られている黒澤明監督の写真を眺める。
’99年 1月から体力も戻ったので休んでいた 荷揚げ屋を再び始める。
6月でヨネクラジムをやめる。夏はプ-ルの監視員をやる。絵手紙を描き続ける。この年出した枚数は822通。
2000年1月,産経新聞夕刊『あなたへ絵手紙』コ-ナ-に絵手紙が掲載され喜ぶ。
5月荷揚げ中に骨折して仕事が出来なくなる。 そこへしばらく会っていなかった 内田より ハガキが届く。そのハガキを見てしばらくして再び内田と映画を撮りたいと思う。
埼玉県の当時、内田が住んでいた志木市へ行き再会する。再会した時 喫茶店のような所で
雑誌ぴあ の PFFのペ-ジを開き 『再びPFFを目指そう』と熱く語った。すると内田は
すぐさま アパ-トに帰りビデオカメラを持ち出し撮影を開始した。ここからが 長い二人三脚の
撮影の始まりであった。ブラザ-ズ企画第2作目!ドキュメンタリ-映画『えてがみ』の撮影は この日より始まった!
6月に 舞台や演技セミナ-で一緒だった、よしたけ がアパ-トにやって来て同居生活が始まる。当時 よしたけ は眠れないと 言って 数種類の薬を飲んでいたが トレ-ニングジムヘ
連れて行き一緒に運動したり ひたすら 外を一緒に歩いたりしたら 夜はぐっすり眠る様になり 最後は薬も飲まなくなる。これは過酷な荷揚げ仕事から学んだ事である。肉体がクタクタに
疲れると、何も考えずに眠れるのである。
夏はプ-ルの監視員をやり荷揚げ屋にも復帰する。
9月久しぶりに竹ゾウ君に再会して渋谷円山町の祭りに参加、内田も撮影する。神輿の後 恒例の日本酒の一気により 記憶を失い吐血し 目が覚めた時は病院のベットで紙オムツをして点滴が打たれていた。救急車を手配した 内田は さぞかし大変だった事だろう。内田は病院での様子も見事に撮影していた。入院するも お金がなく 2日間で無理矢理 退院させてもらう。
同居していた よしたけは薬も飲まなくなり元気になった。 よしたけ は『もう自分の力でやって行ける』と言って10月の終わりに アパ-トを出て実家に帰って行った。
10月、内田と小津安二郎監督のお墓参りに行く。ひたすら 絵手紙を描き 内田との撮影もつづき12月31日渋谷でのカウントダウンも撮る。この年出した枚数は 1187通。
2001年 1月1日 内田と渋谷でのカウントダウンを撮影したあと そのまま鎌倉へ行き朝9時半まで大仏の絵を描き続ける。あまりの寒さに内田は途中で休憩しに消える。その後 黒澤明監督のお墓参りをして帰る。前日の夜9時から撮影していたので 帰りは フラフラになって帰る。
荷揚げをやりながら 絵手紙を描き 内田と撮影する日々が続く。
6月ケンちゃんが 花組芝居の劇中で流れる映像演出をやる事になり スチ-ルを担当する。
6月の終わり仕事仲間であり 先輩肌で良くしてもらっていた 渡辺さんが 荷揚げ中に亡くなる。31歳であった・・・・・。
夏は プ-ルの監視員をする。この年出した枚数は705通。
2002年1月インデックス大阪で『JASPEX2002』において絵手紙が展示されるため 内田と大阪へ行く。大阪で撮影。
3月下北沢で 絵手紙(似顔絵)の初個展をする。個展で展示した物を小冊子にするため、デザインの専門学校に通っていた 酒井君にデザインを頼む。酒井君は学校のPCを使い デザインしてくれる。
4月〜6月 関君が当時 えいぞう屋IPPOをやっていたり内田や徳田君も撮影編集技術を持っていたので『GTS854』『WasH』『山下剛史』 3組のライブ撮影の企画をする。無料で撮影編集して ビデオパッケ-ジに完成させて バンドの人達に納品した。イラストやタイトル文字も担当する。
5月人形町の広告会社の人が 小冊子を作ってくれて完成 初回200部作る。内田との撮影続く。
8月荷揚げ屋1000現場越える。
10月編集に突入する内田に生活費5万円を寄付しすべての貯金を使いはたす。
11月2日ついにドキュメンタリ-映画『えてがみ』が完成する。この年出した枚数は553通。
2003年1月5日、11日『えてがみ』の完成試写会を志木で開く。最初のお客さんは85人だった。
『えてがみ』は幸先良く松田彰監督が主宰する『夢の祭PRESENTSインディペンデントなCinemaカ-ニバル』の3月上映が決定する。
上映に向けチラシ、ポスタ-制作、展示パネルの準備など動き回る。
チラシは広告会社で働いていた のまちゃん(野間由希江)に頼み、特大ポスタ-は広島からバイクで東京に来た バイク雑誌の編集の仕事をしていたスザ-マン(洲澤直樹)に頼む。スザ-マンは美大を卒業後 バイク雑誌の会社に就職するまで一緒に荷揚げをやっていた。スザ-マンと池袋、新宿、渋谷とスザ-マンのカメラで写真撮影しながら歩き回り 渋谷でスザ-マンがポスタ-の全体像のアイデアを思いつく。スザ-マンの会社のパソコンで仕事の合間に徹夜で制作されたポスタ-は大迫力だった。のまちゃんのチラシも素晴らしかった。絵手紙、似顔絵の展示もする。
『夢の祭』制作の さいとうりか さんに頼まれ この映画祭のタイトル文字も墨で書く。
劇場で初めて ポスタ-を見た 内田は驚いていた。
そして映画祭が始まったら3月の8日間 毎日 時には主宰者の松田監督よりも早く行き 劇場の掃除をする。とにかく昭和初期に建てられた中野光座は汚れていたので 毎朝6時から掃除をした。ここで初めて志しを同じくする 自主制作映画を作る人達に出会い刺激を受ける。のちに共に制作する事になる 仲間にも ここで 出逢ったのである。
4月、夢にまで見たPFFに入選する。入選報告を内田から聞いた時、内田の声は震えていた。『狂人の森』から10年が経っていた。
5月イメ-ジフォ-ラムでも上映される。
6月小冊子を 200部増刷する。この年から荷揚げ屋の仲間で 渡辺さんの お墓参りをして ご両親の家へ行くのが 恒例となる。
7月 内田と二人で 小津監督、黒澤監督の お墓参りをして PFF入選報告をする。
第25回ぴあフィルムフェスティバルは 夢のような時間だった。興奮した。会場はよく映画も 見ていた日比谷シャンテである。出来る限り会場に足を運んだ。 毎日 内田とディレクタ-の荒木啓子さんを見つけては 挨拶した。他の入選した人達と交流した。『えてがみ』は審査員特別賞を受賞した。幸せな時間だった・・・だが、授賞式後のパ-ティ会場でのある出来事が きっかけで 内田が逆上してしまい なだめに入ったら逆に決別宣言をされ衝撃を受ける。とんだとばっちりで、しばらく頭に血が昇る日々が続く。
映画祭が終わり一週間後にはCinemaカ-ニバルで出逢った 石倉くん(石倉慎吾 監督)の現場で撮影の手伝いをしていた。この時、役者、赤穂真文に出逢う。
『えてがみ』はドキュメンタリ-だったけど、この経験をいかし再び役者を目指す事に方向転換する。
8月に石倉君の所でスタッフをしていた ペ-ジャ(中島良 監督)の『Basket ball life』に出演。ペ-ジャは『えてがみ』を愛していた。台風の影響残る強風の中での撮影だった。
石倉君の渾身の長編『光の道』出演。
9月 PFFで2003で一緒だった 『あのコがいねえ』を監督した高柳元気さんに誘われ 高柳さん主宰のイベントの司会をやる。司会は初めての経験で緊張するが 楽しかった。
10月 第18回国民文化祭やまがた2003ドキュメンタリ-映画フェスティバルにて『えてがみ』上映。小口詩子さんに出逢う。初めての山形の映画祭は楽しかった。
荷揚げをやり休日は石倉君の撮影手伝いをする。
11月1日(土)内田と共に新宿ミラノ座にて東京国際デジタルショ-トアワ-ド600秒コンペティションにて高柳さんの『真夜中の散歩』(高柳元気 監督)が上映される。新宿ミラノ座の度迫力巨大スクリ-ンで見た『真夜中の散歩』は素晴らしく、そして誇らしかった。上映が終わってすぐに
内田と名古屋に向かう夜行バスのバス停に向かう。
高柳さんの上映で興奮が覚めやまぬ中、名古屋PFF上映に向かう夜行バスの中で 『実はやりたい企画があるんだが』と内田から話を持ちかけられる。決別宣言されていたので意外だったが話を聞く。当時 内田は石倉くんの 自分の恋愛経験を映画に反映させて 映画を作る事に共感を得ていて 『俺の恋愛映画をやりたいんだ』と内田は言う。恋愛映画は ぜひやりたいと思っていた。名古屋では荒木さんが個展本の販売を計画してくれて感謝する。
名古屋から帰り、荷揚げをやりながら 石倉君の手伝いをする。
このころ関くん(関乃介)より長年制作していた『あるべらえずうんべると』の未完成版を見せられ意見を言う。関君はもう何年も制作を続けている。
第4回TAMA NEW WAVEにて『えてがみ』上映される。朝から内田と全作品を見て映画祭を楽しむ。素敵な映画祭だった。
小冊子を500部増刷する。 岡本泰之監督『ミルクマン2』の撮影に一日だけ参加、ゾンビ役で出演する。
12月1日 新宿の喫茶店で 内田と二人で最新作、恋愛映画『かざあな』の打ち合わせ。どうゆう スタイルで撮影するかを話合う。
12月7日テスト撮影。スケッチブックを持ちひたすら夜の町を歩く姿を内田が撮影する。この時 服装と小道具が決定する。
荷揚げで行った現場先で突然ひらめく。内田のイメ-ジする女性を Cinemaカ-ニバルで出逢った 秋桜子さんが ピッタリで人柄も大変良く感じた事を 現場の休憩時間に電話で内田に伝える。内田も同感したようですぐ動き 12月9日には 新宿の居酒屋で 秋桜子さん、山内洋子さん、内田と4人で 顔合わせ。山内さんもCinemaカ-ニバルで出品していた監督で、内田の一押しで出演をお願いする。秋桜子さんには『えてがみ』のビデオと、ラブレタ-を書くつもりで気合いを入れて書いた手紙を渡し、その後、出演OKをもらう。
テスト撮影を3日間ほどやり 神戸PFFへ舞台挨拶に行った時に 六甲山に行き 撮影、ブラザ-ズ企画第3作目『かざあな』クランクインとなる。ここから再び長い撮影になるとは誰が予測できたであろうか・・・・
このころ山形で出逢った小口詩子さんの紹介で早稲田芸術学校の学生である 山口政義さんを 紹介され 山口さんの卒業制作作品に出演する事になる。
12月31日浅草にて 年越し撮影『かざあな』。みかちゃん(秋桜子 役名で、みかちゃんと呼ぶ)、ようちゃん(山内洋子)、内田、あとこの時 映画評論家のドイツ人アレックスもいた。
この年出した枚数合計869通。
2004年1月1日、年を越して『かざあな』の撮影。4日には山梨県甲府で山口さんの作品の撮影。荷揚げをやり 休日自主映画の撮影をつづけて来て無理がたたったか 1月の終わりに吐血して 一週間ほど仕事を休む。血の量に びっくりして もうダメかと思う。
2月に『地図のない坂道』(山口政義 監督)が完成し、早稲田大学中央図書館にて上映される。
荷揚げをやりながら『かざあな』の撮影が続く。
3月荷揚げの現場で 他の搬入者の荷物が倒れてきて頭に直撃する。吐き気がして3日間仕事を休む。以後しばらく気分の悪い日がつづく。何の保証もない荷揚げ屋は危険な仕事である。
『えてがみ』がSKIPシティ国際Dシネマフェスティバル・コンペティション長編部門で上映される。入選作品全部を見て映画祭を満喫する。この時、映画評論家の西村雄一郎さんが飲みに連れて行ってくれて 内田と共に黒澤明監督の生前の話を聞く。感動する。同時期、高柳さんの主宰する『あのコがいねえDVDレコ発上映会』でも『えてがみ』は上映される。
4月香港国際映画祭で『えてがみ』が上映されるため初めて香港へ行く。内田と香港で『かざあな』の撮影もする。夢のような7日間をすごす。香港の映画祭に行けたのも PFFのおかげである。
ドイツの映画祭でも『えてがみ』は上映され、中国、シンガポ-ル、韓国と上映されて行く。
石倉くんの『光の道』クランクアップ。
高柳さんの友人である山中直樹さんのボクシングの試合を PFF2003『鳥籠』の木下くん(木下雄介 監督)と見に行き感動する。
5月の連休を利用して『えてがみ』を愛するペ-ジャ(中島良監督)の『燃えつきた地図』に出演する。『かざあな』の撮影もある。高橋健一監督の『クロスカウンタ-』に出演、撮影が開始される。
6月『かざあな』『クロスカウンタ-』の撮影が続く。
7月1日下北沢トリウッドで『地図のない坂道』が上映される。この日 見に来てくれた松田監督より『お散歩』の元になるシナリオをもらう。
東京ビジュアルア-ツの山本真義監督『底』出演。
7月13、14、15の3日間で『お散歩』は撮影された。
撮影はCinemaカ-ニバルの時に一緒だった『ハズしちまった日』の飯野歩監督が担当。
監督は『夢の祭』松田彰5年ぶりの新作!!!この豪華顔合わせに感動した。しかも撮影機材が 自主制作の中では自分が経験した事のない物だったので 演技的に試せる事があり とにかく楽しかった。
また即興演技に関しては『かざあな』で毎日やっていたので そこへ松田監督の注文が入り さらに突き詰める事が出来た。時間もないので 撮影はどんどん進んで行く。やりたい事もやらせてくれる。この点も普段内田とやっていた事なのでだいじょぶだった。
違うのは現場に二人の天才がいる事だった。飯野さんも松田監督も決して大声を出すような人ではなく 静かな中にもの凄い緊張感を感じ 時には『何かを起こせ!』という目に見えない圧力も感じた。
松田監督は三日間という限られた時間の中での撮影のため かつてないほどに頭をフル回転させたという。自主映画で今まで積み重ねて来た事の爆発だったんだと思う。
そして競演した村田牧子さんが素晴らしかった。 反応がバンバン返ってきた。お互いの反応が反射してどんどん大きくなり 素晴らしい結果が出た。機材のワ-クショップ上映用の わずか数分の短編予定だった作品が のちに劇場公開まで行くとは 誰が予想したであろうか。
『クロスカウンタ-』撮影終わる。
8月中野ZEROにて『お散歩』試写会。面白かった。たしかな手応えを感じる。
『かざあな』撮影続く。 東京ビジュアルア-ツのワ-キ-(宮脇崇誌 監督)の『ヨウソ』に出演、神奈川県愛甲郡にある 素晴らしい日本家屋に3日間泊まり込み撮影する。ペ-ジャも応援で来る。出演というよりも、ほとんど助監督として動き回る。
9月、10月と『かざあな』撮影つづく。10月に出演して来た5作品が上映される。
『光の道』自主上映。東京ビジュアルア-ツにて『底』、『ヨウソ』。山梨自主映画祭にて 『Basket ball life』,『地図のない坂道』(グランプリ受賞)。
11月6日(土)『光の道』他で素晴らしい演技をしていた赤穂くんに『かざあな』出演を頼む。
映画のためなら生活のすべてを犠牲にしてしまう赤穂くんは凄い。
11月20日(土)代々木のギャラリ-で『えてがみ』上映。
11月21日(日) 第14回TAMA CINEMA FORUMにて制作中の『かざあな』予告編が上映される。
12月14日(火) 早稲田大学の学生だった藤井陽子さん主宰により『えてがみ』が早稲田大学 学生会館で上映される。木下くんも来てくれる。
12月半ばより 仕事を休み 石倉慎吾監督の『ALICE』役作りに入る。石倉君も仕事を休み取り組む。12月の終わりは石倉君と毎日テスト撮影する。年末は撮影場所でもある赤穂君の部屋に石倉くんと毎日いる。
2005年1月1日有楽町にて『ALICE』撮影で年が明ける。徹夜で撮影する。1日から11日まで毎日のように撮影が行われる。撮影が続く中 リトルシアタ-にて 松田彰2WEEKS『お散歩』上映される。新しくつけられた音楽に感動。音楽を担当した斉藤哲也さんやFIVEDの人達に出逢う。
2月 neoneo坐にて『えてがみ』上映される。
2月、くらちょさん(下倉功 監督)の映像個展のポスタ-を書く。
3月5日(土)ついに撮影が続いていた『ALICE』クランクアップ。仕事を去年から休んで撮影に打ち込んだため貯金が357円になる。
再び荷揚げ屋を始める。そして再び『かざあな』の撮影を再会する。
3月23日(水)『地図のない坂道』が一日だけ、高田馬場の早稲田松竹で上映される。
3月27日(日)池袋scum2000にてポスタ-を書いた くらちょさん の『下倉功・個展ご挨拶』で『シルク』(オリジナル版)を見る。240分の長尺だったが素晴らしかった。最後までまったく飽きなかった。『映画祭などに出してもっとたくさんの人に見てもらった方がいい』と言う様な話を くらちょさんにするが 『これ以上どうしたらいいか・・・』と悩んでいた。 その後 しばらくして 内田を紹介する事になる。
家賃を払い 食べなければならない。ひたすら荷揚げをやる。
7月PFF2005にて 第15回PFFスカラシップ作品『水の花』(木下雄介 監督)が上映され、PFFアワ-ドでは『あるべらえずうんべると』(関乃介 監督)がグランプリを受賞する。関くんは長期間にわたって制作をつづけ苦労していたので 本当によかったと しみじみ思う。
8月韓国ソウルフリンジフェスティバルにて『お散歩』上映される。
10月にかけて『お散歩』が海外の映画祭で入選し始める。
Born in the5にて『ALICE』上映。
11月『お散歩』が第6回TAMA NEW WAVEコンペティションにて グランプリを受賞する。初めて ベストキャラクタ-賞も受賞する。長年自主制作で苦労して来た松田監督の最高の笑顔を見る。特別賞は 『お散歩』で撮影を担当した飯野歩監督の『ガソリンゼロ』。まさか3人で舞台にあがるとは 夢のようだった。審査員は佐藤佐吉さん、高橋陽一郎さんだった。二人共、朝から全作品を客席で見ている姿を今でも忘れない。
12月久しぶりの『かざあな』撮影。この年より あまり絵手紙は書かなくなる。
2006年1月、内田が新たに編集した『シルク』(下倉功 監督)を見る。素晴らしいと思う。
2月、一泊二日の『かざあな』長野ロケ。内田と二人で よく怪我もせずに帰ってこれたと思う。長野の過酷な撮影で『えてがみ』から内田が大事に使っていた撮影用カメラ壊れる。
3月、新宿ゴ-ルデン街で内田が監督した『温もり』上映。
6月、内田の新しいカメラで『かざあな』撮影。 木下くんのPFF先付け映像に出演する。
7月、内田が編集を担当した『シルク』(下倉功監督)が第15回東京国際レズビアン&ゲイ映画祭で招待上映される。
PFF2003で一緒だった湯浅さんの『まばたき』(湯浅弘章 監督)がPFF2006に入選したので見に行く。自分達も頑張らねばと思う。
松田監督の努力が実りついに『お散歩』がシネマア-トン下北沢で劇場公開される。映画雑誌にも一般映画と同じ様に並んでいた。この光景をどれだけ 待ち望んでいたのだろう。それは ぴあを片手に映画館に通っていた十代のころからかもしれない。
8月12日『かざあな』埼玉県上尾ロケ。朝6時40分上尾駅に到着。バスに乗り、その後、内田が用意してくれた自転車3台で移動しながら撮影。この日ついに クランクアップとなる。最終日、はじめて プロカメラマンの ぶんちゃん(斉藤文)がスチ-ルで参加してくれる。撮影は順調に進み 午後2時には 上尾駅前のパスタ屋さんにて3人で乾杯していた。
内田と鎌倉へ行き 小津監督、黒澤監督、木下(恵介)監督のお墓参りに行く。
9月、内田から送られて来た『かざあな』の初期段階編集バ-ジョンが送られてくる。数回見て意見を言う。電話で3時間以上話す。この作業が完成までつづけられて行く。
11月『かざあな』ナレ-ション録り。この年 荷揚げ2000現場越える。
2007年1月、かねてから希望していた『お散歩』の音楽を担当していた 斉藤さんから連絡が入る。
2月、内田と斉藤さんが電話で話す。その後、斉藤さんが『かざあな』の音楽を担当してくれる事になり内田と喜ぶ。
4月、12年間住んだ古い六畳一間のアパ-トを出る。家賃は47000円だった。12年間、同じ値段だった。老夫婦の大家さんだった。毎月直接家賃を払いに行った。アパ-トは玄関もなくドアを開けると部屋の畳だった。電車が通ると揺れて、人が廊下を歩く音で目が覚めた。夏はフトンに人形の汗の痕が出来るほど暑かった、冬は隙間風で震えるほど寒く五感が研ぎすまされた。雨の日は雨音も激しく聞こえた。洗濯機が置けず、コインランドリ-代を浮かせるために、荷揚げの作業着は手洗いした。アパ-トのTVのアンテナが悪くTVはほとんど見なかった。おかげで、ビデオやDVDで映画に集中できた。廊下でたまに野良猫とすれ違った・・・ここで『えてがみ』『かざあな』も撮影された。畳はやぶれ、やぶれた所に 相田みつお のカレンダ-の切り抜きを 貼付けていた。
最後精一杯掃除して、12年間に感謝する。アパ-トよ、十二年間ありがとう。
5月、ゴ-ルデンウィ-クの終わり 腰に激痛が走り救急車で運ばれる。尿管結石ではないかとの事。
7月、健康診断再検査となる。 ひたすら荷揚げを続ける。
8月、『かざあな』完成する。完成まで5年、あきらめない、あきらめきれない、執念と情念の結晶が誕生した。テ-プを止める時は テ-プチェンジをする時。納得するまで撮る。何かが起こるまでやる。何回でもやる。終電がなくなっても撮る。泊まり込んでも撮る。反射して、反射して、反応しあう、映像のハンタ-内田が、凶暴な獣である 役者を追いつめる。野生獣のごとく画面をあばれまわる姿を見ていただきたい。4年間かけて制作した恋愛映画『かざあな』!ここに誕生する!!!
11月18日、第8回TAMA NEW WAVEにて『かざあな』グランプリ、秋桜子さん主演女優賞受賞。内田、赤穂くんと朝早くから行き映画祭を楽しむ。3回もお世話になっている映画祭である。感謝。審査員が『映画愛[監督編]』の著者 武藤起一さんだった。1993年に発売当時に買った この本は映画愛に満ちあふれ 住み込みのアルバイトに行く時も 持って行く一冊だった。いまも大事に持っている。サインを貰おうと 映画祭に本を持って行くが 緊張してもらいに行けなかった。
映画祭の一週間後に彼女と結婚する。
結婚してすぐ 荷揚げの現場で怪我してしまい 仕事を休んでいる間、京都、奈良に新婚旅行に行く。
2008年1月、荷揚げ中に腰痛になり2週間程休む。仕事量を減らす。
2月、腰痛で仕事を休んでいる時に、そろそろパソコンを購入せねばと思うが、パソコンに関する知識がまったくないので『お散歩』の松田監督の家に行き、相談して、指南してもらってから 買いに行く。
3月30日の 誕生日に ひろしま映像展2008にて『かざあな』が『グランプリ』『演技賞』『企画脚本賞』の3冠受賞していた事を後日 聞いて 喜ぶ。感謝。
4月 PFF2003で一緒だった 筧昌也監督の『死神の精度』(出演/金城武 他)を見る。筧さん凄い。
『かざあな』が第30回ぴあフィルムフェスティバルに入選した!。ついに・・・5年ぶりである・・・長かった。内田の声は震えていた・・・・・。内田と喜ぶ。
5月、荷揚げ帰りに駅で転倒、足を靭帯損傷で松葉杖となる。松葉杖の人の気持ちがわかる。歩くのにも時間がかかる。今まで せかせかと生きて来た。ゆっくり歩く事の素晴らしさを知る。
インタ-ネットで 1970年代南米パラグアイで起きた詐欺事件の内容を初めて知り、4歳の時、
パラグアイで、一家がなぜ一文無しになったのか理由を知る。
騙され一文無しになった僕の両親は 事件の犯人を恨んでいない事を誇りに思う。運命を受け入れて 生き抜いたのだ。毒蛇や毒蜘蛛(タランチュラ)が普通にいる所で よく怪我もせずに生きて帰れたと思う。
ホ-ムペ-ジを作りはじめる。過去の資料をダンボ-ル箱から、ひっぱり出して制作する。
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Photo 鍋山

鍋山晋一(なべやましんいち)