サラノキの下で


36

「後で様子を見に来る」

「別にいいよ」

車から降りるとき秀盛にそう言われたが、疲れていた瑞穂はそのままドアを閉めた。左近が、運転席の窓を少し下げて、何かを付け足そうとしていたが、どうせ小言に違いないと、瑞穂は逃げるように門の中へと駆けて行った。雨が斜めに打ち付けて、肩を濡らした。

「おかえりなさいませ」

普段なら人の出入りの多い家だから、誰かしらの声で賑やかであるのだが、きみ一人だけが出迎えて、しいんと静まり返っている。

「きみさん、ただいま」

「お茶でもお出し致しましょうか」

「あ、いいです。わたし昼寝するんで」

お着替えは、と聞かれたが、自分でします、と濡れたセーラー服を庇って瑞穂は自分の部屋へと向かった。廊下がいつもよりも長く感じるのは、灯りをまだ付けていないからだろうか、物音一つしない天野家とはなんとも嫌なものだと瑞穂は思った。

「玲司来るかな」

会いたい、などと思ったことは一度もなかったが、聞きたいことは山のようにある。制服を脱ぎながら、瑞穂は足の親指が疼いた。彼の舌の感覚が蘇り、裸足の親指同士を摺り合わせた。

「寝よ、寝よ、寝よっと」

瑞穂は思い出すべきでないことを思い出してしまったのを打ち消そうと、押し入れから布団を引きずり出して、頭からそれを被った。しかし、考えまいとする度に、蛭が這うような記憶が足首から太腿へと徐々に糸を引いて上ってくるのだった。

彼女は深く息を吸った。濡れたままの髪がその拍子に冷たく首筋に触れた。

そして秀盛が話していた深層心理について難しく考える努力してみた。つまり、夢とかユングとか、心理の階層についてである。自我と抑制と、そして欲求。十八歳という年齢が、きっと不安定な心の状態を作っているのだと、瑞穂は自己分析してみたが、恋に対する恐怖心は、いくら難しく思考してみても、子供から大人になることへの抵抗なだけのような気がした。

「ダメだ、寝れない」

静かすぎるのがいけなかった。

そしてガラにもなく難しいことを考えてみたりするのもまずかった。

雨のせいで湿気がそんな彼女に重くのしかかり始めた。

瑞穂は、だがそんな鬱気に飲み込まれてしまうような質ではなく、布団をがばりとはね除けて起き上がった。眠れないのなら、起きていた方がいい。そして、この島へ着いてからずっと気にかかっていた事実を突き詰めるべきだと思ったのだ。

「よしっ」

パジャマから白いTシャツとスカートに着替えると、廊下に出た。

「確かこっちのはず」

父のいる奥と呼ばれる北東の部屋への向かうことにしたのだった。人のいない今なら、父に会って話せる。今を逃したら、機会はもうない。左近はいつだって瑞穂の横にその影のようによりそって、何をするにしても監視している。

静まり返った屋敷。

暗い廊下を音も立てずに瑞穂はすすみ襖の前で止まった。大きく息を吸い、襖に描かれた雀を睨みつけた。母子で慎ましく暮らして来たのだ、文句の一つも言っても構わないだろう。

瑞穂はゆっくりと襖を開けた。

座敷簾の向こうに布団が敷かれ、父が寝ている。普段はいる看護婦もいない。

「お父さん...」

瑞穂は蚊の鳴くような声で言った。が、返事はなかった。

「お父さん」

今度は自分でも驚くほど大きな声だった。

けれど返事はやはりなかった。寝ているのだろうかと、瑞穂は部屋に一歩足を踏み入れて、香が焚かれていることに気がついた。たしか、初めてこの部屋に来たときも同じものが焚かれていたが、そのときは緊張していて気にもとめなかった。

よく見れば、香の煙が簾から洩れて、部屋を曇らせていた。雨の匂いとその香りはどこか調和していてそして不気味だった。

「お、お父さん...」

座敷簾に手をかけて、さっさと潜ればいいものを、躊躇した。中に入ってはならないと、五感が告げていたのだった。ごくりと唾を飲んで、それでもその中に入ってしまったのは、なぜか瑞穂にも分からなかった。なんでもはっきりさせなければ気がすまない彼女の性格がそうさせてしまったのかもしれない。

呼吸をしているはずなのに布団がぴくりとも動かないのを、瑞穂はめくって絶句した。そこにいたのは、父ではなかった。

「な、なに、コレ...」

いや、父だったのかもしれない。

乾涸びた屍骸が、あたかも生きているかのようにまっさらな白い着物をきていたのだ。

悲鳴をあげるのも忘れて、瑞穂は動けなくなった。どう見ても最近死んだのではない。何年も前に死んだのをここに置いたままにしているようだった。生々しく伸びた爪と、頭に残った髪が苦しみに歪んだ死相を縁取っている。

——め、めっちゃめちゃヤバいじゃん。

瑞穂はぴかりと光った雷に我に返ると、半分抜けた腰を引きずって這うように簾の中から出た。そして島を揺るがすような大きな雷の音が落ちてきて、電気が消えた。それと同時に雨がざあっと激しく降り始めた。

——逃げなきゃ!

どこへ?誰から?疑問は尽きない。けれど、逃げなければならないという本能だけが彼女を立ち上がらせ、廊下を走らせた。部屋に返れば、いくらかお金はある。この島にいてはならない。

「お父さんは瑞穂が小さいとき亡くなったの」

母の言葉は事実だった。


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