落陽記
落陽記
92
冬も終わりに近づこうとする頃、平邑に砂塵が白く立ち上がり、待ちに待った寧からの兵が蹄を轟かせて郡都の西門を潜った。
雄元と玉兔はその様を高楼から眺めていた。白地に金糸で刺繍が施された寧の公主の衣を、師団が連れてきた風が巻き上げて、飾りの鈴を小さく鳴らした。玉兔は目元の初々しさを隠すように感情を奥底に伏せ、金剛石の指輪をはめた指を高欄にのせたまま西風に身を任せていた。
「春になる前に動けそうだな」
「悪くない風が吹いているわ」
「玉兔、寧の君主になる覚悟は出来たか」
雄元の手が玉兔の手に重なった。
「さあ、いまのこのどきどきする気持ちを覚悟と言うのなら」
玉兔は乱れ髪を耳に挟んだ。寧の地が彼女を呼んでいた。大地に落とした涙と血が、土に返り、春を待っているのである。若草色がやがて深い碧の色となり、やわらかな花をその枝に咲かせる季節となる。
「将軍、寧より三万五千の兵が到着したとのことです」
「三万五千?」
「五千は寧を守るためにやもなく置いて来たとのことです」
永明(えいめい)は音も立てずに現れると、二人の後ろに跪いて報告した。四万の計算でいたのが、五千足りずに雄元は少し眉を険しくしてどうしたものかと考え込んだが、金維央(きんいおう)が息を切らせて階段を上って来た。
「将軍!陶羽さまが絽陽より到着いたしました」
「陶羽が何しに来たというのだ」
雄元は陶羽のことである、王の命で絽陽からわざわざ諌めに来たのであろうと思った。しかし、金維央は興奮で赤らんだ顔を横に振った。
「陶羽さまは黒充夏殿を伴って五千の陶家の兵を率いて将軍に御加勢になられたのです」
「本当か!」
雄元は喜色を表した。
「どうやら風向きがよくなったようだ、玉兔」
玉兔の手首を掴むと、雄元は高楼の階段を駆け下りた。風にのって玉兔の白い衣が宙に浮ぶ。寧から来た兵が、貴人に気付て慌てて道を開け、波がひくように頭を下げていった。ふたりはその黒い人垣を泳いだ。
「陶羽!」
雄元の声が響いた。振り返った陶羽と黒充夏(こくじゅうか)。二人とも薄汚れた顔をしていたが、将軍の顔を見て疲れた顔をしまって、白い歯を見せた。
「よくきてくれた」
拝手した二人の武将の肩に雄元は手を置いて言った。無表情に真面目ぶった黒充夏に対して陶羽は、よほど従軍がきつかったと見えて、涙ぐんだ。
「将軍もよくぞご無事で」
「ああ」
雄元は見慣れた自分の精鋭の兵を見回した。この五千の兵は一万の力を持っている。興との戦いは厳しいものになるに違いないが、今まで生死をともにして戦って来たこの男たちさえいれば、前途は明るい。
「紹介しよう。我が君、寧公だ」
玉兔は雄元の言葉を訝った。そして自分のことを雄元が『寧公』と呼んだと知って瞳を丸めた。それは紹介された陶羽と黒充夏も同じで、二人は戸惑いで顔を見合わせたが、すぐに跪いて手を胸の前で合わせた。
「微力ではありますが、公にお仕えしたく馳せ参じた次第です」
陶羽の言上に玉兔はなんと答えたらいいのか分からなかった。代わりに雄元が、
「公が祝宴を夜に用意してくれている。それまで休んだらいい」と二人を立たせた。
玉兔は急に怖くなった。雄元に今まで言いたい放題『お前は私の臣下』などと言ってきたが、まさか彼が本当に玉兔より上の地位に置くとは思ってはいなかった。寧史上、いやこの中華の地で初めての女が覇王に立つことになる。
玉兔はその不安を手に込めて袖から出すと、雄元の掌を握った。彼の大きな手がそれを握り返した。『案ずるな』と言われたと感じると、玉兔ももう一度それを強く握りしめたのであった。