サラノキの下で

63

「心配ない。少し噛まれただけだ」

片手を抑える秀盛からは、少しどころでない血が流れている。

「秀盛」

瑞穂は慌てて懐紙を掴んで彼に駆け寄ろうとしたが、それを左近に制された。血は穢れ。既に禊ぎを済ましている瑞穂に触らせるわけにはいかなかった。心配で立ちすくんでいる彼女の横を、六原家の医師が走り過ぎて行き、秀盛の傷を診た。

「毒蛇ではございませんので、心配はありませんが、少しは腫れるかもしれません」

「大丈夫だ」

秀盛は、他に者には手を水に漬けずに杓子で水を掬って禊ぎをするように指示をした。確かに危険だと頷く者もあれば、雅盛のような老人は、伝統だからと蛇さまに噛まれても構わないと言い出した。

「禊ぎは穢れを払うことに意味がある。血を流しては意味がない。祭で社に上がるものだけは、身を清め、後の者はしなくていい」

雅盛のような石頭に何を言っても無駄だと分かっている秀盛は、とにかく蛇だけを杓子で退けさせて、簡潔な禊ぎを行うように指示を出すと、瑞穂の輿を上げるように左近に命じた。

「大丈夫?」

「ああ」

瑞穂の問いに苦笑して答えていたが、秀盛の顔色は酷く悪かった。

そして初めはしっかりしていた足取りも、しめ縄を潜るころには左右を抱きかかえられなければならない程になっていた。

「宗さま...」

瑞穂は出来ることなら秀盛を輿に乗せてやりたかったが、頑なに秀盛の方がそれを辞退したので、どうすることも出来ない。



「本当に毒蛇じゃないんですか」

担ぎ込まれるように屋敷に戻った秀盛が、冠を外した状態で高熱にうなされ始めると、瑞穂は医者を捕まえて訊ねたが、医者は首を振った。

「傷口から何か菌が入ったのかもしれませんが、それほどのことではありません。明日の朝には直っておりますよ」

「本当ですか」

「はい。今、宗さまに必要なのは休むことです。少し寝かせてやってください」

「そうですよね...。じゃ、わたしは自分の部屋に行っています」

先生と呼ばれる職業の人の言葉は信じる瑞穂だったので、納得して枕元から立ちかけた。だが、少しだけ秀盛が目を開けて、彼女の袖を掴んだ。

「すぐ、良くなるって。ゆっくり休んでね」

そっと秀盛の額に掌をのせて、彼の手を袖から放してふとんの中に戻した。一緒にいてやりたいのは山々だったが、医師に看護婦もいれば自分の出る幕はない。

開けられた襖の前で、瑞穂は秀盛を一度振り返り、『鎮痛剤を打つので』と追い立てられるように部屋を後にした。廊下では、心配して来たであろう留守役の清人が瑞穂が出て来るのを待っていた。

「瑞穂、秀盛が蛇に噛まれたんだって?」

「そうなんだよ。でも大したことないらしいけどね。見た感じ熱が高そうなの。毒蛇ではないって」

「マジで?でも毒蛇じゃなくってよかったぜ。俺もそんな儀式に出なくてよくてラッキー」

「ホント、ラッキーだったね。うようよいたから気持ち悪かった。蛇が手を触るんだよ」

着物の首まわりが痒いのか、笏(しゃく)でカリコリと掻く清人。彼の明るさが、瑞穂の心配を少し和らげたが、二人の向こうから香炉を頭の上に掲げた斎服の男たちがバタバタ現れると、その匂いに瑞穂は首を傾げた。

「どうした?」

「この匂い、知ってる」

「この家の匂いだろ?」

「この家の匂い?」

「ああ、いつだって、この家にはこの香が焚かれてねぇか?」

「そういえば、そうかも」

頷いた瑞穂は、左近からした香りはコレだと思い当たった。

「範彦さまの部屋にいつも焚かれているヤツだろ?小松祭に使うヤツ」

清人の何げない言葉に、しかし瑞穂は瞳を大きく見開いた。そして秀盛が寝ている部屋の方を振り返り、香がその中に運ばれて行くのを見ると、さっと血の気が引くような嫌な予感がした。

「左近さんはどこ?」

「幸村?」

「そう、どこ?」

「アイツなら、禊ぎで使った祝詞(のりと)の紙とか裏で燃やしていたけど?」

「ありがと」

瑞穂は斎服のまま走り出した。

「おい、瑞穂。どうしたんだよ?」

清人の声が背中を追って来たけれど、瑞穂は一直線に左近のもとへと向かった。


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