落陽記
落陽記
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「怪我をしているのだろう?見せてみろ」
「なんでもない」
沢の畔で布に水を当てていた玉兔に雄元は声をかけた。脚を怪我しているらしいが、玉兔は見せようとはしない。傷を見ようとした雄元の手を彼女ははね除けた。
「強がるのもいいかげんにしろ」
「強がってなどない」
雄元が無理やり玉兔の脚を引き寄せると、彼女は顔を歪めた。
「ほろみろ。筋を痛めたのだろう」
「......」
大人しくなった玉兔。雄元はその脚を隠していた衣の裾をくった。白い脚。まるみをおびた曲線。うつくしいと雄元は思った。
「少し血も出ているな」
筋を痛めただけでなく、石か何かにぶつけたのだろう。すねを僅かに外し、足の内側に血がにじんでいた。
「これぐらいなんでもないわ」
玉兔は恥ずかしさから雄元から自らの脚を奪い返そうとした。だが彼は放さなかった。つややかな肌の弾力を確かめるように唇をそこに落とした。そして玉兔の真っ赤な顔を見上げた。
「これぐらいで恥ずかしがるとはな」
そういう余裕の雄元に腹を立てた玉兔が拳を上げた。が、それは簡単に彼に掴まれてしまう。顔を背けた玉兔の耳元に雄元はささやいた。絽陽の王宮での夜のこと。そして供の目を盗んでのこの旅の夜。それらは曖昧でいて官能な関係を十分玉兔に分からせるだけの事実があった。
「忘れたわけではないだろ」
「知らない」
玉兔は雄元の腕から逃れようとした。枯れ草の上を二人はもみ合うように転がった。いつの間にか体勢は逆転し、雄元が玉兔を見下ろしていた。
「怖いのか」
日は天にある。日中の玉兔は太陽のかんなぎとして、天帝の目を恐れていた。
「お前には自分の運命が視えないのか」
「視えないわ」
玉兔には自分に関わる全てが視えなかった。まるで薄い絹を張りめぐらした帳の中にいるように不確かなのである。
「だが俺には視える」
「一体何がお前に視えるっていうのよ」
ただの人間である雄元に運命など視えようはずもないと玉兔は思った。軽々しく運命を告げるものでもないし、それを視えるなどと言うことすら天帝やかんなぎに対する不敬であるとさえ感じた。
「俺にはな、寧が視える。寧の草原も、寧の王宮も視える。俺はお前を寧に連れて行くだろう」
「......うそよ」
「うそではない。俺には視える。お前との約束を果たしたら、こころをくれると言ったのを忘れていはいまいな」
「......」
「約束を果たしたら、寧で俺はお前のこころを貰う」
雄元は玉兔の前髪をかきあげると、そこに自分に額を重ねた。
雄元の顔が一瞬太陽の光を遮った。微笑んだ顔。
再び日が戻った。白い光。その日差しがいくぶん力を増したように玉兔には感じた。
「これでいいだろう」
雄元は、寝転んだままだった玉兔の脚に薬を付けると言った。彼は手を差しのべて立つように促されたが、玉兔はそのままでいたかった。雪は数日降っていない。乾いた空気に水の流れる音。すべてがやさしさに包まれているようであった。
「あ」
玉兔が空を指した。雄元は振り返った。
「神獣だわ」
白い龍。
「河伯かしら」
河伯は黄河にすむ神と言われている。白い鱗を瞬かせて、悠々と空を泳いでいた。
「河伯は金烏宮に祀られていたはずだが......」
「河伯が?」
「ああ。河伯を祀る種族である莢(きょう)という小国を興が滅ぼした時、その祭祀権を奪ったのだ。他の神獣たちと河伯も金烏宮に捕らえられていたはずだ」
「隷だわ」
玉兔にはそれ以外考えつかなかった。隷が金烏宮に張りめぐされていた呪縛を解き放ったに違いなかった。
「雄元、急ぐわ。一刻も早く!」
「玉兔?」
玉兔は脚を引きずって走り出した。興という国は、征服した国の祭祀権を奪い、その民を従えて来た。祖先の霊や神を取り上げられた遺民たちは興国に従う他なかったからである。しかし今、隷が金烏宮に集められていた各国の神々やその祖先の霊を解き放った。頭を地に付けて従う他なかった各地の遺民たちから反乱が起こる。
「興国は中からそして外から滅んでいくわ」
雄元は玉兔の言葉に、彼女の身体を横抱きにして坂を上った。時というものは常に波がある。それに乗り遅れてはならない。
「呂雲!呂雲!」
「将軍、いかがなさいましたか」
「馬だ!馬をひけ!」
雄元の血相を変えた様子に呂雲だけでなく、琥珀も驚き腰を上げた。
「平邑まで馬を潰しても駆けるぞ!時間がない」
「は、はい」
雪がまだ所々残る草原を馬は飛ぶように駆けた。