マルセル・プルーストの『失われた時を求めて』
ドイツ現代文学の軌跡マルティン・ヴァルザー"Liebeserklärungen"から要約:

 

本は娯楽ではない。自分を掘り探る必然的行為である。呼吸や食事のように必要不可欠であり、呼吸よりも楽しくてたまらなくなることもある。マルセル・プルーストの『失われた時を求めて』(全13巻)は「楽しい」とは思えなかった。あの狭い社交界の貴族とスノッブ等が二つ程度のサロンを行き来する会話を追うどこが楽しいのだ?彼らの感情的摩擦からこれといった解決を見えたわけでもなく、異質な情事や葛藤はあるけれども、ストーリーの順位に特別な意味があるとは思えない。プルーストと比べて他の作家は『わかりやすい』。
普段我々が小説を読むときに働かせるメカニカルな記憶力が、プルーストを読むにあたって通用しない。筋を理解し、分析しながらオチを探すといった典型的な読書法を放置しなくてはならない。各シチュエイションに身を任せて読み進むと、プルーストの描写が自分の記憶に焼き付く。海や森の散歩、寝付けない時、夜遊び、身内が死ぬ時、医師との会話、これらが日常の自分と一体化する。「でもこの種の体験は他の作家を読んだときもあった」と思われるだろうが、プルーストは特殊だ。彼は事件や出来事を「身内の死」と片付けないのだ。例えば、身内が死んだあとの葬式に、叔母がブローチを襟脇につけていたとか、牧師が肝心な一言の直前にクシャミした、等といったディテイルから我々は出来事をイメージする。出来事自体に意味とか因果関係を作らないのだ。ミステリー小説の合法性、ハリー・ポッター的自我実現説の因果性が存在しない。
ゲーテの「過去の全ての出来事は我々の教養に役立つ」という説は、プルースト的かもしれない。プルーストは更に、「生起をすべて無差別に描写し、あるがままを記憶におさめ、無駄な意味付けを省きたい。現象をまるごととらえて一切の価値評価を避けるのだ」と付け加えている。

プルーストこそがプレシジョン(高精度)の王者だ!小説を書くということは彼にとって、英雄を生み出すことでもなければ手本を与えることでもなく、象徴的な対象や人種が登場するわけでもなく、もっと複雑なのだ。

プルースト以前の小説家は、時代、世代、人種と国の外的世界と内的世界を捉え、絶対的判断を下したり、普通の人間には探り得ない遠くの時代や世界や人物を、うんと近くまで引き寄せてくれる力を持つのだった。現実を自主的な芸術に仕上げる彼らは「神」的存在だった。主人公はわかりやすく、憧れの的、あるいは反面教師の的に例えられ、登場人物と自分を重ね合わせることもできた。プルーストの場合は違う。彼は「現実」とはこんなに単純ではないと言わんとする。「出来事の連続」以外の要素に注意を払わなくてはならないのだ。見渡しが利かないものを芸術的に糊塗するのではなく、現実を忠実に再現する、もはや「どうでもいい」ものは一つもないのだ、とプルーストは考える。
そもそも物書きの使命は現実をより正確に伝えること。あからさま、そして精密に描写する才能を持ち合わせたプルーストは最も物書きらしい物書きなのだ。 プルースト曰く、 閲歴を要約しても人格がわからないのだから、現実の描写も徹底的に客観視したい。我々は現実を自己愛、観念と習慣性の目で見ている。いつのまにかコンブレやバルベックが、我々の地元であるかのように自然で当たり前になってしまう。そんなプルーストだって、描写の限界を感じることがあり、そのことについても書いている。ある夕方、カップルと散歩していたときに、日没に感動した男女は次々と形容詞を発する。懸命に言葉を探すが見つからない話者は、こう悟った:
「目の前の現実が巨大過ぎると、情緒が的確な反応を示すことができない。現実が強烈になるにつれて、あるがままな『写真』として記憶に収めるのは難しい。日没の最中は無我夢中で言葉を失う。完全に日が降りた後に、あの瞬間を再現するしかない。もし忘れた部分があったとしたら、それはもはや経験したものではなくなる。」
良い作家は嘘を書いてはならない。正直である、ということは、精密であることと同じ意味をもつ。この点プルーストほど、正直で精密な作家はいない。彼がどれほど正直であったかというのは、ここにも現れる。
「我々が本当に覚えようとするものは、実際に覚えられるものとは限らない。周りから聞いた噂や意見、もとからあった仕来りや思い込みなどが混ざった『印象』は、本当の意味での印象ではなく、『幻想』に過ぎない。先入観抜きに自ずと湧き出る印象を信じることが現実に一番近い。」

プルーストを読んだ人間は、あらゆる場面でこのプルーストの説を思い出すだろう。友達の家で初めてバルトークのCDを聴かされたとする。既に十回も聴いて絶賛する友達は私が同じ様に誉める事を期待してこちらを見る。私はその曲の印象と、その曲を聴かされて追いつめられている状態に圧倒されて言葉が見つからない。印象的でなかったわけではない。一回目に印象を受けないものは二度目も三度目も印象を受けないままなのだ。むしろ印象は受けているのだ。ただ、聴いた経験がなければこのようにして友達に意見を追いつめられる経験もない。だからこのような時には、「ああ、良いね」などのお世辞を言うことしか他思い浮かばないだろう。一夜明けても記憶に残っていれば、少し冷静な感想が言えるだろう。同じバルトークを聴く回数が増えるにつれて記憶と知識が固まり、印象をまとめることができる。
もう一つ、他の作家の描写との大きな違いは、プルーストの中の登場人物は時と場所によってアイデンティティーを失うところだ。他の小説では、それぞれのキャラクターが特有の口調で話したり、その外見や内面が色んな角度から描かれているので、我々にとって想像し易いのだが、プルーストの場合、一人一人がそもそも自分らしさを持たないまま環境と時代に巻き込まれている。数百ページの枚数を占める程、主人公が愛した恋人のことも、別れて過去の人間になった時点で、全く違う人物のように写る。ある日、あのときと同じ海辺を元恋人が歩いたが、今やまったく「視界にも入らない」と書く。関係は滅びて生まれ変わる。かつて見えなかった物が目立ち、かつて最も美しかった物が実は醜かったことを教える。「記憶力」は、常に以前の「空想」と「夢のような想い出」を正すのである。プルーストの人物は最後迄、完成されていない。「これが○さん。いつも帽子をかぶっている人。学歴は○、○で働いて、○年にはこんなことがあった。なかなかいい人。」というふうにレッテル化するのは簡単だが、プルーストはもっと繊細だ。プルーストこそ、日常の現実との接し方の見本ではなかろうか。我々は他人と接するとき、その人の表面にあるオブラートのみ見てきたことに気づき、プルーストはそのオブラートを削ぎ取って中身をえぐり出すのである。
我々にとって、仕事仲間の○氏が前回どんなメガネをしてただろうと、「どうでもいい」だろう。○氏と自分との利害関係において最低5筒の「データ」さえ抑えておけば、他は「どうでもいい」。これが日常においての多くの人間が持つ実用的な人間関係なのだが、ここに見落としがある、とプルーストは言う。彼にはもはや「どうでもいい」ものが存在しない。

人はプルーストを読んだ後、これまでまるで意識が浅かった、と反省する。そして視力が激しく貪欲になり、見えなかったものまで隅々と見えてくる気がする。これまで意識の表面で生きてきた人が、プルーストによって人間の奥を知ろう、自分の無意識が意識化されて、これまでの忘れていたことが蘇ってくる。
強いてプルーストの欠点を探してみると、プロットが無いことかもしれない。とにかく13巻のあいだにたった二つのサロン、せいぜい三つの地名から離れない。数百枚にわたっても一カ所での会話か独り言が永遠続き、なんの転回もない。この数千ページの小説のオチは?突然、我々が女友達との会話で、「彼女はこの30分の間、3回”正直”と言った」等と数える自分があるだろう。それまで「どうでもよかった」人物と向き合って、相手の話を注意深く聞いて、以前には聴こえなかったところが「見える」ようになるだろう。喫茶店で注意深くコーヒーを注ぐ店員の動作、あるいは、駅員のアナウンスの仕方からジェスチャー迄が、近しく親しみ深く感じられるだろう。我々の記憶が祭りのように蘇り、一つ一つの日々の出来事の喜怒哀楽をより深く味わえるだろう。こんなとき、俗っぽいが一言で、「プルースト読者は得している」と思う。