資料9 佐野大和著「特殊潜航艇」抜粋
資料9 佐野大和著「特殊潜航艇」抜粋
資料 佐野大和著「特殊潜航艇」抜粋
第15章 瀬戸内の落日
八月十五日
当時、沖縄を完全に手中におさめた敵がいよいよ本土に進攻作戦を開始するとすれば、おそらく九十九里浜か、または九州の宮崎海岸を上陸地点に指向してくるものと予想されていたので、瀬戸内西部の拠点たる大浦崎突撃隊は佐伯湾を経て高知県宿毛方面へ、同じく東部にある小豆島突撃隊は、紀淡海峡を経て小松島の南方、徳島県の橘湾方面へ、勢力を展開させておく必要があった。しかも八月の上旬に至って、北海道沿岸都市に艦砲射撃を加えた敵機動部隊が、東北三陸地方等を空襲しつつ、次第に南下せんとする形勢を示したのであった。
いよいよ小豆島突撃隊の全艇出撃の時がきた。決号作戦発動用意である。
故障、修理中の艇を除いて、可動艇にはすべて実装魚雷が装填され、充電、整備が完了した。
八月十三日朝、かめ屋旅館の裏庭から海岸につづく、小松林にかこまれた古江の丘の上で、別盃を酌みかわし、大谷司令以下隊員、島民の帽をふって見送る中を、落山大尉の六◯七号艇以下十隻の蛟竜は、三隻ずつか一隊となり、一艇また一艇と、橘湾の前進基地に向けて次々に出撃していった。
各艇は播磨灘に出ると潜航し、敵機の空襲を気にしながら、鳴門海峡ではいったん浮上、水上航走で渦潮を乗り切り、ふたたび潜航して一路南下、夕刻にかけて続々と橘湾に集結した。
橘湾は徳島県の東端にあたり、紀伊水道に向かって、幅六キロの湾口を大きく開いた泊地である。水深は十メートル内外、湾内にはウルメ島、高島、小勝島等、大小の島が点々と浮かび、すでに魚雷艇隊、震洋隊なども集結していた。小松島突撃隊の主力である。
その夜、小勝島の島陰に停泊した蛟竜隊は、魚雷艇隊の兵舎に同居し、翌日から「敵機動部隊出現」の報を待ちつつ、紀伊水道附近一帯の地形になれておくため、訓練と見張りをかねて、周辺の海上を歩きまわることになった。
橘湾の南端には、燧崎と蒲生田岬がちょうど二本の嘴のように平行して伸び出しており、この二つの岬にはさまれて椿泊の港がひっそりとしたたたずまいを見せている。湾口の幅は約千メートルで、やや狭いが水深も深く、両岸の山は二百メートルから三百メートルの高さがあり、周囲のひらけた橘湾よりは、敵機の空襲を避けるのに好適である。第一、魚雷艇隊、震洋隊等と同居していれば、所帯も自然と大きくなり、それだけ敵機に目標をあたえやすい。
蛟竜艇を山懐にはさまれた椿泊の泊地に移し、早急に魚雷調整場等の施設を建設すること等を計画した八月十五日昼前、突然「準士官以上、士官室に集合−−−−」の命をうけた。
死期なんてものは、いったん近づきはじめると、思わぬ速さで迫ってくるののだな−−−−などと考えながら、緊張して集合した艇長たちが士官室で聞いたのは、「敵機動部隊出現」の報でも、「出撃」の命令でもなく、こわれかかったような不完全なラジオから流れてくる、ほとんど雑音ばかりがガーガー鳴っている。聞きとりにくい玉音放送であった。
聞きおわっても、何のことかすぐには了解できず、艇長たちは不動の姿勢をくずそうともしなかった。
正直のところ、「忍ビ難キヲ忍ビ」とか、「国体の護持」などと、どぎれとぎれの言葉は「あくまでも困苦艱難に堪えて、国体を護るために奮発せよ」という、最後の激励の言葉とも受けとれたのであった。
しかし翌十六日、十七日の両日にわたって再三受けた命令は、「全艇基地に帰投せよ」であった。
荒れ狂って、何かの形で爆発させなければおさまらぬ憤懣と、その胸のうちに少しずつひろがりはじめた、虚脱感と、それぞれに複雑な心境の搭乗員をのせて、紀伊水道を北上する蛟竜隊の頭上に、今は久しぶりに敵機の飛んでいないまっさおな真夏の空が、むなしくひろがっていた。