落陽記

 

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四万の男たちの中に紅一点とは不思議なものであるが、玉兔が率いるこの軍は彼女に染められて、どこか明るさを伴っていた。それは何事にも絆されない自由な彼女の気質がそうさせるのかもしれなかった。


それはたとえ河水の畔で興軍が待ち構えているという報告を永明(えいめい)によってもたらされても同じで、その数六万と聞いて震え上がる兵を奮い立たせるように玉兔は鼓を打った。雄元が打つのとは違う、高い音の波長が、空気が清め、男たちの心に響き、殺伐としかけた兵の気が落ち着きを取り戻したのであった。


「かつて太古の昔には巫女を裸にして鼓を打たせ、邪気を払ったとか」


黒充夏が物知り顔に言ったが、それを横で聞いた陶羽はさもあらんと頷いた。


「興軍との間には一舎ある。河水を今日越えてこないなら、将軍は今夜は兵を休ませるだろう」


そして陶羽の予測通り、雄元はその夜は早めに宿営させた。


将軍に集められた陶羽、黒充夏、呂雲、楊琥珀、永明など重臣たちはそれぞれ独自の配陣の仕方を説いたが、どれも雄元をしっくりさせるものがない。李敬健の持つ美しいまでの戦術を考え出せる人間はそうはいないのである。


「自分ならこうするではなく李敬健ならどうするのか、考えてみて欲しい」


雄元はそう助言したが、皆、余計頭を抱えるばかり。夜遅くということもあり、疲れて顔を机につけていた玉兔が瞳だけ持ち上げた。


「そんなの無理よ。李敬健は頭が良すぎたの。お前たちがいくら馬鹿な頭数を揃えても無理なものは無理」


「なら、我が君ならどうされるのです」


雄元は嫌味を込めて玉兔に訊ねた。文句だけ一人前なら寝ていてくれた方がましである。


「公はお疲れなのです。御寝遊ばした方がよろしいでしょう」


琥珀が助け舟を出したが、玉兔は額を机に張付けたまま動かなかった。


「玉兔、寝ろ」


雄元が『我が君』と呼ぶのを止めて玉兔の頭に手を置いた。


「ねえ。河伯の力を借りれないかしら」


「河伯?あの河水の神の白龍か?」


「そう。興に捕らえられていたし、味方してくれるのじゃない?水攻めできれば、こっちのものよ」


「......」


「私は寝るわ。明日の朝、河水に行くから兵を貸して」


玉兔は瞼を擦りながら立ち上がった。呂雲が『敵兵もいます。あまり河畔に近づくのはいかがなものかと』と諌言したが、彼女の耳には届いていそうになかった。


「ほっとけ」


雄元は玉兔を追いかけようとした呂雲に言った。彼女一人いなくなっただけで幕内は静まり、いままで玉兔の気に染められていたのが、今度は陶雄元の雰囲気に包まれる。青く落ち着いた気の色であった。


「河伯がどうのとかは、まあ天に祈るぐらいの気持ちでいてもらいたい。戦は愚かな人間の行いだ。加護があったとしても、なかったとしても我らの手でなさねばならない」



結局その夜はながながと幕議が行われ、呂雲が前軍、雄元が中軍、黒充夏が後軍を指揮することに落ち着いた。ただ一人、陶羽は決定に不満そうであったが、意義を唱えぬだけ大人になった。


「まずは場数を増やすことだな」


肩を叩いた従兄に陶羽は一礼をした。興軍であれば家柄を重視し、陶羽に名前だけでも指揮させ、呂雲や黒充夏を副官に付けただろうが、ここには身分などは必要はない。実戦でどれだけ成果を上げることができたかが勝負。雄元の身内である陶羽も同じである。


「悪いが、明日の朝、我が君を楊琥珀とともに護衛してもらいたい」


「畏まりました」


「このあたりは西夷もときどき現れる場所だ。注意するように」


楊琥珀は寧の臣であり、雄元の臣ではない。万一、西夷が現れたとき、親西夷の琥珀がどう出るのか雄元には予想はつかなかった。もちろん、興の兵もこちらの様子を窺いに河を渡っているだろう。憂慮すべき事柄は山のようにある。


「ゆっくり休め」


雄元は陶羽を送り出すと、自分の営に戻らずにその足で玉兔の営に向かった。『我が君』と昼の間呼んでいても、夜は『玉兔』と呼んで誰がそれを咎めることができようか。



「寝たか......」


暗闇の中で彼女の白い肢体だけが浮いていた。まだ、暦の上だけの春。冬のなごりはそこかしこにあった。抱いて眠るのにちょうど良い大きさの腰。草原をつきぬけて行く風の音が、ふたりの夜を小さく縮めた。

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