近藤教授ブログ

 
 

 私の立教大学法学部時代の恩師・故高畠通敏教授は「市民政治」の提唱者ですが、その定年退職の際自分は鶴見俊輔や久能収のように哲学者が行き倒れになる道は選ばないことにしたよと言って、駿河台大学に移りました。勿論ここで言う「行き倒れ」とは実際にそうなるとは限らず、人生如何に行くべきかにつき頭の体操をしているに過ぎない。これは政治学者(個人・才能)であることと大学教員(組織・職業)であることの対比で考えると後者で行くことであり、具体的にはよき教師たらんとして自己形成をはかるとの宣言だったと思います。師を思い出すことで私の様な無能・非才な凡人にとっても、高畠が身近に感じられるようになるのを感じます。大袈裟にマックス・ウェーバーでもありませんが、この『職業として・・』の考え方で行くと、私が勤務先大学で授業するのはファイナンス(財務・金融)ですので、ブログもまずそれを書くのが組織・職業として相応しいと考えます。が、その辺については丸山さんがこのHPにゼミ合宿の写真等を掲載されたようですので、今回は夏休みの終りでもあることに甘え個人的な読書について少し書かせていただく次第です。


 文化果つる地などと言うと舌禍になるかもしれません。しかし自分が幼少過ごした感想でそう呼んでいるのであるから個人だけの心象に過ぎず罪は重くないと思いますが、この夏そういう生来非文化的又はムクツケキ北海道育ちの私がかつて読んだことのない未踏の分野の読書を進めてくれる、洗練の極致にある文化センスの方がありました。本は2人の著者・3作にわたります。


 まずコロンビアのノーベル賞作家ガルシア・マルケス。いやあ、これには参りました。刈っても、刈っても、繁茂してくる暑い土地の植物園みたいな話。これ「繁茂」であって決して私の名前である「順茂」のような流れの順番を気にしたり本のページを意識したりするものではありません。従来読書が社会科学系に偏っている私の思考法を占めていたのは因果応酬・論理必然といったストーリー性。これはそうではまったくなくて、人間の生態を永らく豊かな視点からまるごと記述する感性。またそれに関するエンタテイメントの面白さ。『百年の孤独』と『これらの時代の愛』を読みましたが、特に前者はこの感が強く、むしろtoo muchの感あり私が受容できるキャパシティーを超えているというか、ついて行くのが大変でありました。後者の方がまだ枠組みが多少限定されており、観念論の間口が狭く奥行きも浅い私には、こちらの方がまだ受け入れ易い感触でした。


 これらの読後感想としては、ただただ自分の観念が如何に卑小であり、私が人間性も小人物又は小冠者でしかないかを感じさせられた次第です。実は、私の様な年令になってからこういう知らない世界に触れるのは、読むだけでも少し怖い気がしています。いまさら、ストレイ・シープでもありませんが。おっとぉ教師として一言。東京工科大学の院生・学生の皆さんは、「ストレイ・シープ」って読んだことあるかな? 夏目漱石の小説『三四郎』で確かみねこさんという名でしたか、が言った言葉で「迷える子羊」と訳されています。

2008年10月1日

夏の読書(その1)

 
 
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