サラノキの下で
サラノキの下で
35
瑞穂はなにやらひやりとしたものを感じた。
秀盛や左近とは違う、皺だらけの老人から祟りなどという言葉を聞いただけで震え上がってしまいそうになるというのに、波がいつもより高く、酷く揺れる船内で、エンジンの不気味な音ばかりが彼女を包んでいる。
「宗さま、御霊会は予定通り行った方がよろしいかと」
「しかし、さすがに直ぐには無理だろう。六原家の者が死んだんだ」
「ご心配にならずとも、この年寄りが島の者と話をつけましょう。そのために今日はこうして参りましたのです。御霊(みたま)は厚く祀られてこそ、島を守ってくださりますが、そうでなければ、荒御霊(あらみたま)とおなりになって祟りとなりますので」
何を老人が言っているのか、よく分からない瑞穂であったが、無意識に横にいる秀盛の制服の裾を掴んだ。
「瑞穂?」
「こういう話って苦手」
秀盛は、彼を見上げる瑞穂の様子に雅盛老人に鋭い視線を向けた。
「あまり怖がらせるようなことは言わないで欲しい」
「これで怖いなどと言っていては、天野の御当主は務まりませんでしょう」
むっとした秀盛に、しかし老人は気付かないのか言葉を続けた。
「範彦(のりひこ)さまのことはご存知なのですか」
「余分なことは言わなくていい」
老人に秀盛は腹を立て強い語気でそう言うと、瑞穂の腕を掴み、彼は階段を上がり外へ出た。強い風で、瑞穂の髪が全て巻き上がり、スカートが音を立てて翻った。
「左近のところに行っていろ」
「宗さまは?」
「俺はしばらくここにいる」
甲板で、背中を向けた秀盛に瑞穂は声を掛けたが、彼は振り返らずにポケットからライターを取り出した。『不良高校生』と彼女は思ったが、何も言う気も起こらずに、雨に濡れるのを恐れて、半分屋根の外に出た革靴をひっこめると、左近のいる操縦室へと向かった。
「どうかされたのですか」
左近は、少しだけ濡れた瑞穂の髪を見て側にあったタオルを手渡してくれた。
「あのおじいちゃん、六原先生が死んだのは祟りとか言い出して怖くなったから逃げて来たんです」
「ああ、いつものことです。雨が降れば、祟り、風が吹けば、祟りですから」
苦笑を向けた左近に、瑞穂は「そうなんですか」と笑って、左近の横の席に座った。
「すごい波ですね」
「瑞穂さま、気持ち悪くはなっていませんか」
「まだ大丈夫です」
強がって言ったのではなく、それほど瑞穂の気分は悪くなかった。少なくとも、狭い船内に閉じ込められているよりは、操縦席で風に当たっている方が何倍もよかった。ただ目の前の高波を見ていると、普段元気な瑞穂でさえ海に畏怖を抱き大人しくならざるを得ないだけなのだ。
「もうすぐ着きますから、怖がることはありませんよ」
「怖くはないです」
「本当に?」
「うーん、本当は少し」
左近は瑞穂の顔をのぞき込んだ。彼女はなにやら考え込んでいるようだった。けれど、思い切ったように顔を上げると、先日から気になっていたことを口にした。
「左近さん、御霊会(ごりょうえ)って何ですか」
「祭のことで、御霊(みたま)を鎮めて手厚く祀るのです」
「金魚すくいや綿飴のお祭りじゃないんですね」
「瑞穂さまにはあまり楽しいお祭りではないかもしれません」
「じゃ、御霊(みたま)ってなんですか」
「御霊はこの島の守り神のことです」
「...」
「昔、この島に着く前に多くの人が海の藻くずと消えてしまったのです」
左近が荒れる海の遠くを見つめた。目的の柚ノ島を飛び越えて、そのまた向こう、九州や瀬戸内海、あるいはそれよりずっと東の地に伸びているように瑞穂には見えた。
「時々、帰りたいと泣かれる霊を鎮めるのですよ」
「泣く?」
「はい。瑞穂さまも東京に帰りたいと泣いたりはしませんか」
「...」
瑞穂は押し黙った。
帰りたいと思うことはしばしばだが、帰ってそこに自分の場所があるのかは分からなかった。懐かしいのは、母との日々で、東京ではないような気がする。
「わたしは泣いたりはしません」
「そうですか」
「そうです」
怒ったような物言いの瑞穂に、左近はただ小さく微笑んだ。その笑みに、瑞穂は小松塚の岩の上で夕日を眺めて泣きそうになったのを見られていたのではないかと思った。そしてその後に会った玲司は実は左近で、左近には瑞穂の考えている全てが分かってしまうのかもしれないとさえ思った。
「社はまだ無事のようですね」
朱の柱が黒い島の中から浮き上がって見えた。
「瑞穂さまを屋敷に送りましたら、私は社が流されないように島のものと応急処置をしてきます。家の者も通夜の支度で出払っていますし、宗さまのお屋敷に行かれたらどうですか」
「...」
「瑞穂さま?」
「なんか、昼寝したい気分なんです。刑事さんと話したりしたから疲れたみたいで」
「分かりました。真っ直ぐ屋敷に戻りましょう」
瑞穂は秀盛と一緒にいたい気分でもなかった。鬱々とした重い空気に瑞穂はシートに深く身を倒した。それはこの急な気圧の変化のせいに違いなかったが、荒波をじっと見て入ると、かつてこの水底深くに沈んだという人々の霊が手を伸ばして彼女を海に引きずり込もうとしているように思えてならなかった。
ネット小説の人気投票です。投票していただけると励みになります。(週1回)