落陽記
落陽記
96
「嫌だ、まだ寝ているわ」
陶羽の朝は朝と呼ぶには早かった。
人の声がして、夢うつつの中で少年が鞭の先で自分の額をつついていた。
「我らだけ行きましょう」
畏まっていた後ろの男が声を掛けると、『でも』と言って少年が一層強く鞭を顔に押し付けた。陶羽はそれが煩わしくて手で払うと、鞭が空を切る音がした。
「無礼だわ」
陶羽はそこでようやく、自分は夢の中にいるのではないことに気がついた。少年の横柄な口ぶりが誰かを思い出させたのである。
「ぎょ、玉兔公主」
半身裸で寝ていたことも忘れて陶羽は飛び起きた。すでに公主ではなく、公であるというのも失念した。
「置いて行くわよ」
くるりと身を返した玉兔。鎧姿が既に板について、口紅と額の花鈿がその白い顔を飾っていなければ女と分からぬほど。だが、そこに妖しさがある。陶羽は起こさなかった白救を怒鳴りつけながら、男装の女などにうつつを抜かす自分を否定した。
―馬鹿らしい
呟きと共に彼は鎧に袖を通した。
それもこれも戦で女が他にいないからだと思うことして、白救から鞭を奪うように受け取ると、大股に大地を踏み出した。
「遅い」
玉兔の機嫌はすこぶる悪かった。とばっちりを受けたらしく、雄元が夜着のままで少し離れたところで腕組みをして見ていた。陶羽なしで玉兔が行こうとしたのを止めたに違いない。それは雄元の楊琥珀への信用の低さの現れでもあり、陶羽への信用の厚さでもあった。
陶羽は申し訳ない気持ちで軽く雄元に頭を下げると馬に飛び乗った。
「遅くなりました」
既に馬を進めていた玉兔に陶羽は追いつくと詫びたが、それは無視され、代わりに琥珀から小言が飛んできた。陶羽は内心むすりとするのを止められなかった。しかし雄元から直接命じられたのに、寝過ごしたの自分である。陶羽は『これが最後です。今後このようなことは二度とありません』ともう一度頭を下げた。
「二度とないとは申されますが、これが戦なら寝過ごすなど許されませんよ、陶羽殿」
「もういいわ、琥珀。それぐらいにしてやって」
何かもっと言ってやらねば気がすまぬといった風の琥珀を玉兔は宥めて、陶羽に笑みを見せた。機嫌が悪くなるのも簡単だが、けろりと忘れてしまうのも彼女らしかった。
白い馬に白い鎧。馬が土を蹴る度に彼女のまわりは香しい匂いが漂う。
白という色は死を思わせる色ではあるが、かんなぎであり天帝の子である玉兔には最も似合う色だと彼女の後ろを追いかける陶羽は思った。それは金烏公子も好んで使った色ではあるが、玉兔の方がその何倍も相応しい。
「河が見えて来た」
猿が近くにいるのか、悲しげな高い声が響いた。か細い柳や葦を微かな風が動かしながら、幽暗とした河の流れに侍っている。
玉兔は馬から降りた。枯れ葉が割れて音を立てた。
足下のおぼつかない玉兔の助けるように楊琥珀が手を貸し、彼らは河の水辺に近づいた。朝霧が、視界を覆う先に濁った黄色い水があった。陶羽は普段それを汚れていると感じるものだが、今朝は清らかなものと感じるのはそこに玉兔がいるからだろう。
彼女は恐る恐るその水に手を触れた。まだ凍るように冷たい。河伯を呼び出すなどと言ってみたが、どうやったらいいのか玉兔にも分からぬらしかった。河伯という水の神は女を好み、毎年生け贄を望むという。それならば、自分が水に入れば出てくるかもしれないと、玉兔は鎧を脱ぎ出した。
「いかがなさるので?」
「水の中に入る」
「この寒空で水に浸かるのは正気ではございません」
楊琥珀は止めたが、一度思い立ったら玉兔は聞かなかった。陶羽もそれに反対した。河の神とは貪欲である。美しい女子供をその深い水底に引きづり込もうと常に機会をうかがっている。
しかし、そんな二人の男の言葉をはね除けて足を水に入れた玉兔を止めたものがある。天に弧を描がいている鷹であった。隷に違いないと思った玉兔。琥珀から弓を奪った。片目を瞑って狙いを定めた。
「それは射ないでください」
誰かが声をかけた。振り向いたそこに碧眼の男がいた。後ろに十数人の蛮族の供を連れていた。
「伊士羅っ(いしら)」
玉兔は叫ぶと、陶羽がその手を掴む前に走り出した。殺気立つ陶羽や白救に対して、楊琥珀はわざとらしい驚きを顔に表しているだけであった。陶羽はこれが彼によって計られたことだと気がついた。
「どうしてここにいるの?」
「あなたが公になられたと聞いたので会いに来たのです」
「興を攻めるの」
「知っています」
伊士羅は手助けしたいが、それを雄元がよしとしないだろうと告げた。玉兔も彼の助力はありがたいが首を振った。彼が自分に何を求めているか十分知っているからである。
「私に助けを求めないなら、河伯などを頼む必要などないですよ、瑶凛(ようりん)姫」
「なぜ?」
「神籍にいるとはいえ、河伯にもまた欲がある。助力する代わりに河伯が望む物をあなたは捧げることはできないからです」
玉兔は首を傾げた。
「姫はいまだ巫女なのでしょう」
「ええ......」
「陶雄元将軍とは面白い人のようですね。そして私も」
やさしく微笑んだ伊士羅。思わずつられて微笑んでしまいそうな、そんな慈愛を玉兔は感じた。
「私はあなたがどう戦うのかここで見ていましょう」
「......」
伊士羅が陶器の壺を楊琥珀に手渡した。酷い臭いに顔を歪めた玉兔が、『それは何?』と訊ねる前に『さあ、少し歩きましょう』と伊士羅はその手を引いた。、幼い時と同じように僅かな間の二人だけの穏やかな時間が河畔に流れたのであった。