落陽記
落陽記
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「それはなんだ」
陶羽は臭いを放つ壺を馬に乗せた琥珀に訊ねた。
「お前には関係ない」
ぶっきらぼうに答えた琥珀に腹を立てた。
「将軍から西夷に気をつけろと言付かっている。いまここで、西夷王と散策している我が君の身体を横抱きにして陣に戻っても俺はかまわないのだ」
「将軍がね。それはなかなか勘がいい。これは西夷王からの贈り物です。西夷で人質となっていた安敬公子(あんけいこうし)の首の塩漬けと言ったらお分かり頂けますか。我が君が女の身で公になるには、安敬公子は邪魔です。ですから、私が西夷王に首を乞うたのです」
「お、お前」
琥珀はにやりと笑って見せた。
「西夷は安敬公子を擁して寧の君主にさせるのも可能であったのに、あっさりと首を渡した。西夷は我が君を公であると認めたのです」
陶羽は生唾を飲んだ。
「寧の正当な血筋は、我が君だけになったのですよ」
楊琥珀とはこういう男なのだ。玉兔を君主の座に据えるためならば、旧主の血筋を断ちもする。雄元が西夷と手を組もうとしていないのに、影でこそこそと手を回し、西夷を懐柔しようとするとは大胆不敵である。
「ほめられた行為じゃないな」
「陶羽殿のおっしゃるとおりですね。だが心配の芽は早めに摘んでおくことが一番」
鈍く冷めたい光が琥珀の瞳から放たれた。
「そろそろ夜が明けます。興軍に見咎められる前に、我が君には陣に戻って頂かなければ」
陶羽はその言葉に東を仰いだ。白々し始めている。
「戦は今日だな」
「そうなるでしょうね」
陶羽と琥珀は河岸をあるく二人の君主を見つめた。まるで戦などそこに存在しないような穏やかな空気。柳に凭れる玉兔に何かをささやく伊士羅。そこだけ切り取れば、ふたりは恋人同士に見える。
「将軍には報告できないな」
「別にかまいませんよ。どうせ知られることです」
「俺の首が飛ぶ」
「西夷王は八万の兵を連れて来ています。黙っていて後で将軍に知られるより、先に陶羽殿から申し上げた方がいいでしょう」
「西夷は興と我が軍の戦いを見物しに来たのか」
「まさか。陣を敷いて興を牽制して我が君に恩を売りたいのでしょうし、戦況が将軍に分が悪いようなら我が君を奪う気でしょう」
「......なるほど」
「しかし我が君は九つの太陽。決して誰のものにもならない。そこのところを実のところ誰も気付いていない」
冷静沈着に『誰のものにもならない』と琥珀が言い切れるのは、彼の玉兔へ抱く気持ちが、雄元や伊士羅とは別物であるからであろう。陶羽は心のどこかで納得はいかずに反発したい気持ちを抱えた。
「将軍が自ら王を名乗り、九つの太陽の巫女をそれに利用しようとしたのなら、西夷は間違いなく将軍の首を狙いに来たはずです。しかし、将軍ではなく、かの姫君が君主の地位に上れば、西夷王は弓を引くことはできない。将軍はなかなか頭がいい」
夜が明け始めた。朝霧が晴れてしまえば、向こう岸にいる興軍に二人の姿はやすやすと見つけられる。陶羽は馬に跨がった。西夷の臣もそれに倣って動き出した。
「さようなら」
「またお会いしましょう、姫。いや、寧公でしたね」
二人は別れを告げた。
伊士羅は鷹を呼び寄せて、玉兔の肩に乗せた。
「あなたを私の代わりに守ってくれるでしょう」
玉兔は北へ、伊士羅は西へと馬の首を向けた。