落陽記

 



「姫さまはたいそうお疲れのご様子で、お休みになられました」


雄元(ゆうげん)が湯に浸かり長旅の垢を落とし、寧の酒を注がせていると先ほど年老いた女官が玉兔のことを腰を曲げて報告した。


「そうか。明日の朝、離宮に連れて行く。身の回りの物を用意しておくように」


「はい」


普通ならそこで会話は終わり、女官は退出するものだ。しかし、まだ何かを言いたげに、伏せていた目を上げる。


「どうした?」


「あの......。姫さまのお湯のお世話をしたのですが......」


「ああ。あの鎖骨の下のあれのことか?」


『そうだ』という代わりに女官は頷いた。その瞳には恐れと好奇心が入り交じり、長く生きてきた者だけが持つ人間の見えない物への畏怖をその面に表していた。


「黙っていろ。着替えも全てお前がするのだ」



何も雄元が説明する必要はなかった。


説明しようにも彼にも彼女のことをどう話していいのか分からない。だから椅子から立ち上がり、戦の旅でそうしたように酒壺を抱えて外へ出た。


丸い月。


笛を取り出して、酒飲みによい曲はないかと指を当てた。


しかし出て来るのは月に掛かる薄雲のような調べ。厭世的になるような男ではない。きっとまた一つ国を滅ぼし、自邸で気が抜けただけにちがいないと、絽陽の夜空に物寂しい響きを込めた。


雄元は、ひんやりとした夜風が袖をかすめていくのを感じながら、『お前は泥の上で自らを滅ぼす』とい玉兔の予言を思い出した。


武人として泥の上で息絶えることは名誉なことではないかと思う。


草原を走り、英雄として興の人に慕われる。ただそれだけが彼の野心だった。



「将軍、陶丞相(とうじょうしょう)様がお見えでございます」


遠慮がちな声が闇の中から聞こえた。


「お通ししろ」


少しばかり憂愁に染まりすぎた自分を持て余していた雄元は『俺は疲れているのだ』と呟いて、心のどこかで招かれざる客の来訪に感謝した。そして襟の乱れを直すとすぐに一人の男から陶雄元将軍の顔に戻ったのであった。



「夜分遅くに申し訳ないね」


「お呼び立て下さればよろしかったのに。叔父上」


「いや、怪我をしていると聞いたものだから構わない。」


叔父はゆるりと室内に入ると上座をしめ、雄元の怪我の具合を訊ねた。彼はそれに『大した傷ではないのです』と言いながらも、武勲のように腕の傷を見せた。


「西夷にやられたというではないか」


「はい。油断しておりました」


「お前の帰国を急がせたのもそのためだ。ここのところ西夷の勢力が拡大している。北の国境はかなりの緊張状態だ」


「寧にやった軍も二日もすれば戻ってまいりましょう。ご心配には及びませんよ」


「また戦になるやもしれん」


帰国早々に次の戦のことを持ち出され雄元は顔をしかめた。


これでは休む暇もない。国は確実に領土を広げてはいるが、将軍である自分が疲れを感じるほどであるということは、徴兵される民はいかほどであるか。


「そなたの言いたいことは分かっている。しかし、みすみす西夷の侵略を放っておくわけにもいかない」


「王はなんと仰っているのですか」


「『滅びるも吉、栄えるのも凶』とお言葉を賜った」


「はぁ......」


「王の言葉は天の言葉だ、雄元」


天の言葉と言われても、王の投げやりな物言いに雄元は失望した。栄えるのが凶であると言うならば、そのために命をかけて寧で戦ったことは無意味となってしまう。


「叔父上、出来るなら他の者に北へはお遣わしいただきたい」


「......」


「私の軍には陶家の私兵も含まれております。これ以上疲弊させるのは、いかがなものか。それに西夷との戦いとなれば、他国との戦の仕方とは異なります。かなりの痛手を覚悟して始めなければ終わりのない長い戦となりましょう」


「うむ......」


「とにかく、叔父上がなんと言おうが、しばらくは動くつもりはございませんので」


言葉は丁寧であったが、雄元の語気は強いものだった。*丞相であろうが、一族の年長者であろうが、この件では一歩も引く気はなかった。陶丞相も髭をいじりながら、ひとしきり黙って考え込んだが、将軍が動かないというものを動かすことは無理だと判断し、『では考えておくだけ考えておけ』とだけ言いおいて席を立った。

                                                                               *丞相=宰相


「ゆっくり休め」


「ありがとうございます」


「ところで、寧から公主を連れ帰ったと聞いたが?」


見送りに戸まで見送ると,ついでに思い出したように叔父が言った。地獄耳のくそ爺めがと雄元は舌打ちしたが、顔には出さずに『面白い女でしたので、気まぐれです』とだけ告げた。


「そうか」


とだけ丞相は答えたが、雄元はもしかしたら叔父は何かを知っているのではないかと勘ぐった。


「お気をつけて」


「うむ」


頭を下げながら、玉兔を離宮に確実に明日には連れて行かねばならないと雄元は思った。

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