サラノキの下で
サラノキの下で
23
「瑞穂さまの前だぞ」
「だからいいのではございませんか。お好きなのでしょう。宮に見られたらと思うときっと幸村さまも...」
左近の耳朶に女が囁いた
「それともあなたさまはこういうのがお好みでしょうか。ほら、なんと申されました?ああ、そうだ、『観念の問題』でございますわ」
白い女の顔がそこだけ瑞穂のものと瓜二つになって、左近がたじろいだ。
「すべては幻、幻想でございますよ、『左近さん』」
「やめないか」
声までも瑞穂に似せた女が膝の上に乗り、左近はそれを払いのけようとしたが、唇が重なって離れない。やっとのことで振り払うと、畳の上に崩れた女が瑞穂と同じ顔で悲しげに振り向いて
「『左近さん、抱いてください』」と言いながら近づいて来る。
「...」
「『初めてなんです、左近さん』」
「やめないか」
「『左近さんのいじわる』」
膝の上に乗った女の手を左近が掴むと、「ふふふ」と笑う。
「幽霊なんてお信じにならないのなら、いいではありませんか。これは左近さまの夢ですもの。お楽しみになってなんの不都合がございましょうか」
「あなたのお遊びに付き合っている暇はない」
しとしとと雨の降る音がした。瑞穂はまたおかしな夢を見ていると思った。
「先日は伊勢と四条の二人に夜の世話をさせたと聞いておりますのに。二人が自慢げに話してきて、どんなに憎らしく思ったことか」
「...声が大きい。瑞穂さまが目を覚まされたらどうする」
「ふふふ。一人では足りぬと申されますなら、誰か連れてまいりましょうか」
左近はまとわりつく女の言葉を無視して再びキーボードを叩き始めた。見えないふりを決め込んだようだった。
「つれないことをなさると教えて差し上げませんわよ」
「...」
「南家の清重さまはよからぬことをお考えのようで、小夜子さまをどうの、とか」
「...」
「お知りになりたくないの?左近さまの大切な宮に関わることなのに?」
男のボタンが三つはずれた。ネクタイを女が掴み、もう一方の手で眼鏡を取り上げる。無表情な左近。女が、その胸の中に唇を這わせ始めた。
瑞穂は慌てた。
布団を被って目を閉じるだけ閉じたというのに、女の唇の音が聞こえ、瑞穂は『幻聴幻覚!幻聴幻覚!これは夢!』と何度も心に言い聞かせてみるが、それは次第に激しさを増していくように思う。
しかし、突然「何をしている」とあの夢の男の声がして、女が喉をかっ切られたような声を上げた。
「こ、小松さま」
「幸村。下等な狐を屋敷に上げるな」
「申し訳ございません」
「今度、屋敷で見かけたらただではすまさぬぞ」
「分かっております」
「少し目を離せばこれだ」
男の声は怒気に溢れ、左近の声は低く遠かった。瑞穂が、そっと目を開けば、女の姿はもうどこにもなく、片手でボタンを止める左近と夢の男がいる。
「まさか、お目覚めではなかろうな」
「お休みでございます」
男が座敷簾越しに瑞穂の方を向き、彼女ははっと目を閉じた。秀盛から変なものを見ても無視して口をきくなと言われている。慌てて、寝たふりをすれば、簾を上げた気配もないのに、男が彼女の枕元に腰を下ろし、額に手を触れた。
「お前はもう下がれ。今宵は私が宿直(とのい)しよう」
「はい。ではこれにて失礼致します」
左近が立ち上がると、ゆったりと男の指が瑞穂の頭を撫でた。
「おやすみ。一人にして悪かったね」
優しい声。
瑞穂は瞳を開けようか悩んだ。幽霊にしろ、夢にしろ、この男に対して怖いという感情はないので、目を開けても大丈夫のような気はするが、ゼロという数字をカウントしないことにした瑞穂は、あえて好奇心を起こすのもどうかと思う。
——観念の問題よ。そう観念。
「起きていたの?」
確かに心の中で呟いたはずなのに、男が驚いたように手を止めた。
——げっ。話し掛けないで
「ごめん。起こしてしまった?それとももしかして起きていた?」
「今、起きたところだから...」
思わずそう答えてしまった瑞穂は両手で口を押さえた。
「どうかしたの。怖がることはないよ。私がいるのだから」
そして男の氷のように冷たい掌が瑞穂の顔を撫でた。
——ってかあんたが怖いのよ
「私が怖いの?おかしな子だ」
「普通に怖いのよ。誰なのよ、あんたは」
「玲司(れいじ)」
「ってそれはわたしが言った名前じゃない。ちゃんとあなたの名前が知りたいんですけど」
「玲司でいい。気に入った」
「変な名前だって言ってたじゃん」
彼が笑った。年上のOLのヒモになっている青年画家みたいな顔だと瑞穂は改めて思う。年はどれぐらいだろう?二十代前半か、あるいはただの童顔で実はそれ以上かもしれない。
「私のことは心配しなくていいから、寝た方がいい」
「側にいられると逆に寝れないって」
「世の中、変な輩が多いからね。忙しいのだけれど、宮に付いていられるときは付いていてあげたい」
一番変なのは玲司の方で、付いているのではなく、憑いているのの、間違いではないかと瑞穂は考えかけたが直ぐに止めた。考えても仕方のないことだ。考える方が間違っている。左近の言う通り、認識しなければいい。弁護士のいうことは間違いないのだから。
「おやすみ」
瑞穂は目を瞑った。明日の朝になれば、そんな夢を見たことさえ覚えていないはずだったし、覚えていてはならなかった。続きはケーキを食べる夢がいい。スーパーやコンビニで売っているのではなく、デパ地下で売っているフルーツタルトかイチゴのタルト。カスタードの甘みが絶妙で、一緒に飲む紅茶がダージリンティーの苦みを和らげてくれたる円やかさがあったら尚更いい。
想像出来るだけの美味しそうなケーキを瑞穂は思い浮かべた。
ネット小説の人気投票です。投票していただけると励みになります。(月1回)