落陽記

 




老婆が無言で朝早くに玉兔の体を執拗に揺すぶった。まだ寝足りぬ彼女は寝返りを打ってその手をのけた。



「うるさい」


玉兔(ぎょくと)の寝起きは悪い方である。何日かぶりかの寝台での睡眠となれば尚更であった。


体に触れる老婆を強かに突き飛ばし、再び瞳を瞑った。そしてふと、自分がどこにいるのか考えてみた。


恐る恐る開いた瞳。


そこには寧の宮とは趣の異なる黒い柱が囲む螺鈿の寝台の天井があった。男が弓を持ち天に矢を放つ神話が七色に輝く貝であしらわれている。その向こうで贅を尽くした透き通るうすものが日の光を遮り窓際に揺れていた。



「お着替えくださいませ。朝餉の用意もできておりますので」


床に平伏す老婆は何かに怯えるように言った。その大仰な畏怖に玉兔は眉をしかめながらも、公主らしい尊大さを取り戻し、身を起こした。


「お着替えくださいませ」


同じことを繰り返し言う老女。


だが、その背の向こうの円卓の上に湯気をあげている朝餉にしては豪華すぎる食事を見ると、玉兔の空き腹が鳴った。まともな食事は道中何も食べていない。干し肉やら干した穀類のみであった。彼女は、老いた女官が着替えを持って待っているのも無視して椅子に座った。


「何を見ている。さっさとして」


「はっはい。申し訳ございません」


玉兔の態度に呆気にとられていた女官は、慌てて粥をよそった。白く眩しいまでに光る米粒。玉兔の口の中が酸っぱくなった。しかし、目の前に置かれた椀とともに添えられた箸を見たとき、彼女の顔は曇る。白い象牙の箸で、花の細工が施されている明らかに女ものである。


彼女はそれには手を付けずに取り分けるのに使われていた木製の箸をとった。長くて使い辛いが、黙々と皿を次から次へと空にしていく。




「すごい食べっぷりだな」


からかうような声が笑った。玉兔がちらりと目をやると、雄元が腕組みをして入り口にもたれて立っていた。旅の間見慣れた物々しい武具を身につけた姿ではなく、冠に緩やかな絹の二藍の深衣を着ている。


馬に乗りやすい胡服に鎧という姿も武人には雄々しいものだが、元来中原の人である雄元にはこういう装いの方が似合う。それは本人もたぶん知っていることで、無精髭を綺麗にそり上げて、優雅な視線を向けた。



「おっと。危ない。危ない」


だが、そういう雄元の姿に玉兔は苛立って、空の皿を投げ付けた。雄元は、わざとらしくそれを交わして両手を上げて見せた。そして勧められていないのに玉兔の前の席につくと、象牙の箸を取り上げて食事をつまみ出したのだった。


玉兔の瞳がぎろりと向けられた。


「おや?人の食べ物を勝手に食うなという顔だな?」


口に肉入れ、雄元は白い歯を見せて笑った。


「お前はいつもそうなの?」


「何が?」


「その箸」


「これか?何が変なのだ」


それまで無視し続けていた玉兔が口をきいたかと思うと、箸のことで雄元は首を傾げた。だが玉兔は嘲るように笑っただけであった。


「それより玉兔。着替えたらどうだ?凄い顔だぞ」


「うるさい」


「年頃の姫が色気より食い気とは悲しいことだな。寧の着る物は古くさい。興のは華やかで若い女にはいい。髪飾りも流行のものを用意させておいてやったぞ」


「興の衣など着ない。お前らに恵んでもらうぐらいなら死んだ方がましだわ」


「やれやれ」


首をすくめて見せて雄元は『困ったものだ』と同意を求めるように女官に苦笑を向けたが、それほど困っているようでもなく、まるで玉兔の言葉を見通していたように別の衣装を持って来るように言いつけた。



「王に謁見するのだ。少しは見られたものにしないとならないだろ?」


運ばれてきたのは寧の衣で上が薄黄の大袖の衫(さん)。


興では活動的な短い袖が普通で刺繍などで華やかにしているものだが、寧ではそういうことをせずに織りに凝り、そして襟に金糸を使っている。そしてその下に裙(くん)を身につけ、床まではう披帛(ひはく)を肩掛けて飾る。


茶を啜りながら雄元が玉兔の着替えをずっと珍しげに見ていた。


一方、玉兔の方は男が女の着替えに席を立たないことに腹を立てていたのだが、言葉でいくら言っても聞かないことはもう分かり切ったことなので、だだ鋭い視線で抗議するのみである。


「まあ、そう怖い顔をするな。そうだ、寧の宮女はなにやら赤い点を眉間に描いていたがあれもしたらどうだ?」


「......。それは花鈿。赤いのは女官。公主は青と決まっている」


「青か。そう言われてみれば青い蓮をお前が付けていたような気がする」



少し思い出そうと雄元は腕組みをし、化粧箱から筆をとった。


「眉間に皺を寄せるな」


「寄せるなと言われてもお前が存在する限り寄るわ」


玉兔は息も届くほどの距離に雄元が近づいたので思わず身を引いて言った。が、そんなことにお構いなしの雄元は、ずるりと椅子を引きずって彼女額にゆっくりと筆を置いた。ひやりとした感触とともに玉兔の身体の中心を何かが走る。



「どうだ?」


手渡された鏡の中を玉兔が覘くと、額に月が描かれていた。


「玉兔は兔(うさぎ)なのだから丁度いいだろう?」


それなら満月でも描けば良さそうな物を細い弦月があり、それは彼女の蛾媚に似ていたのだった。


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