落陽記

 

8章

78


冬の旅は厳しい。


年を越し、雪が深くなると彼らはなかなか思うように前には進めなくなった。そのうえ馬が一頭雪の中で動かなくなり、雄元は玉兔を馬から下ろすと自分と相乗りさせ、彼女の馬を臣に与えた。


「腹が減ったか」


空腹に耐えられずに、腹を鳴らした公主に雄元は訊ね、呂雲から尽きかけている食料を出させたが、玉兔は頭(こうべ)を振った。


「いらない」


「気にするな。あの三人は十日は食べずとも塩と水だけで生きて行けるように出来ている」


「いらないと言っているの」


生まれてこのかた空腹など一度も経験のないはずの玉兔が辛抱強く言った。過酷な旅のせいで、もともと細かった彼女の身体は次第に細くなっていくのを、雄元が気付かぬはずはない。


「今日はもう休もう。呂雲、屋根のあるところを探せ」


「はっ」


このまま旅を強行してもいずれ玉兔は病になる。雄元は焦る気持ちを抑えて、その夜の仮の宿を求めた。


しかし、このあたりは昨年農民の反乱があった場所。雄元が『皆殺しにせよ』と命じたとおり、人の姿はなかった。もちろん全ての人が戦で死んだわけではなく、飢饉の酷さに耐えられずに南下したものや、戦火を恐れて離れたものも多い。


そのため、空き家を探すことはそれほど困りはしなかったが、食料は殆ど手に入れることは難しかった。時折、市をのぞいてみるが、怪しげな肉などが秤の上に乗っているばかりで、玉兔に食べさせられそうなものはない。


自然、弓の名手である呂雲やもう二人の臣、永明(えいめい)と金維央(きんいおう)が釣りや狩りに出てその日の糧をえた。


「しばらくあのあばら屋でお待ちください」


「ああ」


雄元は玉兔を馬から下し、永明に頷いた。呂雲は玉兔と将軍の護衛に残るらしく、形ばかり屋根のある小屋に馬を繋いだ。


「お疲れのようですね......」


足下のおぼつかない玉兔を見て、呂雲は小声で雄元に囁いた。


「ああ......、公子隷に預けて来ればよかったかもしれない」


「この雪です。数日ここに留まるのも良いかもしれません」


「治安が心配だ。夜盗なども多い」


「公主は少しばかりの膳もいつも残されます」


「あれは寧の宮廷作法だ。少し多めに皿に食べ物をのせてやれ」


「畏まりました」


呂雲が頭を下げた。雄元は頷くと、玉兔の方へと歩き出したが、彼女は雄元がその腕をとってやる前に雪に滑って転んだ。


「大丈夫か。手をかせ」


「お前の手など借りたくないわ」


雪をかぶった頭のままで玉兔は彼の手を払いのけた。公主をここまで強がらせるのは、心配をかけまいとするせいであるのを知っている雄元は、そんな玉兔に何と言ってやったらいいのか分からない。


「薪を探してくる」


やさしい言葉を探すよりも、手っ取り早く雄元は雪に剣を突き刺して背を向けた。


そして一度だけ振り返った。赤切れた手を地につけて玉兔が立ち上がった。呂雲も遠くからそれを心配げに見つめていた。指甲套をはめ、長い髪に髪飾りを挿し、玉を首から下げた姫の影はもうどこにもなかった。


しかし、ひもじくて泣くような女ではない。


きっと一緒にこの旅をしたのが公主蓮杏(れんあん)あたりならば、今頃道に座り込んで死にたいと叫んでいただろう。だが、玉兔は唇を噛んで立っている。


大地に落ちた白い雪。それに瞳を落として、黙ってそれを玉兔は食んだ。冷たくて顔を歪め、もう一口、雪を食べる。


それを見た雄元は剣を取りに大股で雪の道を戻った。近くの民家を襲ってでも、玉兔に何かまともなものを食べさせなければならない。彼は自分の中からわき上がる怒りを止められなかった。王に渡すか、隷に預けて来れば、彼女は食べることに不自由しながら雪の中を連れ回ることもなく、敬われて過ごしていたはずであった。


自分本意な理由で彼女を自分の運命に引き入れてしまったのではないか。それは本当に彼女のためであったのだろうか。後悔は彼を非常に惨めに、そしてどうしようもない無力感に陥れる。


「どうしたの?」


「すぐ戻る」


雪にさしたままだった剣を雄元は腰に戻した。玉兔はただならぬ彼の様子に慌ててその手をとった。


「ここにいて」


「......」


「天の味がするの」


玉兔は掌を広げた。小さな雪の団子。


「ここにいてちょうだい」


雄元は指を伸ばしてそれをつまむと口に入れた。


土の味がした。


「天の味などしないではないか」


「したわ」


見上げた玉兔の頭を雄元は自分の胸に押し付けた。目頭が熱くなるのを見られたくなかったからである。口に残った土のざらつきが彼を苦くした。


「......象牙の箸で朝餉を食べていた陶雄元将軍がぶざまなものね」


「お前もそれだけ憎まれ口が叩けるのだ。まだ死にはしまい」


「私は死なないわ」


涙が凍り付く寒さ。雄元は玉兔と同じように唇を噛んですべてを耐えた。

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