サラノキの下で

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黒い影を引きずって歩いて行く玲司。彼の頭上の空には過ぎ去った雨の残り雲が、追い立てられるように動いていた。

瑞穂はそれを見ているうちに抑圧されていた何かを感じて急に不安になった。

「玲司」

息苦しい、そう思った瞬間。

そこは小松塚の崖の上で、眼下、夜に浮かぶのは無数の白い帆の群れだった。紺碧の海に、金色の月が一片(ひとひら)、波の音もしない。べったりとした凪いだ海。櫂を漕ぐ太鼓の拍子だけが、まるで命の終わりを告げる時を刻むように近づいてきていた。

瑞穂は瞳を大きく開けると瞬いた。夢から覚めてとっさにどこにいるのか分からないようなそんな感覚で、必死に混乱した頭の中で、何が起こっているのか考えてみた。

そして暗闇の中を手探りに瑞穂は何かを探した。やがて、暖かい人の掌の感触とぶつかると、少し安堵し、そしてぎゅっと強く握り返されると再び不安が津波となって戻って来た。

「逃げよう。誰もあなたが女だということを知らない」

暗闇の中で手を繋いだ人がそう言った。それは確かに玲司の声で、切羽詰まったものがある。

——でもここはどこ?逃げるって?

瑞穂は声が出なかった。ほんの先ほどまで、秀盛に取り憑いている玲司と社(やしろ)で話していたはずなのに、自分はなぜか小松塚に、しかもよく見れば、馬の背にいる。

「何もかも忘れて二人で逃げてしまえばいい」

玲司は再びそう囁いた。

——ここは過去?過去なんだわ。

西へ西へと追われた過去の記憶。いつも後ろを振り返った日々が色鮮やかに蘇る。

『二人だけで逃げる』

それはなんども過去の彼女を誘惑したことだったように思う。小魚を漁る貧しい漁師の夫婦に身をやつし、夜霧に紛れてもっともっと西の遠くの国へと行けたのなら、追われる日々から逃れ、ささやかながらも静かな日々が迎えられる。普通なことを普通に喜べる日々はたぶん、何よりも自分が望んでいたこと。

けれど、瑞穂は、首を横に振った。なんでよ、と今の自分が言う。

噛んだ唇から血がにじんで鉄の味がしたが、瞳だけは決して動揺を表さず、毅然と帆を見つめ、並んでいた轡(くつわ)をさっと返した。

「もう逃げなどしない」

瑞穂は玲司を見なかった。いや、見ることが出来なかったのかもしれない。背筋をすっと伸ばして、鞭を持ち直したが、手綱を握る手が震えて、もう一方の手でそれを覆い隠すと、馬首を返した。自分のようで自分ではない。これは映画のように傍観者であるしかない過ぎ去った時間の映像なのだ。

「先陣を許そう」

一歩後ろをついて来る玲司に瑞穂はそう言った。彼はそれに何も答えなかった。きっと唇を固く結んだ瑞穂は、手綱を引いて後ろを振り向いた。

「お前は、朕(わたし)を女と思っているのか、君主と思っているのか」

どうしてこんな冷たい声が自分はだせるのだろう?

「選べ。お前が選べ。女である朕(わたし)か、それとも君主である朕(わたし)か」

本心は、もう一度一緒に逃げようと言って欲しかった。

攫って逃げると言って欲しいのに。

強がるのはやめなよと、今の自分なら過去の自分に言ってやれるのに。

「朕(わたし)はどうすべきなのだ」

男として育てられたからかもしれない。感情のまま生きることを許されずに、じっと我慢ばかりする性格になっていた。気難しいと評されて、むっとしても石のように聞こえないふりをする。そういうのを美徳だと信じて疑わなかった。

——玲司。

瑞穂は暗闇の中で過去の自分に耐えられなくなって男の名を呼んだ。

「先陣、ありがたく承りましょう」

けれど玲司は瑞穂の思いが届くより先にそう答えた。過去の自分と今の自分の胸が同時に軋んで粉々になり、瑞穂は馬から飛び降りると跪いてそれを掌で掬った。

「主上。ただし、お願いしたことが二つございます」

「なんだ」

声が頭上からしてはっと瑞穂は顔を挙げた。鬟(みずら)に髪を結った十五、六の少年、いや少女がそこにいる。どうやら、傷ついた心を拾おうとしたのは、自分だけで、主上(おかみ)と呼ばれている過去の自分は、そんな感情は無視したようだった。

「血が途絶えることがあってはなりません。明日の朝までに、候補を決めておきます。その者を十八におなり遊ばしたらお召しになりますように」

少女は驚いたように目を広げた。怒ったような、泣きそうなような、感情の入り乱れた表情だった。

「そしてもう一つは、例え私が死霊となりましてもあなたのお側に置いていただきたいのです」

陳腐な恋の告白を聞くよりも、それは深く胸に突き刺さった。短刀で心臓をえぐるような痛み。答えに詰まって、「好きにすればいい」とぶっきらぼうに少女は瞳を逸らして伏せた。

「ありがたきお言葉」

蹄の音が、妙に大きく響いていた。

ほたるが足下を小さく彷徨って、草の陰にぽつりと消える。

静かな夜半。

「わたしはお前に何もしてやれない。命をくれと言って、代わりに何かやることも出来ない」

「主上」

「お前は何を欲している?命の代わりに何が欲しい」

「...」

「言え。一つだけ願いを叶えよう」

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