サラノキの下で

97

「瑞穂!」

秀盛が左近を清人に預けると駆け寄ろうとした。

「来ちゃダメ」

もし秀盛にまで何かあったらと思うと、瑞穂はそれを止めて、小さく首を横に振った。

「お願い、来ないで」

これは玲司と自分との問題なのだという思いもあった。死霊となっても、瑞穂の側を離れないと誓った男と、それを許した自分。二人の関係は時を越えて、今も続いている。

「もういいよ、玲司。好きにしなよ」

「あなたはもう私が必要ないんだね。二人を殺したのは私だよ。瑞穂を守らないといけなかったから」

解放してやらなければ。瑞穂は抵抗していた力を緩めた。彼が望んでいるようにしてやろう。自分のことを殺したいのなら、そうすればいい。六原代議士と斉藤刑事の二つの殺人事件は、結局のところ、瑞穂を愛する怨霊と人間の二人でなされた一つの結果にすぎない。

玲司は、瑞穂の柄を持つ手を持ち替えさせて、内側に刃を向くようにした。ゆっくりと腹に近づいて、瑞穂は覚悟を決めた。瞳を瞑り、それが刺さるのを静かに待った。秀盛や左近、清人、小夜子を助けたいという一心も彼女の中に複雑に混ざり合う。

だが、確かに肉を抉るような生々しい感覚は掌に伝わってくるのに、痛みはいつまでたっても感じない。

瞳を開いた瑞穂。

刃は彼女の脇腹をかすめて、背後の男の腹に突き刺さっていた。

「玲司...」

「言っただろう?何度でもあなたのためなら死ねるって」

白い刃が亡霊の体を侵していく。

とっさに瑞穂は手を放そうとしたが、玲司はその手をきつく握りしめたまま、躊躇することなく腹の奥へそれを入れた。男の重みだけが、瑞穂の肩にずしりとのしかかる。

血のような香が鼻をついた。

「やめて...」

弱まっていく手首を握る力。

瑞穂は泣きそうだった。

背後の気配が薄れくいくにつれ、左近は苦しみから解き放たれ静かになり、太刀が大きな音を立てて地べたに落ちた。完全に玲司の気配が消えた時、小さな風が、塵を巻き上げた。

「瑞穂」

「秀盛」

「怪我はないか」

「大丈夫...」

そう答えたが、瑞穂の心はぽっかりと穴が開いてしまっていた。秀盛が抱きしめてくれなければ、立ってさえいられなかっただろう。やさしい胸の中で温もりに包まれるとやっと生きた心地がして、息をした。

「玲司、消えたんだね」

「ああ」

「これでよかったのかな」

「ああ」

秀盛の肩越しに視界を奪っていた霧が徐々に薄れていった。本当にこれでよかったのだろうか。疑問は尽きないけれど、人は一つのところに留まり続けることはできないのかもしれないと瑞穂は思った。ゆっくりではあるけれど、きっと自分は少しずつ変わっている。玲司との別れもまたそれだけのことで、彼の想いと自分の憶いとが、どこかでずれてしまっていた。

霧の晴れた崖から海が見えた。今夜の出来事も、千年に渡る過去さえも、まるで関係ないと言いたげな波の具合だった。

「やっと終わったような気がするよ」

「ああ、もう大丈夫だ」

瑞穂と秀盛は、左近を助け起こした。「瑞穂さま」と唇をだけを動かした男に「今は何も言わないでいいですから」と彼女は言った。

朝日が東から、昇り始める。

また静かに新たな日が刻もうとしていた。






「瑞穂はいつから学校に行くつもりなんだ」

「左近が自首して、それがショックで篠島なんかに連れて行ったらフェリーに飛び乗って東京に帰りかねないから休ませている」

「しょうがないな」

学ランの男二人は、篠島へ向かうクルーザーの風に吹かれていた。一人は規則違反に襟を緩め、もう一人は靴の先まで光らせた模範生然としている。この相反した二人は、以前は仲が良かったわけでもないのに、最近はなぜか一緒にいることが多い。

祭の夜から早、二週間。

瑞穂は、今、東京に帰りたい病におかされている。

「左近さんのせいじゃないのに、どうして」と全てが嫌になっているのだった。彼女の世話を一手に引き受けていた左近は彼女をこの島に引き止める大きな存在だったということなのだろう。

「アイツは、親父のことも『自供』したらしいけど?船の上で揉み合って船から落としたって」

「清人、あれは小松塚で小夜子がやったんじゃないのか」

「左近は天野家の金を半分脅されて無断で政治資金にしていたと自供している。選挙も近いし、あまり変なことを左近にぺらぺら話されたら困るって党では言っているらしい」

村田英里が『自殺』し、遺書に左近の名があったことから、彼女との関係を聞きにきた警察に、六原清重の死を左近は告白した。

「馬鹿な男じゃない。逃げ切れるのを分かっていて言ってるんだろう。小夜子なんかに警察が目をつけられたら、もっと困ることになる。もともと斉藤が死んだのは、この島に外部の人間が入ったからだ。これ以上、警察にうろちょろされては困る」

「手を回してやるのか」

秀盛は清人の問いに少し考えた。優秀な弁護士のことだ。すでに火葬されている斉藤は、村田英里が遺書になんと認めていようが、確認を取りようがないことも、六原清重のことも政治的に黙っていても事故と処理されるのも十分知っているはずだ。

そもそも、本当にこれは殺人事件だったのだろうか。確かに、直接的に手を下したのは、小夜子であることも、死体の処理をしたのも左近で、確かに生きた人間の犯した罪だった。しかし、あの夜のことを体験した人間ならば、瑞穂に危害を加えようとしたせいで祟られたと信じて疑わないだろう。でも左近がそんなことを警察に言うはずはなかった。

「金は、少しは包もうとは思っている」

大物政治家に『迷惑料』を多少しておけばいい。向こうだって突かれたくないことはいくらでもあるから、言われなくても六原清重の死は従来通り『心臓発作』で船から転落という形にして、左近を黙らせるために斉藤の事件も村田英里の自殺もうやむやにしてくれるはずだ。秀盛が自ら手を回してやる必要もない。

「まあ、瑞穂が、左近さん、左近さん言い出したら、早く帰って来れるようになんとかしてやるかもしれない」

「秀盛、お前も甘いな。あいつは瑞穂のことが好きなんだぜ」

清人は笑った。そしてゴミ袋を甲板にずるずると引っ張り出してきた。もちろん、中にはあの怨霊の骨がある。

「清人、本当に捨てる気か?」

「瑞穂が左近と約束したって言ってたから」

千年近くに渡り、この島を守護し、祟り神として君臨した霊。その正体は、一人の女を愛した普通の男に過ぎなかった。

「人間の骨って、案外少ないものだな」

「こんなもんだろ」

「そうか?」

「そうだ」

無造作に袋をひっくり返して骨を捨てようとした清人を秀盛は慌てて止めた。

「お前は、一応、手ぐらい合わせないのか」

「祟りが怖いのか?」

清人が口の端を歪めて笑った。それにむっとして秀盛は袋を清人から奪うと、その中に手をいれた。

扇?

檜扇が一つ。留め具は既に朽ちていたけれど、そっとそれを広げてみれば、白い花の木が描かれている。女ものであるから、埋葬するときに共に棺にいれたのだろう。たぶん、あの鬟(みずら)を結った少女が入れたのだ。

「知らなかった」

だが、清人がそれに驚いたような顔をした。

「何が」

「沙羅の木だ」

秀盛は何をいっているのだろうと、清人の顔をまじまじと見た。

「涅槃の花だ」

一人、清人だけが納得したような、そして寂しそうな、嬉しそうな顔をした。それは、秀盛の知っている清人の表情とはどこか違って、急に大人びたように見えた。そう、どこかで見たことがある、影のある表情だった。

「まさか、お前...」

にやりと笑った男。

「心配しなくていい。もう少しだけ。瑞穂に気付かれないように上手くやろう。せめて左近が帰って来るまでの間だけ」

絶句する秀盛を無視して清人は骨を海に豪快に撒いた。波に飲まれてゆく白い骨。それはやがて季節はずれの花弁のように瞬いて大いなる海の一部となって波のまにまに消えていった。





祇園精舎の鐘の声

諸行無常の響きあり

沙羅双樹の花の色

盛者必衰の理を顕す

おごれる人も久しからず

ただ春の夜の夢のごとし

(平家物語)




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