落陽記
落陽記
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人間は全て望んだものを得られるとは限らない。時には妥協しなければならないものである。今、雄元に求められているものは、まさにそれであった。
「私にとって将軍のお命こそ、最優先に考えねばならぬことです。忠実な臣として時にはご命令に背いてでも、将軍を守らねばなりません」
李敬健は剣を抜いた。それを合図に彼の配下が部屋になだれ込んだ。
「敬健。お前は何をしているのか分かっているのか」
「どうか、将軍。私めに玉兔公主をお預け下さい。王との交渉はきっとそれで上手く行きます」
「これは裏切りだ、敬健」
「お怒りは最もです。ですが、これは興国のためであり、将軍の御立場のためなのです」
「お前は何も見えてはいない」
「一夜だけ時間を差し上げましょう。どうぞ巫女を人にしてやってください。明日には私が離宮に連れて行きます」
男たちの激しい足音とともに、『はなせ』という女の声が聞こえた。玉兔......。雄元は怒りで震え拳を握った。そして彼女が髪を乱して敬健の配下に連れてこられると、戸は固く閉められた。
「一体これはどうしたことよ」
「知るかっ」
雄元の袖を掴んだ玉兔を振るい払って、彼は暗い室内を歩き出した。
確かに李敬健の言うことは筋が通っている。王や太后は必ず雄元の忠誠の証として玉兔を要求するだろう。保身には必要な犠牲である。冷静になればなるほど、彼の脳裏は冴えたが、彼にとって玉兔は既に半身のようなもの。肉を割いて渡せと言われているに等しかった。
「心配するな。呂雲がそのうち動くだろう」
それは楽観でしかなかった。
だが、そう思い込むことにした。雄元は長椅子に座ると飲みかけていた茶をすすった。酷く苦い味が舌にしみた。
玉兔はそれから口を開かなかった。何を言っても雄元を苛立たせるだけであったし、彼がつとめて彼女の側にこようとしなかったからでもあった。
日が落ちて窓の隙間からでさえ、光がもれなくなると、室外が騒いだが、それはやがて収まり、また沈黙のみが監禁されている二人を包んだ。呂雲が将軍奪回に失敗したのだろうと雄元は見当を付けて舌打ちしたが、どうすることも出来ない。朝になれば、李敬健は玉兔を王のもとに連れて行く。
雄元は迷った。
視線を上げれば、そこに玉兔がいる。後れ毛を気にしながら、肘掛けに身をもたれている姿は艶であり、もしやこの女を抱ける最後の機会かもしれぬと不安が迷いをもたらすのであった。
「玉兔。俺は迷っている」
「......」
「占って欲しい」
「無理よ。こんな真っ暗なところでは。月明かりさえ見えないわ」
「何か方法はないのか」
「何か捧げものが必要ね」
雄元は『なんだそんなことか』と立ち上がると机の中から小刀を取り出した。
「なっ、何をする気?」
「目をえぐる」
玉兔は顔を青ざめた。この男には冗談などないに違いない。慌てて腕にしがみついてそれを止めた。
「お前は馬鹿だわ」
「目はいい。二つある。一つなくても困らない」
「止めてよ、そんなこと。血が出るわ。私、血は嫌いなの」
「ではどうしろというんだ」
「......」
玉兔は取り上げた小刀を握ったまま少し考えると、頭に付けた簪を雄元に手渡した。さらりと崩れ落ちる髪。夜の闇の中でさえ、それは艶やかさは光を放っている。
「玉兔、お前」
「髪はいい。伸びる。なくても困らない」
雄元の口調を真似て彼女は長く伸びた髪を肩のあたりで切り落とした。後には黒い房のような髪と、幼子のような断髪の玉兔があった。