サラノキの下で



「帯だ。帯を外せ」

遠くに秀盛の声がした。着物を脱がされていると、感覚のまにまに分かるのだが、瞳は開かない。だた、だんだんと苦しくはなくなって、誰かに身体を軽々と抱きかかえられた。それがあの嫌な男ではなく、左近でありますようにと瑞穂は遠退く脳裏の片隅で祈っていた。

「しばらく休ませた方がよろしいでしょう」

「俺は屋敷に帰る」

「宮さんは、まだいろいろよく分かっていない状態でいらっしゃいますので、落ち着きましたらまた少しは違ってくると思いますが...」

左近の宥めるような言葉に秀盛は答えなかった。彼の気配が消えて、瑞穂は心底安心した。そしてようやくゆっくりと寝心地のいい羽布団に身を横たえることができるのだ。睡魔が体を包んでいく——。


「秀盛が嫌か」

夢の中で誰が言った。ああ、あの夢の男だ、と瑞穂は思った。瞳を空けると、そこは真っ暗だった。夜なのだろうか。いや、夢なのだから、夜も昼もないのだ。瑞穂は、自分の横に寝転がる男を見た。やはり目が覚めるような美形だった。

秀盛も見た目は悪くない。いや、今まで瑞穂が見た現実の男の中では一番かっこいいと言ってもいい。東京で普通に道を歩いていれば、きっと逆ナンで十メートルごとに止められるだろう。

けれど、これが夢だからか、目の前の得体のしれない男のにこりと笑いかけるその表情ためか、瑞穂はずいぶんと都合がいいまでの長髪の男が良い容姿に見えた。

「誰?」

「名前など忘れた」

「名前を忘れるなんてへんなの」

彼はくすりと笑う。

「じゃあ、どんな名前が似合う?」

「うーん、玲司(れいじ)とか?そういうの。ちょっとヤリ逃げしそうな、そんな感じの名前」

「玲司か。変な名前だ」

「名前を忘れる方が変だよ」

「そうかな?」

「そう」

よく見れば、彼は変わった着物を着ている。

「神主さんか、何かなの?」

「神主さん?いや、神職者ではない」

「そう」

瑞穂はどうでもよくなった。夢にしろ、何にしろ、寝かせて欲しい。

「ごめんね、邪魔をしてしまったかな」

「眠いだけ」

「寝ていいよ」

彼は瑞穂の鎖骨の少し上に唇を落とすと頭を撫でた。優しい手つき。懐かしいと思った。幼い頃に母にいつもそうしてもらっていたような気がする。安らぎ?そういうものかもしれない。

——きっとわたしってばガラにもなく疲れちゃってるんだ。

この南国の島の湿気にひんやりとする男の腕は、だから心地よかった。

「冷たくて気持ちいい」

「よかった。おやすみ」





「おはようございます」

翌朝目覚めた瑞穂は、ずいぶん体が楽になったと感じた。朝というよりもう昼なのだと知らされ、こんなに眠り込んだのは久しぶりだと思った。普段なら、土曜でもバイトがあるので、ゆっくりとなどしていられない。

「朝食の用意は出来ております」

「あ、はい」

何か手伝おうと思っている間に、つぎつぎと料理が膳にのって運ばれてくる。こういういたれりつくせりの対応には慣れなく、瑞穂は身じろぎをした。

「田舎料理でございますので、お口に合いますかどうか」

お手伝いさんはそう言ったが、ため息が出るような朝食だった。上品な京風の白味噌を使ったみそ汁は、出汁まで一級品なのだろう。鰹パックじゃ、こうはいかないと、なんとなく瑞穂は納得してプラスティックではない、たぶん本物の輪島塗の椀に箸をつけた。

「美味しいです。すみません。ありがとうございます」

「とんでもないです。もっとお召し上がりになりますか」

「じゃあ」

そう言えば、人にごはんを作ってもらうことすら久しぶりのような気がする。夕食でさえ、もっと質素なものを食べていた瑞穂はお椀を遠慮がちに差し出した。

「ところで、あの、昨日はあれから...」

「ご心配にならずとも大丈夫でございますよ。宗さまが迅速に対応してくださいましたので」

「はぁ...」

「宮さんがお目覚めになったら主治医を呼ぶように言付かっておりますのが、いかが致しましょうか」

「いえ、もう元気一杯です。着物がキツかっただけなんだと思います」

瑞穂はにこりと笑ってお茶碗を持ってみせた。食欲があるなら大丈夫ですねと、お手伝いさんも納得して、御櫃に蓋をしたのと入れ替わるように、幸村左近が、座敷に現れた。

「お加減はいかがですか」

「もう、大丈夫です。すみません、ご迷惑をかけて」

「本日は特にご予定もありませんので、どうぞゆっくりなさってください」

「やっぱり夢じゃないんですね?」

「夢?」

「あの、結婚とかなんとか」

「瑞穂さまには突然のことで申し訳ございません。ご結婚と言っても来春の話ですので、まだ少し時間がありますし」

「けど、そんなの。わたし、騙されたみたいっていうか」

左近は困惑を顔に表した。瑞穂は左近を責めたいわけではない。

「あの、左近さん。父に会わせてもらえませんか?そんなの、わたし認められないですし」

「申し訳ございません。範彦(のりひこ)さまは今朝からご体調が悪く...」

「ほんの少しの時間でもダメなんですか?!」

「医師から絶対安静と言われておりますので」

瑞穂は黙りこくった。

そういう女の沈黙に慣れていない左近は、居心地が悪そうに手帳をめくり始めた。

「何か必要なものがありましたら用意いたしますが」

明らかに機嫌を取るような物言いだ。瑞穂は少し考えてから

「じゃ、自転車をお借りしていいですか?」と言った。

「自転車ですか...」

「島を探検しようかなって思って」

「お車を用意いたしますが」

「自転車がいいんです」

スカッと嫌なことを忘れるには、海岸線の坂をおもいっきり自転車で滑り降りるのがいい。瑞穂は立ち上がった。

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