落陽記

 

9章

89


陶羽は朝霧が視界を遮る中を北に向かっていた。


彼は李敬健の魂が自分に乗り移っているような錯覚に襲われる時がある。それは陶雄元の部下であった兵を秘かに集め説得した時や、こうして黙々と馬車を御している時に起こる。




「将軍の部下を説得した時の陶羽さまの姿、お父上にお見せしたかったものです」


陶羽の従者である白救(はくきゅう)が手綱を交代しながら言った。


雄元の新鋭として常にその戦場に供した五千の兵は、初め陶羽が雄元のいるであろう哲郡に行くので付いて来いという言葉を信じなかった。それもそのはず、陶羽は陶勝林の息子であり、何度も王に対する雄元の非礼を諌めたことがある。



「信用ならない。騙して目障りな俺たちを消すつもりなのだろう」


呂雲に並ぶ陶雄元の片腕として知られる、黒充夏(こくじゅうか)という男がと顎をしゃくった。


「騙してなどいない。李敬健殿が王に殺された。平邑に向かった将軍に寧に駐屯している興軍を送ったことが知られたからだ」


が、それに対して陶羽は怒るでも感情的になるでもなく、それはまるで李敬健が乗り移ったように答えた。


以前の陶羽ならば、そういう切り返しは出来なかった。だが、李敬健の死から、若さゆえにふつふつと溜まっていた鬱憤や不満が、潮がひいてくかのごとくに静かに消え去っていき、代わりに冴えた知覚と冷静な思考が心に満ち始めたのである。


それを陶羽自身は李敬健の魂が乗り移った思っているのであるが、実際のところ、李敬健という忠臣の死をきっかけに、彼が子供から大人へと本格的に移り変わっているだけなのであった。


「興国のために今まで命をかけて戦って来た将軍をこの国から追放したのは他でもない興王だ。俺は興にはつかない。親父を裏切ってでも天命ある将軍につく」


陶羽の言葉に場が静まり返った。


「今夜出発する。俺は一人でも平邑へ行く。李敬健殿は死の間際に『私は興の臣ではなく、陶雄元の臣である』と言った。俺もそれに倣いたい」


確信に満ちた声は自信と揺るぎなさを表していた。黒充夏(こくじゅうか)の心を動かしたのは、陶羽の言葉以上にその態度であったのかもしれない。





「白救、あとどれぐらいで着けるのか」


「数日しましたら河を舟で北上します。通常ならあと十日ほどは掛かります。ですが、ここにいるのは陶雄元の精鋭ばかり。夜昼なしで七日で行けましょう」


「いや、六日だ」


陶羽と白救の後ろから夜の闇と同じ色をした馬とともに黒充夏が現れた。


「将軍は供を三人しか連れいていない。一刻も早く、我らは将軍に追いつかねばならない。六日で行く」


陶羽は『無理だ』と言いそうになった口をつぐんだ。黒充夏(こくじゅうか)がやると言えば、この男は死人を一人や二人だしても強行軍を強いて目的を達成するだろう。陶雄元の臣とはそういうものである。


「充夏、では指揮はしばらくお前に任せよう。俺は着いて行くだけでも足手まといになりそうだからな」


白救が目を広げた。常に先陣を切りたがるような性格の陶羽が、指揮を黒充夏に任せたのが意外であった。


「そんな顔で見るな」


「しかし、黒充夏にお任せになってよろしいので?」


「ああ。場数が違う。任せておけば間違いない。俺が指揮して八日掛かるよりいいだろ?」


「大人になられましたなぁ」


白救が目頭を押さえたのを陶羽は頭を掻いて笑った。さっきまでの大人びた顔を忘れて、子供のような照れた笑い方であった。


「あとは雨や雪になって河の流れが速まらないこと天に祈るだけか」


陶羽は空を見上げた。そして九つの太陽のかんなぎである玉兔を想った。天帝の子であり、陶雄元の想い人でもある。そんな女のことを考えるだけで罪なことかもしれない。しかし、雲が空にあるのと同じだけ当たり前に、陶羽の心に玉兔は存在した。


―将軍もあの女も無事だといいのだが


雪は深い。追っ手を恐れて山路で行った雄元たちは難儀しているはずである。女の足では辛いはず。


あと六日。いや、五日半で平邑へ行ってみせると陶羽は誓った。

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