落陽記

 

74


「雄元、起きて!」


「静かにしろ」


うつらうつらとし始めた雄元を玉兔が揺すぶった。


「伊士羅(いしら)の声がしないし、赤い気が絽陽を囲っているわ」


「......」


「嫌な予感がするのよ」


雄元は瞳を開けた。彼には気などというものは視えない。しかし窓をあけると天を仰いだ。


「伊士羅からずっと呼びかけられている気がしていたの。でももうしない。どういうこと?」


西夷が興をいったん諦めたに違いなかった。遅かれ早かれこうなることは分かっていたが、もう少し時間があれば、王をねじ伏すことができた。蘇学が戻って来れば、こちらの形勢は悪くなる。


「敬健はどこにいる」


「外にいたけど。ほらお前の従弟の羽(う)とかいう男と」


「敬健を呼んで来い。そして陶羽はお前が怪しまれないようにしばらく引き止めろ」


「私が?!」


玉兔は将軍に抗議したが、こういう時の雄元は酷く頑固であるのを知っている彼女は、『もうっ』と袖を払って出て行った。靴の銀の鈴をちりちりと鳴らして駆けると、回廊を歩いている兵たちは顔を伏せて道を開けた。そして皆、彼女が通り過ぎるとそっとその背を目で追わずにいられなかった。



「玉兔公主、いかがされたのですか」


人の視線を集めて息を切らせていた玉兔に敬健(けいけん)の方が先に気付いた。一緒に立ち話していた呂雲が、肩で息をする姫に瞳を鋭くした。


「どうも、こうも、雄元が呼んでるわ」


「将軍が」


「そう。急いだ方がいい」


敬健と呂雲は怪訝に顔を見合わせた。


「あの陶羽って男も引き止めろって。どこにいるの?」


「まだ宮殿内にはいるでしょうが......」


「呂雲、引き止めてきて。私がお茶に誘っているとでも言って」


呂雲は頷くと部下に命じて陶羽を追った。そして李敬健もまた略式の拝手を残して玉兔の前から姿を消すと、彼女は胸騒ぎに目眩がした。周りにいた李敬健の配下の兵が慌てて抱き起こしたが、不安で彼女の胸は苦しいままだった。






「お呼びとうかがいました」


李敬健は雄元の部屋の戸の前で、一度息を整えてから室内に入った。酷く孤独な将軍の背が逆光の中にあった。


「ああ。西夷が引いた」


「それは確かなことで?」


「さあ。それはお前が調べろ。玉兔の勘だ」


窓が閉められ、急に暗くなった。黒の机に茶器が置かれ、白いそれは茶が注がれると李敬健の心の色に変わった。


「いかがなさるおつもりで」


「和解する以外はないだろう」


「西夷が引いたと知らせが離宮になされる前に終わらせなければなりません」


絽陽に王は御還し、雄元は軍の実権を失う可能性は高かった。


「お訊ねしてもよろしいですか」


「......。なんだ」


「王は和睦の証として蓮杏さまをお寄越しになるでしょう。お受け取りには?」


「致し方ない」


「では代わりに玉兔公主を王にお預けになれますか」


「......」


人質の交換は絶対に必要なことである。特に今回の亀裂が表面上、玉兔が原因であることを考えれば、雄元に選択の余地はない。渋っている間に蘇学が帰京すれば、困るのは雄元であった。


「あれは巫女だ。王に九つの太陽は渡せない。それぐらいなら西夷にくれてやる」


「......将軍、巫女ではやれぬと言うのなら、純潔を汚し普通の女にしてから王に渡せばよろしいでしょう。それならば、王に巨大な力をやらずにすみます」


李敬健の言い分はもっともな話だったが、雄元は首を縦には振らなかった。


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