サラノキの下で

13

瑞穂は檜の湯船に浸かりながら、だんだんと赤みをましてきた首の痣に手を当てた。

「まったく、なんなんだろう。アイツ」

六原秀盛。嫌みな口先で冷笑する男。威圧的で、おまけに義務で結婚できる前時代の遺物のような頭の持ち主だ。

「ああ、もう絶対ムリっ」

ここのところ口癖になりつつある『絶対ムリ』を瑞穂は口にすると、顔を半分湯に沈めた。こうして風呂場で一人になっていても、キスの感覚が脳裏から離れない。瑞穂はぶくぶくと空気を吐きながら、水の中に沈んでいった。

「ダメだぁ」

苦しくなって顔を上げると、風呂の縁に瑞穂は両腕をあげ

「はぁ...」と再びため息をつく。

考えまい、考えまいと思うほど、男の視線を思い出してしまうのだった。『裸同然』確かにそうだったかもしれない。これからは少なくともあの男の前では服装に気をつけなければならない。

「はぁ...」

今度あんなことをされたら絶対に殴ってやろうと心に誓いながら、なぜあの時、げんこつを喰らわしてやれなかったのかと、腹も立つ。バスで遭った痴漢だって、学生鞄がガンガン叩いてやったことだってあるというのに、あんな男になぜ遠慮してしまったのか。

「あ、もう!ムカつく」

湯を拳で叩いて水しぶきが上がった。

夕食前に、父に会って絶対になんとかして貰わねば困ることになると瑞穂は思った。左近に言ってものらりくらりと『すみません』で済まされてしまうのだ。小夜子のあの態度にしても、この島の伝統にしても、秀盛の強引なキスにしても、すべてが、彼女の常識からずれている。

「あぁあ」

瑞穂は再び湯の中に顔を沈めた。

——左近さんと結婚だったらよかったのになぁ。

こんな離れ小島の恐ろしく大きい屋敷に住むより、弁護士の夫と東京のお洒落なマンション暮らしの方の方が何倍もいい。駅まで三分の3LDKで百平米の新築。そういうものが、どちらかというと瑞穂の現実的な理想だった。



「左近さん、お風呂出たんですけど、お父さんに会ってもいいですか」

瑞穂は白地に蝶の浴衣姿で、左近の背中を人差し指で叩いて言った。

「瑞穂さま」

驚いて振り向いた左近が書類を落とした。

「すみません」

「いえ」

「よく似合っていらっしゃるのでびっくりいたしました」

「え、あはは。左近さんってばお世辞上手なんですね」

書類を手渡した時に指先が触れ合って、耳まで赤くなった瑞穂に左近が微笑んだ。

「あの、それで父には?」

「申し訳ありませんが、先ほどお休みになられました。目が覚めたらお会いになるとおっしゃられていましたので、後ほどお呼びいたします」

「そうですか...。でも、わたし、できれば早く会いたいんです」

「お気持ちは分かるのですが」

「お父さんは、もしかしてわたしと会いたくはないとかじゃないんですか」

「そんなことは...」

「だったら」

「申し訳ございません」

瑞穂は左近が何かを隠していると感じた。昨日から体調を理由に面会を断られているが、小夜子とは父は会っているのだ。いつもの左近の『申し訳ございません』に何度も流されている瑞穂ではなかった。

「左近さん、お父さんは、ヒドいです。勝手に結婚しろとか言うくせに、会ってもくれないなんて」

「すみません」

「わたし、絶対いやです。あの六原秀盛と結婚するなんて」

「何かあったのですか」

「何もないですけれど...。人間には相性とかあると思うし...。それにわたし、別にあの人が好きって訳じゃないんで、結婚なんて絶対ムリなんです」

そう瑞穂がはっきりと言うと、左近は顔色を急に変えた。彼女の腕を掴んで、さっと空き部屋に引っ張って行って引き戸を閉める。

「さ、左近さん?」

「いいですか、瑞穂さま。決してそんなことを言ってはなりません。誰にどこで聞かれるか分からないのですから」

左近は声をひそめていたが、その調子には厳しいものがあった。

「この前、皆様の前であのようにおっしゃられたのは、急な話に気が動転していたからだと、理由がつきますが、今もそんなことを言われては、瑞穂さまのためにはなりません」

「で、でも」

「遺産のことでもいろいろと身内の中でも言いたいことを言う人がいるのです。結婚まで約一年の婚約期間があるのです。それまでどうか、私にお任せください」

「左近さん...」

瑞穂は俯いた。お金も土地もいらないから、東京に返して欲しいと言いたいけれど、左近が瑞穂を思って忠告してくれているのだから、何も言えない。

「本当に申し訳ございません。瑞穂さまのお気持ちは十分に分かっております」

「ごめんなさい」

「特に夜は本音を言ってはいけないという言い伝えがこの島にはあるんですよ」

謝った瑞穂の肩に手を置いて、左近は顔をのぞき見ると、片目を瞑ってみせた。

「明日の朝にでもゆっくりお話を聞きましょう」

「は、はい」

夜には、もしかしたら六原家に繋がるお手伝いさんが来ているのかもしれないと瑞穂は思った。

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