落陽記
落陽記
9
雄元は玉兔の額の月の内側を塗りつぶすと満足顔に筆を置いた。そして『乾くまで眉を寄せるな』と両手を顔の前に広げてみせた。玉兔は唇だけ尖らせて外を向いた。
「将軍、李敬健さまがお着きでございます」
「そうか、こちらに通してくれ」
「おや、見違えましたね、将軍」
「黙ってさえいれば、可愛いのだけどな」
敬健は、部屋に入って来ると直ぐに着飾った玉兔に気づきそれを誉めたが、雄元の言葉に彼女は腹を立てたのか、無言で袖を払うように化粧箱を床に落とした。
「黙っていてもどうでしょう......」
敬健は雄元と顔を見合わせ苦笑した。あまりにも子供じみた玉兔の抵抗はどうも憎めない。
しおらしく泣くなり、命乞いをするなりしてくれれば気も重くなって、こちらもさっさと片付けてしまおうと思うのに、ここまで誰に対しても態度を改めることなく横柄に振る舞える人間はそうはいないのであるから、敬健は感心さえしてしまう。
だから雄元が面白がって手元に置いているのだと、その気持ちを敬健も分からないでもない。
「私はまだ誰にも報告しておりません。お気に召したのならこちらに置いておけばよろしいのに」
「ははは。人の生気を吸い取らないという保証があるのならな」
「それは分かりかねますね」
扇を半分広げて雄元に耳打ちしてみたが敬健の提案は一笑された。
あまりに玉兔が人じみた性格であるために、九つの太陽という希有な存在であることを敬健は忘れてしまっていた。雄元が冗談めかして戒めたのだと気付いた彼は、つまらぬ戯れ言を軽々しく口にすべきではなかったと、自らを恥じ、緩んだ顔を引き締めた。
そういう緊張は雄元にも届き、二人の間で、小さな沈黙が生まれた。
「お前」
だから、次の話題を捜そうと二人が茶を一口ずつ口にしたとき、玉兔が敬健を指差して呼んだことに双方とも感謝したぐらいだった。
「私ですか?公主。大変申し訳ないのですが、その『お前』と呼ぶのはおやめください。私には『李敬健』と言う名前がありまして、興国ではそれなりの地位にあるのでございます」
「無駄だよ、敬健。俺でさえも未だに『お前』呼ばわりされている。この絽陽じゃ公子だって道を開ける俺をな。それを先にどうにかして欲しいよ」
「お前達、私の話を聞きたくないわけ?」
「眉間に皺が寄っているぞ」
玉兔がため息を漏らした。そして『もういいっ』と短気を起こしてしまったので、敬健が『聞いて上げましょう』と雄元に目配せをしてやる。
「玉兔なんだ、何が言いたい。言え」
「私が親切心を起こしてやったのに。そういう態度にでる人間には何も言いたくない」
「申し訳ございません、公主。いかがしたのでございますか?」
相変わらず尊大な態度の玉兔に腹を立てた雄元は『ほっとけ』と敬健の顎をしゃくったが、玉兔が自ら話したがることなど、初めてのことであったので、何を言い出すのか好奇心もあって敬健は下手に出て訊ねてやった。
「お前、相が悪い」
しかし、出てきたのは相の話で、『不細工だ』と言われているわけではないのであるが、一瞬呆気にとられた。
「相が悪いとは敬健に無礼ではないか」
雄元が諌めてくれたものの、相手が玉兔であるために、聞き流すことも出来ない。
「相が悪いとはどういうことでございますか?」
「知らない。ただ、悪い相をしている。悪いことが起きるのではないの?」
「はぁ......」
少しは具体的にどのような悪いことが起きるとか、どう悪い相をしているのかぐらい、普通の人相見程度に説明してくれれば親切なものを、投げやりに『悪いことがおきるのではないの?』と言われてもこちらが困るばかりである。
「どうしたら災いをふせげるのでしょうか」
「そんなことを私が知ってたら、寧は滅びなかったでしょうが」
「それは一理あるなぁ、玉兔」
「将軍、感心することではございません......」
雄元は他人事で笑っていたが、敬健からしてみれば真剣な話題。玉兔公主のやる気のない予言に振り回されるのはまっぴらだが、何か方法はあるはずだ。
「なんとかして下さい」
「知らない」
「知らないとはなんですか、公主!あなたが言い出したことでしょう!」
「雄元、この男を黙らせて」
玉兔が初めて雄元の名を呼んだ。彼女は無意識だったにしろ、名を覚えてくれていたのかと、少し驚き、そして彼は口の端を上げた。
「玉兔、これほど敬健が言っているんだ。何か方法とかまじないとかはないのか?」
軍師の割に意外に迷信深い敬健に助け舟を出してやると、玉兔は『まじない?』と少し考え込んだ。