落陽記
落陽記
99
激しく生きる。
雄元はその言葉が好きだった。あるがままを甘受する生き方ではなく、自分に決めた方向に進んで行く。それを『激しく』と形容するのは美しい。武人の彼にはそういう生き方が特に好ましいと思う。
雄元はだから興軍が動くのを待つのではなく、前軍に河を渡らせた。後には引けない戦いをしなければならない。嵐のように速く前に進む必要があった。
こちらが河を渡り切りそうな頃に興軍は動き、前軍が怯み出した。雄元は自軍を叱咤させようと強く鼓を打たせ、中軍を前へ前へと押し込んだ。西を見れば、丘の上で西夷の兵が悠々と戦を見物している。
―下衆どもがっ
悪態を心の中で吐くと、雄元は中軍にも河を渡るように命じた。丘の上からその様子を見ていた伊士羅の目には、陶雄元の率いる兵の戦いぶりはまるで大鯨が河の中で暴れているかのように見えていたことだろう。人の波は、動濤をつくり、対岸の興軍へと押し寄せていく。
激しく―。
雄元は何度も同じ言葉を呟いた。何人斬ったか分からない。ただ自分の前を阻むものは斬ってゆくのだけだ。玉兔と絽陽の王宮から逃げ出そうと手を取ったときに感じた思いと感覚をとにかく貫くねばならないと、剣が折れると槍を握って前へと彼は進んだ。
*
「陶羽。琥珀、そろそろね」
玉兔は左右の臣を見た。前方にいる黒充夏(こくじゅうか)が頷いて見せた。玉兔は再び飾り弓を引いた。しかし今度は対岸の興軍へ向けて射る弓であった。女の手ではそこまでは到底届かないので、陶羽と琥珀がそれぞれ左右からそれに手を貸した。
二人の男は息を合わせ、瞳を閉じた玉兔は、祈りを矢に込める。河の向こうから聴こえてくる男たち声や、武器がぶつかり合う音が彼女の耳からは消え、静寂と空白が広がった。誰かが掛け声をかけたわけではない。それなのに、三人は同時に手を放した。
放たれた矢。
銀の鈴が高い音を立てた。
そのまま天を射てしまうのでないかと思ったほど、その矢は青い空に吸い込まれ、やがて陰を伴って地へと向かった。中軍も前軍も追い越して、それは興軍に届いた。興の将の一人がその不思議な矢を見上げ、そしてそのうつくしさに逃げるのを忘れた。
「いくわ」
「はっ」
金烏宮で行われる秘められた儀式のように、玉兔は厳かな音で鼓を打った。黒充夏が河を渡り始めた。玉兔の馬も水に足をつける。冷たいと思ったのは一瞬のことで、すぐに身体は熱気に温められた。前方で戦う雄元の熱が伝わってきたのだ。
前軍はすでに岸に上がって、興軍を押していた。
玉兔は『ゆけ!ゆけ!』とひたすら男たちに叫んだ。逃げようとした自軍の兵を見つけると、左手にもった鞭で顔を打って行く。
「退くものは斬る」
断固とした意志が、眉間の花鈿に表れていた。
しかし、後軍が岸に上がり切ると、興軍は形勢を変えて玉兔たちの方へと兵を差し向けて来た。玉兔は唇を噛み、雄元は後ろの異変に気付いたが、前から次々に押し寄せる兵の波に身動きができない。
「公!」
首級を挙げようとする敵兵の剣が玉兔の前に煌めいた。楊琥珀は一人の敵を押さえた。陶羽が短刀を投げた。馬からどさりと落ちた敵将にほっとしたのもつかの間、あらたな敵が現れる。玉兔はそれを寸でのところでかわし、研ぎすまされた剣をその腹に両手で差し入れた。
「お見事です」
「見くびらないで」
玉兔は強がってそう答えたが、あとどれぐらい保つか分からない。息が上がる。琥珀が『中軍の方に向かってください』と叫び、陶羽と玉兔は、雄元の方へと向かった。残された道は前進あるのみなのである。
が、再び二人は敵に囲まれる。陶羽が三人倒し、玉兔が一人斬った。気付けば陶羽の腕には真っ赤な血がにじんでいた。
案じた玉兔に陶羽は大丈夫だと笑って見せた。しかし、そんな彼の笑みも玉兔に二人の男が襲いかかっているのを見つけると一瞬で消え、彼は馬の腹を蹴った。一人を剣で刺し殺したが、もう一人は防ぎきれない。
―李敬健殿!
陶羽は天を仰いだ。
雄元の宿命を代わりに受けた李敬健。この戦いに参加するときに、陶羽は李敬健の運命を自分が引き継ぐのだと誓った。その運命が今、ここにある!
「陶羽!陶羽!」
気がつくと女の声がした。
空が青かった。雲がゆっくりと東に流れて行く。
泣きそうな顔の女。
泣かないで欲しいと思った。
「馬鹿よ。馬鹿」
「......」
身体に刺さったままの剣。手に黒々とした血が付いた。ああ、自分は死ぬのだと陶羽は思った。
「泥......」
「陶羽しっかりして」
「泥だ」
彼は急におかしくなった。李敬健の運命もまた泥の上で死ぬことだったのだと思うと笑いがこぼれてくるのであった。天の命じる宿命とはなんと皮肉なものだろうか。
「我が君。敵に首を挙げさせずにあなたがお持ち下さい」
そう言ったのは、もしかすると、陶羽にとってはじめての恋の告白でもあったのかもしれない。
誰でもない玉兔に彼は自分の命を絶ってもらいたかったのだ。彼女と出会ってから素直に自分の想いというものを肯定できずにいたが、今、陶羽は恋というものに受け入れた。お前を抱きたいと告げるのと同じ感覚で、俺を殺してくれと言う。
『いやよ』と言いそうになった言葉を玉兔は飲んだ。代わりにぽろりぽろりと三粒の涙が玉兔の頬をつたって、陶羽の顔に落ちた。『さあ、はやく』と陶羽の指がやさしく頬を拭った。年も変わらぬ玉兔と陶羽。反目し合った時もある。それでも、こうして今、共にいる。
「またいつか、逢いましょう」
玉兔は剣を白い空に掲げた。