サラノキの下で
サラノキの下で
22
「左近さんは幽霊なんて信じますか」
夕食後、全く数学が分からないと愚痴をこぼした瑞穂の宿題を手伝ってくれている左近に、彼女は突拍子もなく訊ねた。いや、瑞穂の中では一日中頭から離れない問題だったのだ。
「幽霊ですか?」
「そう」
瑞穂は器用にペンを回した。
「では瑞穂さまは、宇宙人は信じますか」
「うーん。たぶんいると思う。宇宙は広いですから」
左近が笑った。
「私は理系ではないのですが、宇宙人の方が信じられますね。どうも幽霊とかそういうものは信じられないのですよ」
「そっか、左近さんは信じないタイプなんですね。わたしもそうだったんですけど、今朝、見たような気がしたんで」
「お疲れなのでしょう。よろしければ、この宿題、やっておきますが?」
「いえ、そんなの困ります。教えて欲しいだけなんで」
瑞穂はペンを握り直して、また教科書に額を向けたが、やはり数字の羅列には興味が湧かずに顔を本に伏せた。左近はそれに苦笑した。
「瑞穂さま、まあ、例えばです。ゼロという数字はプラスですか、マイナスですか」
「ゼロはゼロ。正数でもなければ、負数でもないです」
「瑞穂さまの言う幽霊とは、そういうものなのではないでしょうか。生きているのでもなく、死んでいるのでもない」
瑞穂は首を傾げた。
「観念の問題です。認識するか否かの。実態はないのですから」
瑞穂は頭を掻いた。数学の方式よりも難しい。やはり左近は弁護士なのだ。それも難関大学の法学部をストレートで入学し、一発で弁護士試験に受かったというから、その脳細胞の緻密さは半端ではない。
「私は幽霊とは個人的に、不知火(しらぬい)のようなものではないかと思っております」
「不知火?」
「はい。九州では不知火という怪火が海に幾千も浮かぶことがあるのです。かつては龍神の灯火と言われておりましたが、蜃気楼の一種だと解明されました」
「蜃気楼ですか...」
「はい。瑞穂さまが見たものもそういう類いのものではないでしょうか。過去に存在した何かが光りの加減で現れたか、あるいは深層心理的に存在する何かが、偶然『見えた』のでしょう」
そう言われてみればそうかもしれない。瑞穂は頷いた。
「きっと宗さまがいろいろ言うのがよくないんだと思うんです。アイツ、そういう怖い話をするのが好きだから」
「宗さまが?」
「はい。島の伝説とか、いろいろ」
「困りましたね。瑞穂さまを怖がらせないで頂きたいのに。六原家の方はそういう話をするのがお好きですから」
「ホントに。今夜寝れそうにないです。この部屋、大きすぎるし」
「よろしければ寝付かれるまでここにおりましょう」
「でも...」
「構いませんよ。まだ仕事が残っているので、パソコンをいじらせてもらいますが」
瑞穂は遠慮しようかと悩んだが、そういてもらえると安心して眠れる気がした。昔から小さなアパートに母と二人で住んでいた瑞穂だから、一人で八畳の次の間もある部屋はどうも暗闇が気になるし、こんな古い家だと、家鳴りだと分かっていても、柱が軋む音を聞く度に、縮み上がりそうになる。
「甘えてばかりで、すみません、左近さん」
「いえ」
宿題を終え、布団に入った瑞穂の耳に左近の操るキーボードの音が心地よく響いた。近くに人がいる感覚は、やはりほっとする。
「おやすみなさい」
「おやすみなさいませ」
それが左近だから余計にいい。秀盛なら逆に緊張して寝付けなくなってしまっただろう。瑞穂は羽布団にぬくもりを感じながら、瞳を瞑った。これならきっと変な夢は見ないに違いない。何しろ、左近の言うように、観念の問題なのだ。認識しなければいいのだ。深層心理的な問題で、一人で寝るということに感じていた恐怖が取り除かれたのだから、怖い物など出るはずはないと瑞穂は言い聞かせて眠った。
「お優しいのね」
「...」
「宮にはあんなに優しくなさるのに。わたくしは無視なさるの」
ぬめるような女の声が座敷簾の向こうからした。美しい若い声だった。髪が濡れたように黒く、女は左近の体にまとわりついている。夢なのか、それとも現実なのか、はたまたその狭間にいるのか分からない。
「無視なされるのはよくないわ」
けれど、左近には彼女が見えないのか、彼は一心にパソコンの画面に向かって目さえ合わさない。女は痺れを切らせたように、怒りを顔に現すと、瑞穂の胸の上に乗った。
「確かに可愛い人ね。あなたさまがお気に入りになるのも分かるわ」
瑞穂の顔をのぞき込むように女が言って重みが増し、苦しくなった瑞穂は『うっ』と息を飲む。すると、キーボードを叩く音がぴたりと止んで、左近がこちらを向いた。
「降りた方がいい。小松さまがお帰りになったらただではすまないぞ」
「あら、やっとわたくしに気付いてくれた」
女は嬉しそうな声を上げ、急に瑞穂の体が軽くなった。
「今宵は抱いてくださるのでしょう」
「...」
「小松さまはまだ戻られませんわ。だから...」
左近のシャツに女の手が入った。
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