サラノキの下で
サラノキの下で
一章
「島へ」
1
いつも通りの朝。
茶碗と箸を流しに投げ入れると、革靴のつま先を玄関に叩き付けながら瑞穂(みずほ)は靴を履いた。
「お母さん、行ってきます!」
遺影の母に向かってそう言うのも、もう日課。鞄を掴んでアパートを飛び出せば、鉄の階段が軽やかな音を立てた。
「瑞穂ちゃん、いってらっしゃい」
「おはようございます。行ってきます」
「気をつけてね」
隣に住む奥さんが、ゴミ袋を抱えて声をかけた。七時二十分。走れば、まだバスに間に合う。狭い路地を横切って大通りに出ればいい。駆け出した瑞穂のセーラー服の赤いリボンが大きく揺れた。
天野瑞穂(あまのみずほ)十八歳。
母を昨年の冬に事故で亡くしてから、一人暮らしをしている。当面の目標は高校卒業で、母の残してくれた少しばかりの蓄えと、保険金で生活に支障はないが、週に三回バイトもして学費を稼いでいる。奨学金さえ取れるのなら、大学に行きたいと夢もある。
『泣いてなんていられない』
それが瑞穂の口癖で、十分前に教室に入っているのをモットーだった。
「やばっ」
決まったバスに遅れそうなのは、よくあることだけれど、その日は何かが違っていた。点滅しはじめた信号を無視しようとしたその瞬間、見慣れぬ黒塗りの高級車が、彼女の行く手を遮るように止まったのだ。
「ちょっと、危ないじゃない!」
思わず、瑞穂はそう叫んだ。
文句を言いたくて言ったのではなく、考えるより先に言葉が出てしまったというのが正しい。下町の狭い道で、車と接触しそうな状況など数えきれぬぐらいある瑞穂は、そう言ってしまった後も、車の主は彼女など無視してさっさと行ってしまうと思っていた。それが普通なのだ。それが月曜の朝というものなのだから——。
けれど、その日は違った。車のドアが開いて、男の靴の裏が地面に着いたのだ。
——怖い人だったらどうしよう。
しかし、車から出てきたのは、三十代前半の男で、仕立てのいいスーツの光沢と、きちんとし過ぎているぐらいきちんとした眼鏡に、瑞穂は胸を撫で下ろした。しかし「天野瑞穂さまですか」と自分の名前を出され、すぐにまた別の不安が襲った。
「え、はい。そうですけれど」
曖昧に眉を寄せた瑞穂に、男は胸ポケットから名刺を出すと彼女に手渡した。
「失礼いたしました。私、幸村左近(ゆきむらさこん)と申しまして、弁護士をしております。お時間を頂いてよろしいでしょうか」
「すみません。今から学校なんです」
瑞穂は時計を見た。バスが来るのにあと三分しかない。
「学校までお送りいたしましょう」
それは、ありがたい申し出だったが、名刺一つで幸村の車に乗り込むほど彼女は無防備でもなく、得体の知れない男を前にどうしたらよいか分からなくなった。
「天野静子さまの御遺産の件でお話しなければならないことがあるのです」
「母の?」
「はい。とても重要なことなので、出来れば車の中でお話させていただきたいのですが」
そこまで聞いても瑞穂は幸村左近なる男を信用できなかった。母の残してくれた遺産といえば、貯金通帳に三百万円ほどがあっただけで、他にあるはずはない。小さな会社の事務職だった母が、娘を抱えて蓄えを持っていたことでさえ奇跡に思えたほどなのだ。
瑞穂は、だんだんと不安になった。もしや母は借金などを残してはいないだろうかと。幸村は借金取りには見えないが、そう思いはじめると、怖くなって瑞穂は後ずさった。
「幸村、乗っていただけ」
しかし後部座席の窓が少し開いて中の男がそう命じると、瑞穂は幸村に手首を掴まれ、逃げる機会を失った。危機的な時には叫び声すら出ないというけれど、本当にそうだった。
「さあ」と開けられたドアの中に押し入れられてしまった自分が、瑞穂は信じられなかったが、もうどうすることもできない。
瑞穂は観念して座席に縮こまると膝を揃えた。
「無理を申し上げてしまったようですね」
「あの?」
「六原(ろくはら)清重(きよしげ)と申します。今日は六原家当主のの名代で参りました」
中年の男に会った覚えなどないはずだが、瑞穂は見たことがあるような気がした。どこで?と頭をめぐらせているうちに、男の襟に付けられたピンに目がとまった。赤紫のベルベットに金の菊の紋。政治家だ。きっとテレビか新聞で見たのを憶えていたに違いなかった。